無私を得ること
「教育に携わる者にとって,最も重要な行為は,『人の心に火を点ける』ことである.一旦,魂に『点火』すれば,後は止めても止まらない.それでは,どうすれば点火するのか,点火装置は何処にあるのか.それは『驚き』の中に在る.」
吉田武『虚数の情緒』
『2014年なろう冬のレビュー祭り!』(http://ncode.syosetu.com/n2007cl/)
の編集作業が終わりました。リンク先に飛ぶと、実に様々なレビュー、批評の数々を観ることができるでしょう。私は今までで延々と自らの理論を述べて参りましたが、「習うより慣れよ」とも言います。選り取り見取りにレビューを観るうちに、自然と感覚が掴めてくるのではないでしょうか。当企画のなかでも、私を含め、様々な人が好い作品とは、批評とは、レビューとは、と書いています。こちらの方が読者に対してフェアーなので、読み応えがあるでしょう。
さて、これも最終回にしたいと思います。そろそろ書くこともなくなってきましたしね。
最後の話題は、一転して「教育」のことになります。
批評のことなのに教育? と思われる方もいらっしゃるでしょうね。しかし両者はかなり近しいところがある、と私は思っています。それは、批評家及び教育者は、「無私」でなければならないと云う点であります。
例えば、歴史の授業があります。織田信長についての内容だったとしましょう。彼は天正十年に本能寺で死にます。しかしこんなことを「知る」だけなら、教員は要りません。教科書を読めばいい。
それが教育者の口を借りることで、非常に魅力的に見えることがあります。それは、俗に本能寺の変と呼ばれる事件を、聞いている側が、まるで直に観ているかのごとく、「体験」しているからです。「体験」というのは、要するに「活きた感触」として、自分の心のなかで想像されることです。この「活きた感触」がなければ、人は気付かないし、驚かないし、したがって感動しない。感動がなければ、それは憶えられない。直ぐに忘れてしまうのです。
知識を能く憶えるということは、いつでも思い出せるということと同義であります。しかし思い出すとはどういうことでしょうか? 思い出される対象とは、常に過去のこと、もう無いことです。端的に言うと死んだものであります。先人の知恵というものは、つまり死んだ人から伝わる知識です。それが口頭によって、文章によって伝えられ、憶えられているということは、知識が生き返るということなのです。つまり、学問とは、知識とは、能く思い出されることによって初めて活きた知恵となり、人を感動させるのです。雑談がユニークだとか、そういうものでなく、本当に身のある授業は、教えられる内容が、あたかも自分の心のなかで生き生きとするものなのです。
批評も同じです。面白い批評というものは、その中身を読むことで、対象が生き生きを見えてくるようなものを指してそういうのです。もちろん分析はしっかりしなければならないでしょう。しかし、分析だけがしっかりしていても好い批評にはなりません。それはただの取扱説明書であり、無味乾燥のつまらないものだ。好い批評とはその文章のなかに作品を甦らせる力を持っているのです。自分の内側で生き生きとならないものを、どうして相手に生き生きと伝えられましょうか?
生き生きと中身を伝えること。それが批評家として、教育者として必要なことであります。しかしそれを成し遂げるためには「私」を無くさねばなりません。織田信長が好きだとか、嫌いだということを、歴史の教員はいったん置いておかなければならないように、批評家はそこでいったん自分を傍に除けなければなりません。しかしそういう「私」を無くすことによって、初めて自分の個性、審美眼が表れるのです。仏教では、前者の「私」を「小我」と言います。こうしたものを徹底的に批判し尽くしたところに、初めて「大我」、つまり本当の個性が表れます。それを見つけるのが批評の極意であります。こういう次元にまで達することができれば、批評は成立し得るのです。
結論を急いだかもしれません。好い教育者、批評家とは、つまるところある種の「霊媒」の役割を担います。作品や知識のスピリチュアルな本質を、自らの肉体を通じて再生させる。これが真実であります。しかしよくよく考えると、好い物語作者も、偉大なる芸術家もまた、このように「無私」を持っているものでしょう。彼らの物語や芸術は、己語りではないからこそ、途方もない普遍性を持っているのです。偉大なる芸術家の告白は、一見己語りに見えるけれども、そのなかでどれだけ自分を過酷に批判していることか。かつて、夏目漱石は「則天去私」を理想にし、ドストエフスキーは「謙虚」の徳を最も重んじた、とありますが、まさにこういったところに、本当に個性的な作品はできるのでしょう。一見個性的に見えるものは、個性などではない。つまらない自我である。これを知ることがあらゆることの始まりに立つことです。
最後の最後でだいぶ有耶無耶になったのは否めませんが、まあこれで終わりにします。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




