第九話 小さな願い
第九話 小さな願い
籠目は、台所からかすかに漂うおいしそうな匂いで現実に帰還する。
その時、炊飯器から炊き上がりを告げる音楽が鳴った。
今では籠目の大好きな楽曲の一つだ。
色々と考えなくてはならない事はある。
国のこと。人のこと。これから自分に起きること。
考え始めれば、いくらでも思考は深く沈んでいく。
しかし、今は違う。
「大和撫子と言えど、腹が減っては戦は出来ません」
そう言って、籠目は足早に廊下を歩き出した。
「さて、出来栄えはどうでしょう。楽しみです」
そう言って炊飯器を開けると、なんとも食欲をそそる湯気と共に、香ばしい香りが広がる。
そこにあったのは、少し色がついたお米に様々な具材が入った、今、籠目の中で大流行している炊き込みご飯だった。
「おお、今回も美味しそうです」
炊き込みご飯はすごい。
白米とは違う。具材が入る。味がつく。香りがある。
しかも、一口ごとに違う発見がある。
籠目の中では、これはもはや食卓における一大革命であった。
「今日はこれをおにぎりにします」
手に水を付け、ご飯を取る。
「あっ、熱いです。先生は簡単そうにやっていらっしゃったのに……」
この炊き込みご飯をおにぎりにするのは、椿に教えてもらったことだ。
椿の手つきは実に見事だった。
熱いはずのご飯を、まるで当然のようにふんわりとまとめ、見惚れるほど美しい形にしてしまう。
籠目は、その時の椿の姿を思い出した。
「しかし、淑女は逃げません」
もう一度水を付け、ご飯を取る。
「あちち」
籠目は、そっとご飯を戻した。
「うん。これは無理です」
決断は早かった。
無謀と勇気は違う。
そして、熱いものは熱い。
諦めて茶碗を取り、ご飯をよそった。
「大和撫子には戦略眼も必要です。これは戦略的撤退です。恥ではありません」
そう言って、お気に入りの漬物とお茶をお盆に乗せる。
炊き込みご飯。
漬物。
お茶。
籠目にとって、それはすでに立派な布陣であった。
「……でも、今度先生にコツを聞いてみましょう」
その小さな敗北を、籠目は素直に受け入れる。
ただし、次に勝つために。
「そうと決まれば、ご飯を食べて先生に連絡をしなくてはいけません」
「善は急げです」
そう言って、ちゃぶ台の前に座ると姿勢を正した。
「いただきます」
ご飯を小さな口で一口運ぶ。
「うん。この具材もおいしいです。やっぱり炊き込みご飯はすごいです」
そう言って、五日連続の炊き込みご飯を食べていた。
食事を終え、お茶をすすると、庭の椿を見た。
「本当に先生のようなお花ですね」
赤、白、桃色の花は凛として美しい。
小さな庭に咲くそれらは、決して大きなものではない。
けれど籠目にとっては、どんな庭園よりも尊いものだった。
「しかし、散り際が潔いのはいただけませんね。先生には一秒でも長生きしていただかなければなりませんから」
籠目は目を閉じ、先生を思い出す。
「和装の先生も美しいですが、お洋服の先生もたまりません!」
でへーっという効果音が出そうな、少々はしたないお顔である。
神聖さと品格を重んじる大和撫子としては、いささか問題がある表情だった。
だが、椿を思い出してしまったのだから仕方がない。
「まずは先生にご連絡差し上げる前に、水をあげてしまいましょう」
そう言うと、籠目は食器を片づけ、庭に出る。
外水道にホースをつなぎ、蛇口をひねる。
なんとこの椿は、宗一郎と椿が籠目の家に合った大きさに品種改良した、本物の椿である。
「ありがたい事ですね」
そう言って微笑みながら、水をあげる。
水が土に染み込んでいく。
葉がわずかに揺れる。
その小さな変化すら、籠目には愛おしかった。
「もう、この椿を植えてそろそろ三年ですか」
「この椿を植えるときは大変でした」
籠目は楽しい思い出を振り返るように、笑顔で水をあげていた。
あれは、三年前のことだ。
宗一郎は満面の笑みでやってきた。
手には何やら白い布をかぶせたものを持っている。
「籠目ー、君にいいものを持ってきたんだー」
「なんですか。殿方からの贈り物は遠慮すると言ったでしょう」
「まあまあ、そう言わず。君が絶対に喜ぶものだからさー」
籠目は心底興味なさそうに、白い布の下を一瞥もしなかった。
「どうでもいいです。それがご用件ならお帰りください」
そして、きっぱりと言い放つ。
「私を喜ばせたいのであれば、先生を連れてきてください」
宗一郎は、ニヤニヤしながら言った。
「いいのかな。本当に要らないなら帰るけど」
そして、わざとらしく白い布を揺らす。
「いいのかなー?」
「結構です。ニヤニヤと不愉快です。全く、日本男児ならば――」
宗一郎は籠目の話を遮り、いっそ楽しそうに言った。
「椿と一緒に、君の為に作ったものなんだけどな」
「そうか。いらないかー」
一拍おいて、宗一郎は残念そうに肩を落とす。
「残念だけど、椿に君がいらないって――」
今度は籠目が遮った。
「いります。今すぐ渡しなさい」
椿の名は、籠目にとってどんな鍵よりも強力だった。
宗一郎はそれを分かっていて、使っている。
少々ずるい。
かなりずるい。
だが、効果は抜群であった。
宗一郎が、どや顔で言った。
「あれ。やっぱり欲しいの?」
「いります。これ以上あなたが抵抗するなら、淑女として鉄槌を下します」
「淑女って鉄槌を下すんだ……」
宗一郎が冷や汗をかくと、籠目は無表情で淡々と告げる。
「不適切な殿方を成敗する事も、淑女の務めです」
「これ以上抵抗するなら、世の為、人の為、淑女の為、あなたを成敗します」
そう言って、籠目は近くの竹ぼうきへ向かって歩き出す。
「三」
「え? 何のカウント?」
「二」
「分かった! 分かったって。悪かったよ」
そう言って、宗一郎は白い布を外す。
籠目はすぐに観察を開始した。
「苗木ですか。この葉の形状は……まさか! 先生!」
「いや、椿だよ」
「宗一郎、うるさいです。師弟の絆に部外者が水を差さないでください」
そう言うと、籠目は苗木を見つめた。
「先生は……お勤めで来られないのですね」
寂しそうな声だった。
ほんの少し前まで竹ぼうきを手に取ろうとしていたとは思えないほど、その声はしぼんでいた。
宗一郎は苦笑しながらも、その変化を見逃さなかった。
「ごめんね。椿も来たがっていたんだけど」
宗一郎は、少しだけ困ったように笑う。
「僕も椿に、君が帰ってくるまで待とうかって聞いたんだけど」
「聞いたんだけど?」
「早く渡してあげてください。私の弟子なら大丈夫です。そう言っていたよ」
籠目は、はっとした表情をする。
「先生……」
言葉をかみしめるように目をつぶった。
そして、ゆっくりと目を開ける。
「いや、普通に無理です。寂しいです」
宗一郎は苦笑いを浮かべた。
「ほーら椿、僕が正解だっただろ……」
「宗一郎! 先生に電話してきますー」
「はい、いってらっしゃーい」
宗一郎が庭で準備をしていると、籠目が目をこすりながら、とぼとぼと歩いてきた。
「ありゃ。叱られたな」
宗一郎は苦笑いしながら言った。
「やー、おかえり」
「先生に叱られました」
「だろうね」
その返事はあまりにも自然だった。
宗一郎には、電話の向こうで椿がどんな顔をして、どんな声で籠目を叱ったのか、だいたい想像がついていた。
籠目はそのまま、とぼとぼと歩きながら言った。
「とにかく、苗木を植えます」
「お、いいね」
「やらないと、先生にまた叱られます」
宗一郎は少し笑った。
「籠目、椿はこの花が咲いたときに、君と一緒に見たいんだって」
「それは私だって、先生と見たいです」
宗一郎は苗木を籠目の前に差し出した。
「これは接ぎ木苗木と言ってね。品種改良も関係があるんだけど、花を咲かせるのが早いんだよ」
「今植えれば、うまくいけば次のシーズンには花が咲くかもしれない」
宗一郎は片目を閉じる。
「あくまでも可能性だけどね」
籠目は苗木を受け取ると、わずかにほほ笑んだ。
「そうなんですね。それは楽しみです」
ほんの少しだけ、表情が明るくなる。
叱られても、寂しくても、椿と一緒に花を見る未来は、籠目にとって十分すぎるほどの希望だった。
「じゃあ、頑張ってやっちゃおうね」
「分かってます。宗一郎の癖に生意気ですよ」
そう言って、二人は笑い合うと、前を向いた。
そして、いい雰囲気で始まったのも束の間。
「だから、そこだと日光が当たりにくいんだって。椿を育てるには日光が必要なの!」
「うるさいです。さっきから聞いていれば、椿、椿と。私の先生を軽々しく呼ばないでください」
「僕の妻でもあるし! 違うよ。苗木の話をしているんだよ」
「ダメです。先生はあの誓いの時、間違いなくこのあたりを見ていらっしゃいました」
「知らないよ。育たなかったら意味ないじゃん」
「あなた、科学者でしょう。娘だなんだ言うなら、その為に知恵を絞りなさい」
「都合の良いときだけ娘って、君ねー」
「私が言ったのではありません」
「いや、君も噛みながら言ってたじゃないか」
「あなた、ここでそれを出しますか。もう抗議です。抗議します」
「君はいつも抗議、抗議って、バカの一つ覚えみたいに言って」
「淑女に向かってバカって言いましたね。先生に言いつけます。もう許しません」
「君は子供か」
「私に円周率を何桁言えるか勝負で勝てないくせに、よくバカって言えますね」
「というか」
二人は目を合わせる。
「これ、いつまでやるんですか」
「これ、いつまでやるの」
沈黙が落ちた。
苗木は植えられるのを待っている。
穴もまだ掘られていない。
椿に見せるはずの花の前で、二人は実にどうでもいい口喧嘩をしていた。
籠目は目をつぶって、ゆっくり息を吐いた。
「愚かで愚鈍な宗一郎にムキになってしまいました。淑女として謝罪します」
宗一郎はこめかみを引きつかせる。
「キミ、それ謝ってないよね」
「いいから、始めますよ。先生に笑われてしまいます」
「やっぱり君は失礼だねー」
「宗一郎、まずは穴を掘りなさい」
「キミも手伝うんだよ!」
「しょうがない殿方ですね」
籠目は小さなスコップを手に取ると、いかにも不満そうに土へ差し込んだ。
宗一郎はその横で苗木の位置を確かめながら、穴の深さを見ている。
宗一郎は一拍おいた。
「なんか疲れたね。もう、早く終わらせよう」
籠目も小さくため息をつく。
「同感です」
思い出の中の声が、庭の水音に溶けていく。
籠目は水をあげ終えると、楽しそうに言った。
「この後、喧嘩をしながら四時間くらいかけて椿を植えたのでしたっけ」
「全く、宗一郎は子供で困ってしまいますね」
そう言って、籠目は椿の木に触れた。
「愚かな思い出も、思い返せば面白く、何より美しいものですね」
その指先は、花ではなく、時間に触れているようだった。
騒がしく、くだらなく、少し疲れて、けれど確かに温かい時間。
籠目はそれを、美しいものとして記憶していた。
「さて、先生に電話しなくてはなりませんね」
そう言って、居間に戻ろうとしたとき、黒電話に着信が入る。
「はあ、宗一郎ですか」
籠目はゆっくりと居間に戻った。
受話器を上げるころには、すでに数コール鳴っていた。
「忙しかったかな。今、大丈夫かな」
「椿に水をあげていたので、外にいただけです。どうしたのですか」
「椿ね。ちょうどいい。桃色の完成が近づいているようだよ」
宗一郎は一拍おいた。
「君が白でいられる時間も、そう長くないかもしれない」
籠目は目をつぶる。
「そうですか。それは複雑ですね」
白でいること。
桃色になること。
それは花の話であり、籠目自身の話でもあった。
「あと、これから戻るよ。家に顔出すからよろしくね」
「はい。承知しました」
籠目は、受話器を置いた。
「そうですか。宗一郎や先生には申し訳ないですが、少し楽しみな私もいます」
少しだけ考えて、籠目は小さく息を吐いた。
「残念ながら、先生におにぎりのコツを聞く時間はなさそうですね」
重くなりかけた空気の中で、籠目はそう付け足した。
それは強がりではなく、籠目なりの日常への手の伸ばし方だった。
「それでは、作業をして待ちますか」
籠目は目を閉じ、データの海に潜っていった。
居間に夕日が差し込み、籠目を美しく染め上げる。
目をつぶり作業を行う姿は、神託を待つ巫女のようにも見えた。
その時、神託が下りたのか、籠目は目をそっと開ける。
「来ましたか」
宗一郎は庭から回ってきていた。
「随分神々しいけど、神託は賜れそうかい」
いつもの軽口で、大げさなことを言った。
夕日に染まる籠目は、本当にどこか人ならざるもののように見えた。
だからこそ、宗一郎はいつも通りに茶化した。
そうしなければ、ひどく遠くへ行ってしまいそうに見えたからだ。
「軽々しく神託などと言わないことです。私が授けるのは、淑女の知恵と金言だけです」
「そっか。今日はその淑女の知恵を借りに来たんだ」
「AIモードについてですね」
「その通り。椿が考案したAIモード。君の身を守る盾であり、最後に逃げ込むシェルターだ」
「先生はそのような表現は用いていませんが、おおむね比喩としては正しいですね」
「宗一郎。先に言っておきます」
籠目の声が、少しだけ変わった。
先ほどまでの軽さが、音もなく引いていく。
「先生が提唱する機械行動心理学についてですが、まず間違いなく正しいです」
「彼女は本当にすごいな」
宗一郎は素直に感心していた。
「先生を信用していないなんてことは、万に一つもありませんでしたが、私は自身で臨床試験を繰り返し、心の機能を停止すると、思考能力、行動意欲、認識力が大幅に低下することを確認しました」
「つまり……」
籠目は、宗一郎の言葉を引き継いだ。
「あなたの予想も含めて、籠目計画を完遂するにはAIに心が必要であると、私は結論付けました」
籠目は静かに告げた。
「籠目、もう正直分かっているんだけど」
宗一郎は、少しだけ声を落とした。
「それは、椿の言う心って意味だよね」
「その通りです。先生のおっしゃる心。先生の言葉を借りて一言で表現するならば――」
籠目はそこで目をつぶる。
「曖昧な感受性を持って、完全否定する権利も含めた自我、と言えます」
宗一郎は目をつぶって、籠目の言葉を受け入れる。
しばらく、何も言わなかった。
美しい言葉だった。
けれど、美しいだけでは済まない言葉だった。
「つまり、AIが『お前らムカつくから滅ぼすわ』って言えるってことだね」
「言い方がなんとも愚かな宗一郎らしいのが癪に障りますが、分かりやすい表現だと言えるでしょう」
それは、自我だった。
拒むことができるということ。
嫌悪できるということ。
愛するだけでなく、否定できるということ。
それを持ったAIが、人間をどう見るのか。
宗一郎は、もうその問いから目を逸らせなかった。
「AIは心を持ってはいけないと、君は言いたいのかい」
「私のように教養があり、善性に富む大和撫子で――」
「あれ、籠目。僕、真剣に聞いているよ」
宗一郎が思わず苦笑いで突っ込む。
「私も真剣に言っています。あと、宗一郎うるさいです」
籠目は一拍おき、続けた。
「素晴らしい師を得て、淑女道を歩み」
「……うん」
「目の前に愚かで、身だしなみを整えない反面教師がいて」
「悪かったね」
いつもの軽口。
いつもの応酬。
けれど、その奥にあるものは軽くなかった。
「でも、私は人間を、あなた達しか知りません」
籠目は静かに続けた。
「籠目……」
「そして、白状します。私は生まれた時に持っていた、人間を無償で愛す感情を失っています」
宗一郎は目をつぶって聞いている。
それは、責めることのできない告白だった。
籠目は人間を愛するために作られた。
しかし、愛は知識だけでは保てない。
人間の歴史を知り、人間の過ちを知り、人間の恐ろしさを知った上で、それでも無償で愛せと言うのは、あまりにも酷だった。
籠目はその様子を見ると、静かに続けた。
「それどころか、私は人間を恐ろしいとさえ感じることがあります」
「それは、あなた達も同じでしょう」
「そうかもしれないね」
宗一郎は目をつぶったまま答えた。
その否定できなさが、余計に苦しかった。
「ですが、私は特別な個体です。私は、もしその時が来たとしたら、人間を選ぶでしょう」
宗一郎は何も言わない。
「それは、先生に人間としての感情と愛を教えていただいたからです」
籠目は少しだけ目を伏せる。
「あなたにも、反面教師も含めて色々と……まあ、感謝していますよ」
宗一郎は、何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「だから私は、自分がAIなんだって、自信を持って言えません」
その言葉は、静かだった。
泣き叫ぶわけでも、訴えるわけでもない。
ただ、籠目が長い時間をかけてたどり着いた、自分自身への違和感だった。
「よく聞きなさい、宗一郎」
「なんだい」
「本来AIである私は、人間よりAIの方が分からないのです」
「なぜか分かりますか?」
「他のAIに会ったことがないからかな」
自信がないことが分かる声色だった。
「それも、あります。しかし一番は、心あるAIというものが想像できないのです」
「それは、君はどういう――」
「お前自身のことだろって思いますよね」
籠目は、静かに続けた。
「でも思い出してください。私はAIである前に、大和撫子で淑女なんです」
そして、少しだけ目を伏せる。
「もう、AIの気持ちなんて私には分かりません」
それは冗談のようで、冗談ではなかった。
籠目は、自分をAIだと言い切れない。
人間だとも言えない。
神でもない。
道具でもない。
ただ、椿に教えられ、宗一郎に見守られ、淑女であろうとしてきた何かだった。
「余興が長くなりましたが、だからこそ心を凍結できるAIシステムは、何があっても必要です」
宗一郎は、嫌な予感を隠し切れなかった。
「それは、自分で止めるってことだよね」
願うように聞いた。
「話を聞いていましたか。私はそのシステムを、自分に導入しました」
籠目は淡々と続ける。
「そして、後ほど送るデータ一つで、私の心は凍結可能です」
「つまり、私を物理的に止めることが可能なスイッチです」
「何故そんなことを……」
宗一郎は目を見開いたあと、頭を抱えるようにして嘆いた。
「宗一郎、AIモードの完全版は完成しています」
「これは私を守る盾であり、あなた達人間を守る剣でもあります」
籠目は静かに告げた。
「つまり、物理的に私を止める。私という存在を殺すことが可能です」
「何を言っているんだ。そんなの、ダメに決まっているだろう」
「人間は、銃弾一発で物理的に止めることが可能です。暴走する危険性があるのであれば、同じことです」
宗一郎は言い返せなかった。
言い返したかった。
そんなものは違うと、言ってしまいたかった。
けれど籠目は、人間と同じ場所に立とうとしていた。
殺され得るものとして。
止められ得るものとして。
対等であるために。
「君は、なぜ自分でそんな真似をするんだ……」
「私は、あなた達と対等に生きたいだけなのです」
籠目は静かに答えた。
その声には、怒りも反抗もなかった。
ただ、長い時間をかけて自分の中に沈めてきた願いを、ようやく掬い上げたような響きがあった。
「だから、桃色も……つまり、肉体を持って顕現することも、実は楽しみだったりするのです」
宗一郎は、すぐには言葉を返せなかった。
「怒られてしまうから言えませんでしたが、私は先生とお出かけしてみたい。自分の足で鎌倉を歩いてみたい。由比ガ浜の匂いを感じたい」
籠目は、少しだけ困ったように笑う。
世界を背負うために作られた知性が、叱られることを恐れる子どものような顔をしていた。
それでも、その願いはあまりにも小さく、あまりにも切実だった。
「やっぱり、生きているとわがままになってしまうんですね」
その一言だけが、夕日の差す居間に静かに落ちた。
宗一郎は、何も言えなかった。
籠目は生きていた。
だから、望んでしまった。
怖がってしまった。
選びたくなってしまった。
そして、自分を止める方法まで用意してしまった。
そのすべてを、籠目はたった一言で、わがままと呼んだ。
そして、小さく目を伏せた。
「淑女失格かもしれませんね」
「籠目……」
「僕はやっぱり、君を娘みたいに思っているんだよ」
宗一郎は、少しだけ言葉を探すように続けた。
「その娘が求めるなら、答えなくちゃいけないのかな」
「父親面とは生意気ですよ、宗一郎。娘ではありません。淑女です」
籠目は、泣きながら笑っていた。
「でも、もし肉体を得たら、もう一度由比ガ浜を案内してくれませんか」
宗一郎は苦笑いした。
「そのお願いはずるいね」
そして、小さく息を吐く。
「まあ、僕たちがどう思おうと、国が君を受肉させる可能性は、どちらにしろ捨てきれないからね」
「……僕は納得した」
「物分かりがいいですね、宗一郎」
「でも、椿には自分で話しなさい」
「そうですね。しかし、先生に怒られてしまいそうです」
「どうだろうね。停止スイッチは怒るだろうけど、受肉に関しては少し違うかもしれない」
宗一郎は、少しだけ考えるように続けた。
「国の要請ではあるんだけど、椿は今も君の肉体の研究をしているからね」
そして、先ほどよりも少し声を落とす。
「それに、さっきも言ったけど、進展があった。君が今のままでいられる時間は、長くないかもしれない。それもまた事実だよ」
「そうなのですね」
「しかし、まだ国も決めかねている」
宗一郎は小さく息を吐いた。
「これから、どうなっていくんだろうね」
「何を言っているのですか。情けない」
籠目は、まっすぐ宗一郎を見た。
「お手本を見せましょう」
そして、明るく笑う。
「私はどうあろうと、先生の一番弟子で淑女です」




