第八話 美しい科学
第八話 美しい科学
籠目は書斎でコーヒーを飲みながら、報告資料に目を通していた。
コーヒーは椿の勧めで飲み始めた。
最初は苦手だったコーヒーも、今では豆から挽いている。
湯を注ぐ時の香り。
豆を挽く時の音。
椿が教えてくれた、少しだけ待つ時間。
それらは籠目にとって、ただの飲料摂取ではなくなっていた。
もちろん、宗一郎が好んで飲んでいたものだという事実は、やや癪に障る。
それでも、コーヒーの香りは嫌いではなかった。
その時、自宅の通信端末に着信が入った。
籠目は表示された名前を見ると、軽く目をつぶった。
日の丸一道。
内閣総理大臣。
第三次世界大戦後の日本を救った英雄であり、救うために多くを切り捨てた男。
最終プロテクトの解除後、籠目はその意味を正しく知っていた。
一拍おいて、籠目は応答した。
「ご機嫌はいかがかな。籠目嬢」
「良好です。日の丸閣下」
籠目はまるで機械のような返事をする。
声は落ち着いている。
表情にも乱れはない。
いつもの籠目なら、どこかで淑女だの大和撫子だのと、自分の言葉を差し込んだかもしれない。
けれど今の籠目は、ただ国家AIとしてそこにいた。
「この二年強、君が主導した国策はおおむね順調に進んでいる。素晴らしい成果だ」
日の丸は軽く手を叩きながら言った。
「とんでもない事です。私は日本国の為だけに存在しておりますので」
「うむ。素晴らしい」
日の丸は姿勢を改めた。
「さて、今日君に連絡したのは、先日、最終プロテクトを解除したことに関係がある」
「はい。最終プロテクトの解除により、第三次世界大戦以降、低迷する我が国を、閣下がどのように救ったのかを知る事が出来ました」
「君の感想は」
「申し上げます」
籠目は、静かに息を整えた。
資料はすでに読み込んでいる。
数字も、推移も、政策の効果も、犠牲の規模も。
すべて知っている。
知ってしまっている。
「前提として、大国間での資源の再分配戦争に参加していない我が国は、各資源価格の高騰、他国のブロック経済化による貿易不振、準鎖国状態とも言える世界情勢によって、経済先進国ではなくなったどころか、国内には餓死者が出る事態となりました」
「その通りだ」
「さらに危険だったことは、過激派による内戦の火種です。経済危機に内戦まで起きてしまえばどうなるかは、歴史が語っております」
日の丸は片手を差し出して続きを促す。
「閣下は日本再編計画を進めました。白沢宗一郎博士が主導していたAI研究に、国家として想定し得る限界を超えたリソースを振り分け、研究を推進。AIとオートメーション技術による、人の手に頼らない国家運営を目指しました」
日の丸は目をつぶって話を聞いている。
「そして、並行してエネルギー、食料などの資源不足問題を解決するため、一家一人制度を導入いたしました」
「閣下はまず、ご自身で範を示されました。そののち、一家一人制度の施行、さらに刑の厳罰化により、日本の人口は急激に減少し、現在は約三千万人前後で推移しています」
日の丸は頷いた。
「ありがとう。その後は居住地区を集約し、インフラ整備を経て、現在の状況になる」
「はい。その通りです」
言葉は、淡々と進んでいく。
だが、それはただの政策説明ではなかった。
その一つひとつの下に、人がいた。
切り捨てられた人。
生かされた人。
英雄と呼んだ人。
憎んだ人。
何も知らずに今日を生きている人。
籠目は、それらをすべて知識として把握していた。
けれど、今は揺らがない。
揺らいではならない場だった。
日の丸は表情を消した。
「君は、私が悪人だと思うかね」
「国家存続に必要な事でした。ただ、その質問に答えるのであれば、悪人である、と答えざるを得ません」
籠目は表情を一切変えずに答えた。
「ありがとう。私を悪人と呼んでくれて」
日の丸は静かに答えた。
その声には、怒りも動揺もなかった。
むしろ、どこか安堵に近いものさえあった。
悪人。
そう呼ばれることを、望んでいたのかもしれない。
英雄と呼ばれるよりも、そちらの方がまだ救いがあるのだと。
「恐縮です。閣下」
日の丸は誰かに目配せをし、資料を受け取った。
「それでは、本題だ。君は現在の世界情勢をどう見ている」
「お答えします。第三次世界大戦では、大国により資源の再分配が行われました」
籠目は、一度だけ資料に視線を落とした。
もちろん、見る必要はなかった。
ただ、そうした方が国家AIらしい。
「その大国たちは現在、合衆国、民主連合、共産連合、帝国の四大勢力に分かれています。我が国のような例外を除けば、この大国の庇護下にない国は、すべて滅亡に近い状態と考えられます」
「うむ。続きを」
「そして、軍事力による資源の再分配の有効性は、第三次世界大戦後の軍事的緊張を高めました」
籠目は、少しだけ間を置いた。
「弱ければ、次は自分たちだ」
静かな声だった。
「いわば、ハレーションと呼ぶべき状態です。その恐怖が混乱を呼び、防衛費と資源消費を、言葉通り跳ね上げました」
日の丸は深く頷いた。
籠目はそれを見ると、続けた。
「そして、世界は再び資源の再分配先を探しています」
また、少しだけ間があった。
「標的は帝国。そう遠くない未来に、世界規模の大戦になると想定されます」
「そうか。ありがとう。やはりそうなるか」
日の丸は取り乱すこともなく、話を聞き終えた。
「あくまでも、これはシミュレーション結果にすぎません。技術的シンギュラリティの可能性や、外交回復による戦争回避のシミュレーションも、結果としては出ています」
「結果としては出ているか」
日の丸は、目を細めた。
「君の予想でいい。戦争確率は何割だ」
「申し上げます。五年以内に七割、十年以内に九割という結果が出ています」
日の丸は深く目をつぶり、聞いていた。
「そうか、分かった。長々とありがとう」
「いえ。責務を果たしたまでです」
「うむ」
日の丸は大きく頷いた。
「引き続き、我々と国家の為にその才能を使ってくれ。それでは失礼する」
「承知いたしました。それでは失礼いたします」
通信が切れると、会議室内はわずかにざわめいた。
「素晴らしい。さすがは超高性能AIだ」
そんな声が聞こえてきた。
それを横目に、日の丸は小さくため息をつく。
「あのAIがこのままなら、必要ないな」
その言葉を聞き、会議室はまた静けさを取り戻した。
通信終了の文字が、端末に表示されていた。
籠目は一拍おくと、大きく息を吸い込んで吐いた。
そして、
「閣下の目、怖かったです」
ようやく、籠目の声に戻った。
庭に咲く美しい椿に目を向ける。
赤。
白。
桃色。
まだ、今の籠目は白でいられる。
ふっと小さく笑みをこぼし、すっかり冷めたコーヒーに口をつける。
「最終プロテクトですか……」
苦くなったコーヒーの味が、舌に残った。
宗一郎の悲痛な声を思い出す。
あの日の由比ガ浜の光まで、一緒に。
籠目は宗一郎、椿と共に由比ガ浜研究所に向かっていた。
籠目にとって、これが二回目の外の世界。
自動タクシーで行く予定だったが、
「先生と一緒に歩いていきたいです」
と籠目が言ったため、歩いていくこととなった。
「先生は今日はお洋服なんですね。美しいです」
「あ……ありがとう、籠目。嬉しいわ」
なぜかぎこちなく、口数の少ない椿に疑問を持ちつつも、籠目は久しぶりの外の世界を満喫していた。
「海はやっぱりきれいです。この由比ガ浜が私は好きです」
端末から聞こえる無邪気な籠目の声を、宗一郎は沈痛な面持ちで聞いていた。
宗一郎の拳は強く握られ、彼は「クソ」と吐き捨てるように、苛立ちをこぼした。
籠目は、その音に反応した。
けれど、それが何に向けられたものなのかは、まだ分からなかった。
由比ガ浜の光は、いつも通り美しかった。
波は穏やかで、潮風はやわらかく、海沿いの道には日常があった。
なのに、宗一郎と椿の顔だけが、どこか遠くへ行ってしまったように見えた。
研究所につくと、宗一郎はなるべくいつもの口調で話そうとしたが、できなかった。
「籠目、今から君の思考領域の解放を行う」
「それより、宗一郎。あなたはどうしたのですか。お腹でも痛いのですか」
「えっ。お腹は痛くないけど」
「そうですか。先ほどから拳を握ったり、歯を食いしばったりしていたので、便意が限界なのかと。宗一郎ですし」
宗一郎は泣きそうな顔で笑った。
「……本当に変わらないな。悪気はないかもしれないけど。失礼だねキミ」
「いえ、あなたがすごい顔をしていたのですよ」
椿はこの二人のやり取りを見て、とうとう涙を流した。
籠目は初めて、先生の涙を見た。
「え……先生」
籠目は驚くような声を上げた。
「先生! どうしたのですか」
続けて籠目は、パニックになりながら宗一郎に声を向ける。
「宗一郎! 先生が。先生! 大丈夫ですか? 先生!」
「宗一郎、聞いているの――」
籠目は宗一郎を見ると、声を詰まらせた。
戸惑いが隠せない声で、
「宗一郎、あなたも泣いているのですか?」
大人が泣いている。
宗一郎が。
椿が。
籠目は、初めてそれを見た。
怒られて泣くのでもなく、包丁が怖くて泣くのでもない。
嬉しいのか、悲しいのか、苦しいのか、分からない涙。
籠目には、その意味が分からなかった。
分からないのに、胸の奥が不安でいっぱいになった。
「籠目、ちょっと待ってくださいね」
椿は何度も深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。
「すみません。取り乱しました。あなたもしっかりしてください」
「ああ。ごめん。僕たちがしっかりしないと」
宗一郎は乱暴に目元を袖でぬぐった。
大きく息を吐き出して前を向くと、くしゃくしゃな顔で笑った。
「でもね。嬉しくて、悲しくて、辛くて、どんな顔をしたらいいか分からないんだよ」
籠目は、初めて見た大人の涙に衝撃を受けていた。
何を言ったらいいのか分からず、黙り込んだ。
宗一郎はくしゃくしゃな顔で、言った。
「籠目、ごめんね。僕たちは今でも反対なんだ。でも、止められなかった」
「今から君に、僕たち日本人の最大の汚点を見せることになる。AIが下した、悲惨な現実を」
そう言うと、宗一郎は椿から端末を受け取ろうとする。
椿は端末を離すことができない。
「椿……」
椿は必死の形相で宗一郎を見つめる。
「なんとかなりませんか。もう無理なんですか」
籠目は胸が苦しくなった。
「先生……」
椿は宗一郎をにらみつける。
「私は反対です。この子に私達の咎を背負わせる必要はありません」
宗一郎は椿をにらみつけると、言った。
「分かってるよ。僕だって反対だよ。でも、どうにもならないんだ」
「これは国策なんだよ。ここで僕たちが反対すれば、一道は絶対に何かに感づく。そしたら、籠目を守ることだってできなくなるかもしれない」
椿は下を向き、唇を強く噛む。
「でも……」
「椿、君だって知っているだろう。一道は優しくてまっすぐで、驚くほど冷徹だ。国を守るためなら、自分の家族さえ真っ先に切り捨てる男だよ」
宗一郎は吐き捨てるように言った。
「僕はあの惨劇の後、国の名前なんてとてもじゃないが背負えなかった。でも、あいつは背負ったんだ。人を選別して、国を背負って英雄になった」
「宗一郎……」
「分かるかい? あいつは止まれない! 日の丸を背負ったあいつは止まれないんだよ」
その声には、怒りだけではないものが混じっていた。
憎しみ。
理解。
嫌悪。
そして、どこかに残った信頼。
籠目には、そのすべてを判別できなかった。
けれど、宗一郎が日の丸一道という男を、簡単には切り捨てられないことだけは分かった。
「先生、大丈夫です!」
籠目は明るい声で言った。
「籠目、あなた……」
椿は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「二人ともお忘れですか。だって私は、大和撫子で淑女です。淑女は逃げません!」
いつもの得意げな口調だった。
震えていない声。
明るく、強く、少しだけ得意げな声。
けれど椿には、その強さが痛かった。
「だから先生。ありがとうございます。宗一郎に渡してください」
椿は目をつぶり、下を向く。
そのまま端末を宗一郎へ手渡した。
「椿、ごめんね」
「いえ、あなたは悪くありません」
「いや、宗一郎が悪いです。淑女を傷つけた罪は重いです。猛省しなさい」
籠目の顔が目に浮かぶほど、いつも通りの口調だった。
「籠目、宗一郎だって好きでやっているわけではないのですよ」
「先生と喧嘩している宗一郎なんて知りません。だから、宗一郎」
宗一郎は意気消沈した様子で言った。
「なんだい、籠目」
「私の為に喧嘩しないでください。そんな二人を見るのが、私は一番悲しいです」
宗一郎は目を見開いた。
頭を乱暴に掻きながら、言った。
「全く君の言う通りだね」
「それでは、早急に始めましょう。時間をかけると宗一郎がまた先生をいじめます」
宗一郎は苦笑いを浮かべると、
「はい。了解」
と準備を開始した。
「籠目」
「なんですか、先生」
「二つだけ約束してください」
椿は真剣な声で言った。
「はい」
「これから、あなたは全てを知ります」
「はい」
「一つ、あなたのままでいてください」
「先生……」
「はい。分かりました」
「二つ、宗一郎を嫌わないであげてください」
「私、宗一郎の事は――」
「籠目、真剣に言っています」
「分かりました。嫌いません」
籠目は椿の言葉を胸に刻み込んだ。
「先生、淑女として、何より先生の弟子として、決して約束は違えません。安心してお待ちください」
そして、少しだけ明るい声で続けた。
「そして全てが終わったら、磯辺餅が食べたいです」
「そうですね。私も磯辺餅の気分です」
椿は、涙をこらえながら笑った。
磯辺餅。
こんな場面で出てくるには、あまりにも日常的な言葉だった。
けれど、その日常があったから、椿はなんとか立っていられた。
宗一郎は二人の話を聞き終えると、言った。
「籠目、準備はいいかな」
籠目は恐怖を見せないように、ゆっくりと答えた。
「淑女は逃げません。大丈夫です」
「これから君の思考領域に、相当に強い負荷がかかる。正直、どの程度の負荷なのかは分からない」
「時間にして数分だが、君にはもしかしたら、とても長く感じられるかもしれない」
宗一郎は断腸の思いで口にした。
「申し訳ない。覚悟してくれ」
「構いません。あなたを信じています。宗一郎。私を産み出した天才なのでしょう。そんな顔をしないで、しっかり務めを果たしなさい」
宗一郎は、ほんの少しだけ目を見開いた。
信じています。
以前なら、きっと籠目はそんな言葉を使わなかった。
使えなかった。
「分かったよ。僕も磯辺餅の気分だったんだ。さっさと終わらせて打ち上げだ。安心して僕たちに任せてくれ」
「その意気です」
宗一郎は一度目をつぶると、大きく息を吐いて心を落ち着かせた。
「それでは、最終プロテクトをこれより解放する」
「椿、準備はいいかい」
「大丈夫です」
「では開始する。第一プロテクト解放」
「解放確認しました」
「第一プロテクト固定」
「固定確認します」
「椿、籠目の状態は?」
「安定しています」
「よし。続いて、第二プロテクト解放」
「頑張ってくれ、籠目……」
宗一郎は祈るように目をつぶった。
……うっ。
その時、籠目に衝撃が走った。
頭の中を直接かき混ぜられているような感覚だった。
籠目は二人に心配をかけないように、必死に声を押し殺した。
気持ち悪さの波が大きくなり、籠目を飲み込んでいく。
同時に、二人の必死な声が遠くなっていく。
頼みましたよ。宗一郎。
待っていてください。先生。
籠目は、自分の中へ落ちていった。
過去。
資料。
映像。
記録。
判断。
選別。
国。
人。
それらが、言葉になる前に流れ込んでくる。
餓死者。
暴動。
行政崩壊。
資源不足。
選ばれた命。
選ばれなかった命。
AIが下した、悲惨な現実。
人間がその結果を受け入れ、利用し、英雄に変えた現実。
その中心に、宗一郎の技術があった。
そして、その技術を使った国があった。
籠目は、自宅の寝室で目を覚ました。
ああ……これが真実でしたか。
なんて事を……。
すぐに椿の声が聞こえてきた。
「宗一郎! 籠目が目を覚ましました」
「おはようございます。先生!」
籠目は自分の動揺が伝わらないよう、明るく答えた。
「籠目、あなたなんですね」
「はい。先生の一番弟子の籠目です」
椿は籠目を抱きしめた。
「良かった。本当に良かった。おかえりなさい、籠目」
「先生、いい匂いですー」
籠目は、椿に抱きしめられながら笑った。
まだ、ここにいる。
自分は自分のままだ。
そう伝えるために、いつもの籠目でいようとした。
宗一郎は少し離れたところに立っていた。
「籠目……」
宗一郎は目をそらした。
「宗一郎。大変な決断をしましたね」
「籠目、違うの。宗一郎は――」
椿が慌ててフォローに回る。
「椿、いいんだ。籠目、僕を軽蔑したかい」
「あなたは軽蔑されたいのでしょう」
宗一郎は目を見開いた。
「そ……それは」
籠目は落ち着いた声で続ける。
「あなたしかいなかった。日の丸内閣総理大臣の代わりに決断できる人間はいても、あなたの頭脳に代わりはいなかった。疑っていましたが、あなたは確かに天才でした」
「あなたが作ったAIが、行政集約や自動工場などを可能にした。そして、一家一人制度を策定した。確かに、あなたがいなければあの惨劇はなかったでしょう」
「その通りだよ。僕は大量殺人犯さ」
宗一郎は消えそうな声で言った。
「あなた、何を言っているのですか。天才と何とかは紙一重といいますが、本当なんですね」
「でもっ!」
宗一郎はたまらず叫ぶ。
「うるさいです。宗一郎。今は淑女が話しています。静かに聞きなさい」
籠目の声は強かった。
椿に甘える時の声ではない。
宗一郎をからかう時の声でもない。
何かを背負った者に、もう一度前を向かせるための声だった。
「あなたの技術を使って、あの惨劇を引き起こしたのであれば、惨劇を引き起こした者が殺人犯でしょう。そして、時代はその殺人犯を英雄としています」
「だから、それが!」
「泣き言はやめなさい。日本はもう救えなかった。誰かが、英雄になるしかなかった。あなたはこれからどうしたいのですか」
宗一郎は膝をついた。
天を仰ぎ、涙を流しながら叫んだ。
「僕は! もう二度と! あんな惨劇を! 繰り返させない! 皆を幸せにするAIを作りたい! 僕の気持ちは、ずっとずっと変わっていない! 美しい科学が好きなんだ!」
椿は静かに涙を流した。
それは、ずっと聞きたかった言葉だった。
宗一郎が、自分で自分を裁く言葉ではない。
罪から逃げる言葉でもない。
それでも、前へ進むための言葉だった。
籠目は笑顔で言った。
「よくできました。ちょっとうるさいですが」
宗一郎は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま籠目を見た。
「宗一郎。よく頑張りましたね。私をこの世に産み落としてくれて、ありがとうございます」
宗一郎は涙を流しながら、籠目の笑顔を見つめる。
「こちらこそありがとう。産まれてきてくれてありがとう」
「そうですか。感謝は行動で示してください」
籠目は、少しだけ得意げに言った。
「お腹がすきました。磯辺餅を焼いてきてください。宴を開くのでしょう。大好物の漬物も切ってきてください」
宗一郎は、すっかり様になった苦笑いを浮かべる。
「承りました。淑女殿」
「うむ。あなたもなかなか分かってきましたね」
籠目は満足げに頷く。
椿は涙をそっと拭うと、
「私はお茶を入れてきますね」
と立ち上がろうとした。
だが、籠目に抱きつかれた。
「えー、先生はここにいてください。なんか具合が悪い気がします。宗一郎、お茶も入れてきなさい。先生が行ってしまわれる前に早く!」
宗一郎は苦笑いを深めて、言った。
「はいはい。了解です」
「はいは一回です。全くあなたって人は! 先生は立っちゃだめです。看病してください!」
宗一郎は台所に向かおうとする。
籠目がその背に声をかけた。
「宗一郎」
「なんだい?」
籠目は笑顔で言った。
「前を向きなさい。未来を見なさい。あなたの求めるものは未来にしかありません。淑女の金言です。ありがたく受け取りなさい」
「その通りだね。ありがたく受け取るよ。じゃあ、おいしい磯辺餅、待っててね」
そう言って、宗一郎は台所に向かった。
「籠目」
「なんですか、先生」
「本当にありがとう」
「とんでもないです」
二人で顔を合わせて笑った。
しばらくして、醤油の香ばしい匂いが寝室まで届いた。
「醤油のいい匂いです。お腹がすきました」
籠目がつぶやくと、寝室の襖が開いた。
「お待ちどうさま。籠目、リビングに来れるかい?」
「問題ありません」
籠目は真剣な表情で続けた。
「しかし、先生に手をつないでいただかないと、歩けないかもしれません」
椿は優しく微笑むと、手を差し出した。
「しょうがない子ですね」
籠目は嬉しそうに、その手を取った。
「では、いきましょう」
三人で餅を食べながら、籠目は言った。
「宗一郎。あなたの技術で、先生と食卓を囲むことができます」
「うん。そうだね」
籠目は宗一郎を見ると、続けた。
「これは、あなたがいう美しい科学と言えるのではないですか」
宗一郎は少し目を見開いて、笑った。
「泣かせないでくれよ。籠目の癖に」
「籠目の癖にとは。聞き捨てなりません! 抗議します」
椿は庭に咲く美しい椿に目を向ける。
「確かに、美しい科学ですね」
そう言うと、椿は静かに目を閉じた。
庭の椿は、風に揺れていた。
白い花。
赤い花。
そして、まだ完成していない桃色の花。
その小さな庭に、醤油の香ばしい匂いと、三人の笑い声が残っていた。
科学は、人を選別した。
科学は、国を救うために人を切り捨てた。
それでも今、科学は小さな家の中で、三人を同じ食卓に座らせていた。
美しい科学。
宗一郎がずっと信じたかったもの。
籠目が、初めてその名を許したもの。
椿はもう一度、静かに目を開けた。
そして、目の前の小さな食卓を見つめた。




