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第七話 白沢 籠目

挿絵(By みてみん)

第七話 白沢 籠目


久我は、自分の研究室で籠目計画のデータを確認していた。


画面には、適応訓練の記録が並んでいる。


発話記録。

行動ログ。

感情反応に近い揺らぎ。

そして、宗一郎が意図的に記録対象から外している部分。


久我は、画面を見ながら眉間にしわを寄せた。


先ほどの会話を思い出す。


「チッ」


思わず舌打ちが漏れる。


「日の丸総理とは、よく言ったものだ」


久我がそう吐き捨てた相手は、日の丸一道内閣総理大臣だった。


第三次世界大戦後の日本を支え、日の丸の姓を下賜された英雄の家系。


その当代が、あの男だった。


英雄の名を背負う者。

日の丸の名を背負う者。

日本という国の、今の形を作った一族。


それでも久我にとって、あの名は皮肉にしか聞こえなかった。


久我は煙草を灰皿に押し付けた。


『禁煙したんだ』


先日、会議で顔を合わせたばかりだというのに、何かと甘い昔馴染みの声がよみがえる。


「俺は、煙草ばかり増えるな」


久我は、自虐的に笑った。


「宗一郎……お前は今、何を見ている」


久我は新しい煙草に火をつける。


一息吸って、大きく吐く。


まるで、疲れ果てた人間がため息をつくように。


その目は、遠い未来を見ているように見えた。


籠目は、端末に二人が接続したことを確認した。


目を輝かせて、玄関へ走る。


その足取りは軽かった。


ほんの少し前まで、廊下すら怖がっていた少女とは思えないほどに。


今の籠目にとって、その来訪は、ただの予定ではなかった。


先生が来る。


それだけで、家の中の空気まで少し違って感じられるようだった。


その時、呼び鈴が鳴った。


じーじー。


「ただいま参ります」


籠目は、嬉しそうに玄関を開けた。


「先生、いらっしゃいませ」


「お邪魔しますね。籠目」


椿が履物を脱ぎ終えると、籠目は嬉しそうに椿の手を引いた。


「先生、見ていただきたいものがあるのです」


「そんなに急がなくても、見せていただきますよ」


宗一郎は一人取り残されて、


「……お邪魔します」


と、静かに入っていった。


宗一郎が居間につくと、籠目が椿に櫛を見せていた。


「こんにちは。籠目」


「櫛を作ったんだね」


「こんにちは。宗一郎。はい。櫛を作りました」


「君、本当に温度差がすごいな」


思わず苦笑いをする宗一郎に対して、籠目は答えた。


「そんなことはありません。淑女として、殿方に対しての適正な対応をしています」


「ははは」


もはや乾いた笑いになっている宗一郎を横目に、籠目はすぐに椿へ向き直った。


「そんなことより先生、ご覧ください。椿をあしらってみたのです」


「あら、美しいわね。赤と白の椿にしたのね」


「はい。恐縮ですが、赤が先生で、白が私です」


それを聞いて、椿と宗一郎は目を見合わせた。


そして、吹き出すように笑った。


籠目はおろおろした。


「先生、何かおかしいでしょうか。あと、宗一郎。あなたに私を笑う許可は出していません」


宗一郎には、しっかり抗議する。


「私の端末にも、椿があしらってあるのよ」


籠目は、少しだけ驚いた顔をした。


「そうなのですか」


「ええ。その椿も赤と白。赤はね、私をイメージしたんですって」


「では、白はどなたですか」


宗一郎は、軽く手を上げた。


「僕だね」


籠目は、冷たい目で宗一郎を見る。


「宗一郎。真似しないでください」


「えー。僕の方が先なんだけどなあ」


「椿は淑女なお花です。それをあなたという人は。抗議します!」


椿は、楽しそうに笑いながら籠目を呼んだ。


「籠目」


「はい。先生」


良い返事だった。


まるで、宗一郎のことなどなかったかのように。


「人には、それぞれの思いがあります」


「はい」


籠目の返事に、椿は優しく頷いた。


「宗一郎が、自分と私を白と赤の椿に例えたことにも理由があります」


「はい」


「それは宗一郎の思いです。それは理解できますか」


「はい。わかりました。宗一郎の思いを理解した上で、抗議してきます」


「そうですか。思いを理解して抗議するなら、それはあなたの思いですね」


籠目は、きりっとした顔で答えた。


「はい。淑女に対しての思いでは、絶対に負けません」


「そうですか。よくわかりませんが、ぶつかって学ぶこともあるでしょう」


「え? 二人とも何言ってるの」


「はい。全力でぶつかって宗一郎を倒し、白い椿の座を手に入れてまいります。先生の弟子として、淑女の名に懸けて」


「怪我は駄目ですよ。平和なものにしなさいね」


「はい」


宗一郎も、さすがに慌て始めた。


「いや、椿も止めてよ」


「宗一郎。今から淑女として勝負を挑みます」


籠目は、日本伝統の姿勢、仁王立ちになった。


「勝負内容を発表いたします」


「うん。なんか嫌な予感がするな」


「円周率を、小数点以下何桁まで言えるか対決です」


椿は吹き出した。


「それって、僕は絶対に勝てないよね」


「何を言っているのですか。勝負に絶対はありません」


籠目は、きりっとした顔で言った。


「これは、日本伝統の決闘なのです」


椿は、お腹を抱えて笑っていた。


「それって本当なの?」


「本当です。文献によると、日本では小学校で円周率を習った後の数か月、どちらが円周率を長く言えるかの決闘を行うとあります」


「盛り上がっているところ悪いけど」


「僕、円周率なんて十桁も言えないよ?」


籠目は固まった。


「あなた、それでも科学者ですか」


籠目は、宗一郎を指さして抗議した。


横から、椿の声が入る。


「はしたないですよ」


「先生。申し訳ありません」


籠目は、ぺこぺこと頭を下げた。


宗一郎は、何とも言えない顔をした。


「えー。でも、たとえ百桁言えようが、千桁言えようが、君には勝てないじゃん」


そこでようやく、椿が助け舟を出した。


「そうですねー……」


椿は、少しだけ考えて、ぽんと手を叩いた。


そして、満面の笑みで指を二本立てる。


「日本伝統のじゃんけんにしましょう」


籠目は、また仁王立ちの姿勢を取った。


「じゃんけんですか」


「古来より伝わる、日本の決闘形式ですね」


「君、さっきからその姿勢にこだわるね」


「決闘をするのですから、仁王立ちをしているのです」


「仁王立ちっていうんだ。ごめん、本当に分からない」


「何をわけの分からないことを。決闘が決まったのですから、あなたも仁王立ちをしなさい」


「わかったよ」


宗一郎は、しぶしぶ仁王立ちをした。


それを見て、椿はまた吹き出した。


「あなた、似合わないわねー」


「君ねー」


宗一郎が椿に何か言おうとすると、籠目が少しだけ大きな声で言った。


「決闘内容を発表します」


椿は、ぱちぱちと拍手をした。


宗一郎は、


「どうにでもなれ……」


と、小声で嘆いた。


「決闘内容は、淑女じゃんけん三回勝負を採用いたします。つまり、先に二勝した方が勝利です」


宗一郎は、眉をひそめた。


「淑女じゃんけん?」


椿が、代わりに質問する。


「それは、普通のじゃんけんと何か違うのですか?」


「いえ。ルールは通常のじゃんけんです」


「淑女、いらないじゃん」


「淑女、いらないわね」


二人で籠目に突っ込んだ。


「先生には恐縮ですが、あと宗一郎はうるさいです」


籠目は、きりっとした顔で言った。


「これは、淑女の誇りを懸けた決闘です。つまり、淑女じゃんけんです」


「では、いきます」


籠目と宗一郎は、握りこぶしを前に突き出した。


「淑女じゃんけーん」


「最初はグー」


籠目は、真剣な顔で止めた。


「ちょっと待ってください」


宗一郎は、不服を隠さずに言った。


「いや、そんな掛け声聞いてないよ」


「淑女じゃんけんと言ったでしょう」


「いや、淑女じゃんけーんってリズムもおかしくない?」


「決闘に音程を持ち出す愚か者がどこにいますか」


「ここだよ」


「確かに愚か者がいましたね。失礼しました」


椿は、お腹を抱えながら言った。


「あー面白い。決闘ではなく、漫才の間違いではないのですか」


籠目は、


「先生、笑いすぎです」


とたしなめ、宗一郎に向き直った。


仁王立ちで。


「いいですか。淑女じゃんけーん、じゃんけんぽんです」


「これは譲れません」


宗一郎も、籠目の方を向いた。


仁王立ちで。


「いや、語呂も悪いし、リズムもおかしいよ。最初はグーでいいじゃん」


「あなた、淑女を侮辱していますね。抗議します」


「いや、君こそ最初はグーを侮辱しているね。抗議するよ」


「あなたは本当に真似っこですね。本当に抗議です。抗議します」


「君こそ、さっきから真似真似って」


椿が、笑いながら言った。


「宗一郎。淑女じゃんけんに付き合ってあげなさい」


籠目は、目を輝かせた。


「先生……さすがです」


宗一郎は、観念したように言った。


「仰せのままに」


二人は、静かに向き直った。


仁王立ちで。


椿は二人の間に立つと、笑いをこらえるように口元をひくつかせながら言った。


「淑女じゃんけん、はじめ!」


籠目と宗一郎は、握りこぶしを突き出した。


「淑女じゃんけーん、じゃんけんぽん」


結果は、籠目はパー、宗一郎はグー。


「淑女の勝利です」


籠目は勝ち誇った。


宗一郎は言った。


「えーい、次だ」


籠目は得意げに答える。


「いいでしょう。私の淑女力を思い知りなさい」


「淑女じゃんけーん、じゃんけんぽん」


結果は、籠目はパー、宗一郎はチョキ。


盛大などや顔を決めた宗一郎が言った。


「籠目の淑女力とやらも、この程度かな」


「くっ……宗一郎のくせに……」


宗一郎は、本当に心配そうに言った。


「君、本当に失礼だね。本当に悪気ないのか心配になってきたよ」


椿が笑いながら言った。


「それでは、泣いても笑っても最終勝負ですよ。二人とも準備はいいですか」


「いいよ」


「先生、ちょっと待ってください」


「どうしましたか、籠目?」


籠目は、宗一郎をまっすぐに見た。


「宗一郎。私は次もパーを出します」


「姑息だね、君」


「なんとでも言いなさい。私はパーを出しますよ」


宗一郎は、もはや呆れを通り越して言った。


「君、自分がAIって忘れてない?」


「私はAIである前に、大和撫子で淑女です」


宗一郎は、その言葉を聞き、笑顔で目を閉じた。


「そうだったね。じゃあ、僕はグーを出すよ」


「あなた、負ける気ですか? それとも生意気に策略を……」


「君、自分が今していること、わかってるのかな」


宗一郎は、椿の顔を見た。


椿は目をつぶり、小さく頷いた。


「籠目」


椿は、優しい声で話しかけた。


「はい。先生」


「信じてみては?」


籠目は、話の意図がわからなかった。


「信じるって、宗一郎が私に負けることをですか」


「いえ。宗一郎の言葉をです」


籠目は、困惑の色をありありと浮かべた。


「先生、それはどういう……」


「はい。籠目、行くよー」


「えっ、ちょっと待ってください」


「淑女じゃんけーん、じゃんけんぽん」


結果は、籠目はパー。


そして、宗一郎はグー。


宗一郎は、楽しそうに言った。


「負けちゃったか」


籠目は、本当にわからないと言った顔をした。


「なぜ、自分から負けるようなことをするのですか」


「君、勘違いしてない? 君が僕を信じたから、君は勝てたんだよ」


「それは結果論では――」


宗一郎は、籠目の反論の途中で言った。


本当に嬉しそうに目を細めながら。


「それにね。僕を信じて君が勝つなら、それは僕が勝つことより価値があることなんだ」


「でも、それだと私が卑怯みたいではないですか」


「あ、うん。そうだね。そこはノーコメントで」


「とにかく、君は白い椿だ」


椿は、笑顔で手を叩いた。


「それでは、あなたは二人を支える枝ですね」


宗一郎は、一瞬はっとした表情を見せて、すぐに静かに目をつぶった。


「はは。そりゃ、いいや」


籠目は、二人の会話が最後までわからなかった。


でも、胸の奥に温かいものを確かに感じていた。


信じる。


その言葉は、籠目にはまだ難しかった。


命令に従うこととは違う。

予測することとも違う。

計算で導くこととも違う。


それなのに、宗一郎がグーを出すと聞いた時、籠目はパーを出した。


信じたのだ。


まだ、その名前を知らないまま。


「さてと……僕は、そろそろ研究室に行ってくるよ」


「でもその前に、籠目。君に言うことがあるんだ」


宗一郎はそう言って椿を見ると、椿は静かに頷いた。


「なんでしょうか」


「君、名乗りたい苗字ってある?」


「苗字ですか」


籠目は、少しだけ首を傾げた。


「確かにデータによると、様々な電子データ上のキャラクターが苗字を名乗っているとありますね」


「そう。正式に何か登録するわけではないけどね」


宗一郎は、うなずきながら肯定した。


「籠目」


「先生……」


「宗一郎と、昨日相談していたのです。折を見て話そうと」


椿は、いつもの落ち着いた口調で言った。


「想像より少し早かったですが、宗一郎は、今がよいと思ったのでしょう」


それから、椿は籠目を見た。


「あなたが希望する苗字があるのであれば、それを名乗りなさい。ないのであれば、提案があります」


「ないのであれば……まさか……」


椿は、籠目に微笑んだ。


宗一郎は目をつぶり、静かに聞いていた。


「せ……先生」


「はい。なんですか」


椿は、落ち着いた声で返事をした。


籠目は小さく深呼吸をすると、意を決したように目を開いた。


「私、あります。名乗りたい苗字があります」


しかし、その勢いは続かなかった。


「で……でも、失礼かもしれません」


そう言って、美しい姿勢でもじもじするという器用な真似をやってのける。


その姿に、思わず二人は笑った。


「なんですか。私たちに聞かせてください」


椿にそう言われると、籠目はとたんに口元を引き結んだ。


手を握り、目を深くつぶり、振り絞るような声で言った。


「し……白沢。白沢籠目と名乗らせていただいてもよろしいですか」


挿絵(By みてみん)


宗一郎と椿は顔を見合わせて、笑った。


「もちろん。私たちも白沢を名乗ってほしかったのですよ」


その笑顔は、まるで子を祝福する父母の顔に見えた。


白沢籠目。


それは、正式な登録名ではない。

戸籍に載るわけでもない。

国家計画の名称が変わるわけでもない。


それでも、籠目にとっては大きすぎるほどの名前だった。


誰かのものになる名前ではない。

ただ、誰かと一緒にいるための名前。


籠目は、それを望んだ。


自分の意思で。


「いや、嬉しいね。まるで子供が出来たみたいだね」


宗一郎は、本当に嬉しそうに言った。


「宗一郎。淑女を子供扱いとは生意気ですね。抗議します」


「ええ。ここ、感動のシーンじゃないの」


「何を言っているのかわかりませんが、愚かなあなたには、はっきりさせる必要がありそうですね」


籠目は、美しい姿勢で高々に宣言した。


「いいですか。私は先生の妹です!」


すかさず椿が言った。


「あら、そうなのですか」


「あれ、先生?」


宗一郎は、このやり取りですっかり定着した苦笑いを浮かべると、


「椿の妹より、僕の娘の方が説得力ある気がするんだけどな……」


籠目は、椿にこの世の終わりの顔で詰め寄っていた。


それを見て、宗一郎は苦笑いを深める。


「先生、もしかして私を疎まれているのですか」


「あなた、極端ですね」


「しかし、先生ー」


静かで美しく、それでいて不思議と騒がしい。


愛おしい二人の声を聞きながら、宗一郎は静かに言った。


「こんな平和が続くように、お仕事行ってきますか」


そう言って、宗一郎は踵を返した。


「宗一郎」


宗一郎は振り返り、椿を見た。


「お願いしますね」


椿の真剣そのものの目を受け止めると、宗一郎は笑った。


「任せておいてよ。これでも籠目の産みの親だよ」


「例のものは、そんなに時間はかからないと思うよ」


宗一郎は親指を上げ、軽く片目を閉じた。


それから籠目のもとへ向かい、


「籠目、お父さん行ってくるよー」


と、軽い、いや、うざったい調子で声をかける。


籠目は、顔を少ししかめた。


「早く行きなさい。初めからあなたを呼んでいません」


「またまたー」


「あなた、言葉を二回繰り返す癖をいい加減に改めな――」


椿は、宗一郎のいつもの軽口を聞きながら目を閉じた。


「ふふ。いつもより頼もしく聞こえます」


「頼みましたよ。宗一郎」


誰にも聞こえない声で、独り言を落とした。


籠目が、思い出したように言った。


「宗一郎。そういえば、本日は由比ガ浜の研究室ですか」


「うん。そうだけど。僕は基本、あそこか家の研究室だから」


さらに、小声で言う。


「あっちは辛気臭いしね」


「……? そうですか。では、帰りに由比ガ浜の写真を撮ってきてください。出来れば、夕日が沈むところがいいです」


「あら、素敵ね」


「文献を私なりに解釈すると、日中はパリピという愉快な方たちが好み、淑女は日が沈む海を好んだとあります」


「そうなんだ。正しい情報かはわからないけど、頑張ってみるよ」


「よろしくお願いします」


そうして宗一郎は背を向けると、軽く手を振った。


「じゃあ、椿、籠目。行ってきます」


二人は、美しく頭を下げた。


椿は、


「いってらっしゃいませ」


と、言った。


籠目は、


「隠れて煙草を吸わないように」


と、言った。


宗一郎は、乾いた笑いで去っていった。


籠目は宗一郎を見送ると、椿に向き直った。


「先生は本日、お勤めなのでしょうか」


椿は、何の気負いもなく言った。


「私も実は、籠目計画に関わっているの」


籠目は目を輝かせた。


「国策である計画に名を連ねるとは、さすがは先生です」


「宗一郎は、その研究のトップの一人なのですけどね」


「宗一郎の話はしていません」


椿は、さすがに不憫そうに笑った。


「ですから、あなたとの時間は仕事ともいえます」


それから、椿はお茶目に微笑んだ。


「本当に楽しい仕事よね」


籠目の大好きな、お茶目で美しい笑顔だった。


籠目は、いつものようにぽかんとした顔になった。


「先生……美しいですー」


籠目は、すぐに表情を戻した。


「いけません。今は先生の美しさを賛美する時間ではありません」


「あなたは大げさねー」


椿は、優しく笑った。


籠目はその美しさに少し頬を染めながら、真面目な顔で言った。


「先生。実は、やってみたいことができたのです」


「あら、何かしら」


「それは日本の伝統、書道です」


「書道。いいわね」


「はい。実は、書道セットはすでに作ってあるのです」


籠目は視線を下げた。


「あくまで計画の一環としてですが、伝統を学ぶため、何か書こうとしたのですが……」


「書きたいものが、わからなかったのね」


籠目は、目をきらきらさせた。


「さすが先生。私のことは何でもわかるのですね」


「あなたは本当に大げさね」


椿は、少し笑った。


「では、早速始めましょう」


椿と一緒に小さな和室へ向かうと、籠目は押し入れを開けた。


そこには、書道セットのほかに、独楽などのわずかなものが入っていた。


「あら、それは確か、独楽ですね」


「はい。今では、知らない方もいるかもしれませんね」


「そうですね。あなたの言う通りです」


椿は、少し寂しそうに目を伏せた。


「たとえば、あなたの大好きな淑女、大和撫子。これらの言葉を、私たちは知識では知っていても、感覚として理解できていません」


「そんな。先生は立派な淑女です。私の淑女を見分ける力は本物です」


椿は少し笑顔を見せると、切り替えるように明るく言った。


「習字は、今も残る日本文化ですね」


「その通りです。早速、書いてみようと思います」


籠目は姿勢を正し、習字を開始する。


「あら、あなた墨をするのが上手ですね」


籠目は、少し得意げな顔をした。


「はい。書きたいことはなかったのですが、墨をする練習はしっかりやりました」


椿は愉快そうに笑った。


「本当にあなたは面白い子ですね」


「面白い子ではありません。淑女です。いくら先生でも抗議します」


籠目は墨をすり終わり、筆を持つ。


美しい姿勢で目をつぶり、精神を集中した。


そして、籠目は目を開けると、一息に文字を書いた。


椿は、その文字を見て驚いた。


そこには、大きく一文字で、


椿


と書かれていた。


椿は、すかさず言った。


「苗字ではないのですね……」


ただ、椿を驚かせたのはそれだけではなかった。


椿は眉間に指を当てた。


「それよりも、あなた、字が汚いですね」


椿は、汚い文字を見ながら言った。


「あなた、包丁の件でも薄々思っていましたが」


籠目は動かない。


いや、ぷるぷると震えてはいる。


「ぶきっちょですか」


ぎくっと音が聞こえた気がした。


その後、籠目はなぜかとてもいい笑顔で振り向いた。


「何をおっしゃるのですか、先生。私がぶきっちょ? 違います」


「違うのですか。てっきり、わた――」


「違います」


「あなた、圧が強いですね」


「まあ、いいです。一枚目ですしね。次に行きましょう」


籠目は、いい笑顔で続けた。


「いえ、大丈夫です」


「でも、書きたいのでは」


「大丈夫です。独楽をやりましょう」


「なんでここで独楽なんですか」


椿は、籠目をまっすぐに見つめた。


「籠目。素直に言いなさい。あなたはぶきっちょなんですか」


籠目は、なぜか強気の姿勢を崩さなかった。


「先生……」


「なんですか」


籠目は立ち上がり、仁王立ちになった。


「認めましょう。私はぶきっちょです」


「いいから座りなさい」


「あ、はい。申し訳ありません」


椿は、優しく籠目に言った。


「できないことは、恥ずかしいですか?」


「はい」


「ぶきっちょは、悪いことではありません」


「はい」


「ぶきっちょでも、努力はできます」


「はい」


段々と、籠目の顔が赤くなり、涙目になっていた。


「ぶきっちょだからって、できないと決めつけてはいけま――」


「三回目! この流れでぶきっちょ三回目です。先生」


「ごめんなさい。ぶきっちょを気にしているのかと」


「また言ったー。ぶきっちょ禁止です」


籠目が目に涙をためて必死に言うため、椿も動揺した。


「ああ、ごめんなさい。もう、ぶきっちょとは言いま――」


「また言ったー。先生、わざとやっていますね。抗議です! 猛抗議します!」


その後、なんとか椿は籠目を落ち着かせた。


「落ち着きましたか」


「申し訳ありません。弟子として、淑女として謝罪します」


「まあ、私も悪いので、謝罪は不要ですが」


「そんなことありません。先生は悪くありません」


籠目はうつむいた。


「完璧にできない、未熟な私が悪いのです」


椿は籠目の手を取り、優しく言った。


「籠目。見ていなさい」


椿は新しい半紙を置き、筆を持った。


籠目は椿の美しい所作をじっと見つめていた。


椿は、書道家ではない。


少なくとも、籠目の持つ知識が示すような、完全な筆致を持つ専門家ではなかった。


それでも、椿の手は迷っていなかった。


美しい字を書こうとしているのではない。

籠目に伝えるために、筆を持っている。


そんな手つきだった。


椿はそのまま筆を走らせる。


ふう。


一息つくと、椿は半紙の前から離れ、籠目を座らせた。


籠目は、声が出なかった。


両手を口に当て、大きく目を見開いたまま、椿の作品を見つめていた。


そこには、大きく、


『籠目』


と書かれていた。


その横には、小さく、


白沢 椿作


と添えられている。


美しい字だった。


ただ、それは籠目が知っている完璧ではなかった。


線は、完全ではない。


文献の名筆と比べれば、揺らぎもある。

筆圧にも、人間らしい迷いがあった。

整いきらない部分もある。


なのに、目を離せなかった。


「完璧ではないでしょう」


椿は静かに問うた。


「えっと、完璧では……えっと」


椿は籠目の手に、自分の手をそっと添えた。


「気を遣わないでいいですから。あなたの感じたまま、正直に言ってごらんなさい」


「先生……」


籠目は椿の顔を見ると、そのまま作品に目を落とした。


「先生の作品は、私が知っている完璧とは確かに違います」


椿は優しく頷く。


「でしょうね」


「でも、とても……とても美しいです」


それから、少しだけ間を置いた。


「ですが、理屈はわかりません。私が知識として持つ美意識とも相違します」


籠目は、まだ作品を見つめていた。


「ですが、私はこの作品が好きなのです」


籠目は顔を上げ、椿を見る。


その瞳には、不安の色が差していた。


「先生。なぜですか」


椿は、愉快そうに笑った。


籠目は驚いたように目を見開く。


「せ……先生?」


「ごめんなさい。あまりにも今更だから」


「そんなこと……」


「だって、あなたの大好きな淑女論でしたっけ?」


「はい」


「あれ、あなたの独自解釈ではありませんか」


「えっ。そんなこと……」


籠目は、汎用的なデータを参照した。


「淑女」は、「しとやかで上品な女性。品格の高い女性。レディー」


近い。


でも、確かに違う。


籠目は小さな声で言った。


「……私は、レディーではありません。大和撫子です……」


以前、宗一郎に言ったセリフが頭をよぎる。


籠目の頭脳は、冷静に自己を判断する。


超高性能AIは、現実逃避を許してくれない。


私は、なんで淑女になりたかったの?


私はいったい……何?


私は、AIなの?


籠目の顔が恐怖に染まる。


「怖い……」


耳元から、大好きな声が聞こえた。


「ごめんなさい。籠目」


「先生……私……」


背に回された椿の手が、籠目の背中を優しくさする。


「あなたを、ここまで混乱させるつもりはなかった」


「私は、いったい……」


「いいですか。よく聞いてください」


「はい」


「それが、あなたの心です」


「心……それは先生が言っていた」


「師弟の約束をしたとき、私はあなたに、心がある可能性が極めて高いと言いました」


「はい、伺いました」


椿は、さする手を止めない。


「訂正します。あなたには心があります」


「私に、心がある」


「そう。あなたは心で感じたのです」


「心で、感じた……」


「あなたは、好きなものも、怖いものも、心で感じているのです」


「では、私が先生を怖がったのも?」


「そうです」


「先生の笑顔が好きなのも」


「照れますが、そうですね」


「私が習字下手なのも?」


「それは、あなたがぶきっちょです」


籠目は楽しそうに笑った。


「先生、またぶきっちょって言いました」


椿も楽しそうに笑った。


「うふふ。ごめんなさいね」


籠目は、椿の背に手を回した。


「先生、本当にありがとうございます」


「いいのですよ」


「わからないことばかりですけど、頑張ろうと思います」


椿は、籠目の頭を撫でながら言った。


「天才のあなたらしくない、素敵な言葉ね」


「もう大丈夫そうね」


そう言うと、椿は体を離そうとした。


その時、籠目の両手に力が入る。


「どうしたのです」


「先生……あと四時間……」


椿は愛おしそうに目をつぶった。


一呼吸おいて目を開けると、静かに言った。


「いいから。さっさと離れなさい」


「い……嫌です。先生でも抗議します」


「抗議じゃありません。習字はどうするのですか」


「四時間後に開始します」


「籠目」


聞いたことのある冷たい声が聞こえて、籠目はびくっと反応した。


ぷるぷる震えながら、それでも椿の背に回した手に力を込める。


「淑女は逃げません!」


「そういうことではありません。いい加減にしなさい!」


次の瞬間、籠目は引きはがされた。


「習字の続きです。さっさと筆を持ちなさい」


籠目は渋々と筆を持った。


その横顔は、楽しそうな笑顔だった。


宗一郎は、由比ガ浜に沈む夕日に端末を構えていた。


「もう少しかな……」


「で、どうしたんだい。信一」


宗一郎は、夕日から目を離さないまま言った。


「そこにいると、影が入ってしまうよ」


「チッ」


久我は、不機嫌さを隠すことなく移動した。


「貴様、何をしている」


「おっ、ベストショット!」


宗一郎は、沈んでいく夕日を見つめたまま、嬉しそうに笑った。


「これは喜んでくれるかも」


沈みかけた夕日が、海の向こうで揺れている。


赤と金の光が、波の上に細く伸びていた。


籠目が見たいと言った夕日。


宗一郎は、それをただ撮っているだけだった。


けれど、その顔は真剣だった。


まるで、とても大切な約束を果たそうとしているように。


宗一郎は、夕日を見ながら言った。


「まあ、君がわざわざこちらの研究室に来るんだ」


沈みかけた夕日が、海の向こうで揺れている。


「日の丸総理についてかな?」


「……気づいていたか」


「そろそろかなって思っていただけだよ」


宗一郎は、そこでようやく久我を見た。


「コーヒーでも出すよ」


そう言って、研究室の方へ歩き出す。


「続きは中で話そう」


「……フン」


久我は不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも、黙ってその後に続いた。


「まあ、適当に座ってよ」


久我は、窓際の一人掛けソファに腰を落とした。


「君は、いつもそこに座るね」


「別に深い理由はない」


宗一郎は、コーヒーを淹れながら言った。


「ミルクはなし。砂糖は角砂糖二個だったね」


「ふん。これは――」


「科学飲料だ、だろ」


宗一郎は、久我の言葉を遮るように言った。


久我は、わずかに目を細めた。


以前の宗一郎なら、ここで笑ってごまかした。


受け身に聞いて、軽口で流して、少しだけ困ったように笑ったはずだった。


けれど、今の宗一郎は違った。


言葉を取った。

間を取った。

そして、先に進めた。


久我は、その変化を見逃さなかった。


「ここなら、盗聴もできない。防音も完璧だ」


「これで駄目なら、お手上げだね」


そう言って、宗一郎は軽く手を上げた。


「はい。コーヒーをどうぞ」


久我は、差し出されたコーヒーに口を付けた。


その瞬間、目を見開く。


「貴様、どういうつもりだ」


「この豆は……」


宗一郎は、目をつぶりながら味わうように飲む。


「誓いの豆。昔、三人で盃を交わした豆だよ」


「何が言いたい」


宗一郎はカップを置くと、目を閉じた。


「今、君と飲むなら、やっぱりこの豆かなって」


それから、静かに言った。


「それだけだよ」


「……貴様。まさか、また同じ過ちを……」


宗一郎は表情を変えずに言った。


「信一。話をしに来たんだろう」


久我は、疑念を断ち切るように一度目をつぶった。


「……そうだ」


「日の丸総理は、現人神を作ろうとしている」


「……気づいていたか」


「超高知能AIに目が行きがちだけど、籠目の本質はそこではない」


久我は、黙って聞いていた。


「籠目の本質は、超成長だ」


「ただの国家AIを作るだけなら、超高性能だけでいいからね」


宗一郎は、静かに言った。


「君の主張通りだよ。本当に……」


久我は、目をきつく瞑り、続きを促した。


宗一郎は久我を一目見ると、コーヒーに視線を落とした。


水面に映る自分の冷たい目に、小さく苦笑いする。


「しかし、僕の予想では、現人神は計画の途中にすぎない」


宗一郎は、カップを見つめたまま続けた。


「僕には、再度、国家再編を目指しているようにしか見えないんだよ」


久我は目を見開いた。


「なんだと。総理は、あの惨劇を忘れたのか」


久我の声に、怒りが滲む。


「あれは、国家再編などという生易しいものではなかった」


宗一郎は、真剣な表情で頷いた。


「その通り」


それから、静かに言った。


「あれは、救済の名を借りた虐殺だ」


「ただ、まだ時間はある」


宗一郎は静かに目を閉じた。


「信一。その時が来たら、また三人で盃を交わしてくれるかい?」


「宗一郎。貴様はいったい、何を知っている」


宗一郎は寂しそうに笑うと、その問いには答えなかった。


籠目は、居間に飾られた三枚の半紙を見ていた。


美しい字の、


『籠目』


汚い字の、


『椿』


そして、もっと汚い字の、


『宗一郎』


それを見ながら、籠目は嬉しそうに微笑んだ。


完璧ではない。


知識とも違う。

美意識とも違う。

理屈でも説明できない。


けれど、そこにある三枚は、籠目にとって確かに美しかった。


白沢椿が書いた、籠目。

籠目が書いた、椿。

籠目が書いた、宗一郎。


名前が並んでいる。


それだけのことが、なぜこんなに嬉しいのか。


籠目には、まだうまく分からなかった。


それでも、もう怖くはなかった。


籠目は、三枚の半紙を見つめながら、小さく呟いた。


「白沢籠目……」


その響きを、何度も心の中で繰り返す。


そして、嬉しそうに笑った。


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