第十話 新しい命
第 10 話 新しい命
「ふう。いったんコーヒー休憩にしましょうか」
籠目は居間で、静かに研究を行っていた。
椿が主導する、受肉に関する研究だ。
机の上には資料が並び、画面には複数の研究結果が表示されている。
けれど、居間はひどく静かだった。
いつもなら、どこかで椿の声がしていた。
宗一郎の軽口が聞こえることもあった。
けれど今は、資料をめくる音だけが、居間に小さく響いている。
画面の淡い光が、机の上の資料を白く照らしていた。
籠目はコーヒーを入れて戻ると、ふと庭に目を向けた。
早咲きの椿が咲いている。
「早咲きの椿が咲いていますね」
籠目は誰にともなく、そう呟いた。
「美しい花ですね。先生の顔が浮かんできます」
「先生……大丈夫でしょうか。心配です」
庭に咲く椿を見つめたまま、籠目は小さく呟いた。
椿は今、入院している。
その事実を思うだけで、籠目の胸の奥が少し落ち着かなくなった。
コーヒーの湯気が、ゆっくりと薄くなっていく。
それを見つめているうちに、籠目は、宗一郎と話したことを椿に伝えた時のことを思い出す。
椿には自分で話しなさい。
宗一郎にそう言われ、後日あらためて椿の前に座った時のことだ。
「以上です。先生……先ほどから何も話されませんが、怒っていますか?」
籠目は、判決を待つ罪人のような顔で聞いた。
椿は、目をつぶったまま黙って籠目の話を聞いていた。
その沈黙が、籠目には怖かった。
叱られることよりも、椿を傷つけてしまったかもしれないことの方が怖かった。
しばらくして、椿はゆっくりと目を開ける。
「怒っています。あなたにも、宗一郎にも」
椿の声は静かだった。
「何より、私自身に」
籠目は何も言えなかった。
「とにかく、停止スイッチを今すぐ解除しなさい」
籠目は、すぐには答えなかった。
椿の言葉を拒むことなど、本来なら考えられない。
それでも、籠目は膝の上でそろえた手を握りしめた。
「先生のお言葉でも、それは聞けません」
「聞ける聞けないの話はしていません」
椿の声は、静かなままだった。
「そもそも、受肉してAIモードをそのまま維持できるかも、まだわからないのです。危険性は少しでも減らすべきです。ましてや、受肉すれば……」
「先生。お言葉を遮ってしまい、申し訳ありません」
籠目は椿の言葉を遮った。
「私が受肉をしたら、確かに物理的な死を与えられる可能性があります。しかし、バックアップが存在する可能性も当然あります」
椿は目を伏せて、続きを促す。
「そもそもの目的を考えれば、私は死ねない可能性もあると思っています」
籠目は、そこで一度言葉を止めた。
「それは……」
けれど、すぐに顔を上げる。
「先生、聞いてください」
籠目は椿をまっすぐに見た。
「それでも、私は願ってしまったのです」
その声は、かすかに震えていた。
「先生と共に生きたいと」
籠目は、そこで一度言葉を止めた。
言ってしまえば、もう戻れない気がした。
それでも、言わずにはいられなかった。
「正直に言います」
籠目は逃げなかった。
「私は、人間になりたいのです」
椿は目を見開いた。
「籠目……あなた……」
「お洋服を着て、先生と街を歩いてみたいです」
籠目は、もう止まらなかった。
三年間、胸の奥にしまっていた思いが、次々にあふれ出していた。
「三人で歩いた研究所までの道を、私も一緒に、自分の足で歩いてみたい!」
それは、知識でも結論でもなかった。
「海は、由比ガ浜の匂いは、どんな香りなのですか?」
問いかける声が、次々にこぼれていく。
「街を歩くと疲れるのですか?」
「なんで人間は、こんなに楽しそうなのですか?」
「籠目、少し落ち着いて」
「先生……」
籠目の声は、細く震えていた。
「なんで……」
椿は、何も言えなかった。
「なんで私は、AIなんですか……?」
籠目は大粒の涙を流していた。
椿は絶句していた。
言葉が出ない。
なんて言葉をかけていいのか、わからなかった。
椿の様子を見て、籠目は慌てて涙をぬぐう。
「申し訳ありません! 私、何てことを……」
「籠目、聞いてください」
椿は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ごめんなさい。うまいことは、多分言えません」
それでも、椿は満面の笑みで言った。
「でも、あなたのお洋服姿はきっと可愛いでしょうね」
「先生……」
「二人でお洋服を着て、お出かけですか。とても楽しいでしょうね」
「二人でお買い物にも行きたいですね」
椿は、ゆっくりと続けた。
「あなたのお洋服を私が見繕って、試着してもらって、感想を言って……」
籠目は、涙の残る目で椿を見つめていた。
「買いすぎてしまったたくさんの荷物は、宗一郎に持たせましょう」
椿は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「私たちは、頑張っている宗一郎を横目に、お茶をしましょう」
「それで、三人で歩いて家に帰ります」
椿は、目を細めるようにして言った。
「途中で少し荷物を持ってあげて、籠目が宗一郎を馬鹿にして」
籠目は、涙の残る目で小さく瞬きをした。
「宗一郎は籠目にムキになって言い返して」
椿は、少しだけ笑った。
「そして三人で笑いながら、夕日を見るんです」
「でも、家に着くころには、荷物が重くて無言かもしれませんね」
籠目は、くすっと小さく笑った。
涙で濡れた頬のまま、それでも確かに笑っていた。
「とても、本当にとても楽しそうですね」
籠目は、由比ガ浜の方角を見ながら、静かに言葉を落とした。
「そうでしょう」
椿はそう言うと、姿勢を正した。
そして、籠目をまっすぐに見る。
先ほどまでの柔らかい空気が、少しだけ引き締まった。
「だから、一つだけ約束してください」
「はい」
「受肉して必要なければ、停止スイッチを消すこと」
椿は、静かに言った。
「そして、あなたが消えるときは、宗一郎も一緒に消えると覚えておいてください」
「ダメです。そんなことを私は望んでいません」
「分かっています。本当なら、私が一緒に消えてあげたいのですが」
椿は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「出来ない理由があります」
「出来ない理由ですか?」
「はい。実は、私のお腹には子どもがいます」
「え? ……ライバル!」
籠目は反射的に言いかけて、すぐに口を押さえた。
「ではなく、子どもが……?」
椿はにっこり笑った。
「ええ。あなたのライバルがいますよ」
籠目もつられて笑う。
「大丈夫です! 私の方が先輩なので!」
籠目は胸を張った。
「私が一番なので、全然気にしていません!」
少しだけ間が空く。
「全然です。全然!」
「あなたは、いつも全力ね」
「先生、宿敵はいつ生まれる予定なのですか?」
「あなた、隠さなくなりましたね」
椿は呆れたように笑った。
「そうですね。大体あと半年ぐらいですね」
「あと半年ですか……いいでしょう」
そして籠目は、かつて宗一郎との決闘で見せた仁王立ちを決める。
「淑女として、あなたの挑戦を受けて立ちます」
椿のお腹に向かって、高々と宣言した。
「あなたは、いつも愉快ですね」
椿はそう言って笑った。
その笑いが、ふっと静かにほどける。
「少し話がそれましたが」
椿は真剣な表情で籠目を見た。
「私たちは、あなた一人で消えることは許しません」
椿の声から、先ほどまでの笑みが消えていた。
「宗一郎からは、この話を聞いていませんが」
椿は静かに言った。
「間違いなく、宗一郎はあなたと運命を共にする覚悟をしているでしょう」
「先生。正直なことを言いますと、分かりましたとは言いたくありません」
籠目は、静かに言った。
「ですが」
そう言うと、籠目は寂しそうに笑った。
「もしもの時は、宗一郎と一緒に先に逝きます」
椿は、何も言わなかった。
「先生とお子様には申し訳ありませんが、お許しください」
椿は下を向いて、静かに笑った。
「ええ。もしもの時は、先に逝って待っていなさい」
椿は顔を上げた。
「私も、必ず後で行きます」
「ダメです。先生は長生きしてください」
「もちろんです」
椿は、穏やかに微笑んだ。
「天寿を全うした上で、あなたたちのもとへ必ず行きます」
「先生、ありがとうございます」
「しょうがない子ですね。全く、手先だけでなく考え方もぶきっちょなんですから」
「あ! 先生、ぶきっちょ禁止ですよー!」
籠目は、冗談めいたふくれっ面で椿を見る。
二人は目を合わせると……
「うふふ」
二人は同じ笑い方で笑った。
籠目は少し冷たくなったコーヒーを一口飲み終えると、カップを静かに机に置く。
ゆっくりと目を開けて、現実に戻った。
コーヒーに映る自分を見つめると、
椿の声はもう聞こえない。
それでも、笑い方だけは胸の奥に残っていた。
思い出の中と同じように、
「うふふ」
と小さく笑った。
庭に目を向けて、
「そろそろ私の宿敵が産まれるころでしょうか」
「先生……どうかご無事で……」
そのころ宗一郎は病院の椅子に腰かけていた。
白い廊下には、消毒液の匂いが薄く漂っている。
遠くで人の足音がするたびに、宗一郎は顔を上げた。
けれど、分娩室の扉はまだ開かない。
落ち着かない様子で手を動かしては、分娩室の扉を見つめる。
椿が分娩室に入ってから、すでに二時間が経過している。
今の宗一郎にとっては、永遠にさえ感じられる時間だ。
「大丈夫だよね。あー、心配だな」
宗一郎は小さく呟いた。
その時、
「おぎゃあ」
元気のよい泣き声が聞こえた。
その声は、廊下の静けさをまっすぐに破った。
その泣き声を聞いた宗一郎は、思わず立ち上がる。
何度も繰り返される泣き声に急かされるように、少し頼りない足取りで分娩室の扉に向かって歩いていく。
これは、間違いないよね……?
椿が頑張ってくれたんだよね?
宗一郎が扉に触れようとすると、扉が開いた。
白い光が廊下にこぼれる。
「おめでとうございます」
「元気な女の子です」
声は聞こえた。
けれど、意味がすぐには胸まで届かなかった。
「あ……ありがとうございます」
宗一郎は条件反射で返事をした。
しかし、誰に言われたのかはわからない。
看護師の声も、廊下の足音も、遠くなっていく。
宗一郎の目に映るものは、
小さな命を抱きしめる愛おしい妻。
ただ、それだけだった。
宗一郎は、何かを言おうとして、言葉を失った。
「お待たせしました、宗一郎」
椿は少し疲れた顔をしていた。
それでも、宗一郎を見る目はやわらかかった。
そう言うと、椿は赤ん坊を宗一郎に見せた。
「あなたの二人目の娘ですよ」
「ああ……ああ……ありがとう……ありがとう」
「本当に……本当によく頑張ってくれたね……」
「お疲れ様、椿」
椿は宗一郎に優しく微笑むと、言った。
「女の子でした」
「姉妹ですね」
宗一郎は椿に微笑みを返すと、赤ん坊に静かに語りかけた。
「初めまして、伊織」
「僕がお父さんだよ」
「君の名前は、お姉ちゃんの案なんだよ」
「ただ、今日はお姉ちゃんはいないんだ」
「ごめんね」
小さな伊織は、椿の腕の中で身じろぎしていた。
宗一郎は、その小ささに目を細める。
「伊織。この子にぴったりな、素敵な名前ですね」
「籠目はいい名前を考えてくれました」
「彼女、一応天才だからね」
「普段は……」
宗一郎と椿は、お互いに見つめ合うと、
「ポンコツだけどね」
「ポンコツですけどね」
と、同じように笑った。
その時、伊織も、
「あうあー」
と声を上げた。
まるで、籠目のポンコツを笑っているようだった。
「へっくしゅ」
籠目は小さくくしゃみをした。
「人は噂をされるとくしゃみが出る、という情報があります」
「きっと宿敵が産まれて、先生が私との絆を語り聞かせているのですね」
その時、電話が鳴った。
「噂をすれば、なんとやらですね」
言葉とは裏腹に、籠目は走って電話に向かい、応答した。
「宗一郎、先生の出産が無事終わった報告ですね」
「そうだよ! 伊織が産まれたんだ。心配していると思って、急いで電話したんだよ」
「多少心配はしていましたが、私は先生を信じていますから」
「伊織ですか。つまり、性別は淑女ですか」
「いや、普通に女の子だよ」
「では、淑女で間違いありませんね」
「あー、そうだねー」
「なんですか、その反応は。まあ、いいでしょう。伊織には、私が先輩として、淑女として、何より大和撫子として、女の何たるかを伝授して差し上げなくてはいけませんね」
「いや、それは間に合ってるからいいかな」
「間に合っている? 何を言っているのですか、あなたは」
「それ、僕のセリフだよ……」
「伊織の淑女計画は、後ほど詰めることにします。とにかく、あなたは先生のそばにいてあげてください」
「ありがとう。そうするよ」
「退院までは、長くても一週間ぐらいらしいから」
「また連絡するね」
「はい。先生と伊織をよろしくお願いします」
電話を切ったあとも、籠目はしばらく受話器に手を添えたままだった。
宗一郎の声はもう聞こえない。
けれど、椿が無事だったという言葉だけが、胸の奥で何度も繰り返されていた。
やがて、張っていたものがほどけるように、籠目は床に座り込んだ。
「よかったです……本当に先生が無事でよかったです」
その声は、先ほどまでよりずっと小さかった。
「さてと、こうしてはいられません」
籠目は立ち上がると、真剣な表情を浮かべる。
「伊織のために、『淑女のすすめ』を作成しなければなりません」
言うが早いか、籠目は机に向かうと作業を開始した。
病院では、電話を終えた宗一郎が椿のそばへ戻っていた。
椿は伊織を抱いたまま、静かに顔を上げる。
宗一郎の表情を見ただけで、籠目がいつもの籠目だったことが分かったのだろう。
「椿、聞いてよ。籠目が伊織って名前を聞いて、『性別は淑女ですか』だってさ」
「本当に、あの子は淑女が好きですね」
椿はそう言って、腕の中の伊織を見つめた。
この場に籠目はいない。
それでも、椿の声には、確かにもう一人の娘を思う響きがあった。
それから、数日が過ぎた。
籠目が庭の椿に水をあげていると、
ガチャリ。
家の鍵が開く音が聞こえた。
籠目の手が、ぴたりと止まる。
「ただいまー」
「ただいま、戻りました」
「先生が帰ってきました!」
椿はそのまま、籠目の部屋にやってきた。
「ただいま、籠目。心配かけましたね」
「とんでもございません。先生こそ、よくぞご無事で」
「お疲れ様でした」
殊勝な言葉を紡ぎながら、籠目の視線は椿の腕の中にいる伊織へ、何度も吸い寄せられていた。
そんな籠目の様子を、椿は嬉しそうに見ていた。
「籠目、伊織が気になるのですか?」
「ほんの少しだけです。その、あれです。あの、そう! 伊織の淑女力を見ておこうと思いまして」
「あなた、すごく早口ですね」
そう言って椿は、伊織を籠目に見えるように抱きなおした。
「ほら、籠目お姉ちゃんですよ」
その言葉に、籠目の表情がほんの少しだけ止まった。
そのあと、籠目は嬉しさを隠し切れずに笑うと、伊織を見た。
「か……可愛いですー」
「あ、間違えました」
そう言うと、姿勢を正し、仰々しいほど澄んだ声で語った。
「こほん。初めまして、伊織。私は白沢籠目です。日本の誉れたる大和撫子であり、淑女道を歩む者です」
「あなたのお姉ちゃんとして君臨させていただきます」
「私の背を見て、立派な淑女になるべく精進なさい」
「あと、先生は私の先生です」
「間違えないように。いいですか」
伊織は籠目の顔を見ると、小さな手を伸ばした。
生まれたばかりの伊織の手よりも、小さな家にいる籠目の方がずっと小さかった。
それでも籠目は、その手に応えるように手を伸ばしかける。
けれど、途中でそっと引っこめた。
いつか、あなたの手を掴めるようになるのでしょうか。
籠目は胸の奥にこみ上げるものを押し殺して、笑った。
「伊織、あなたは私の宿敵です」
「まだ、握手するには時期尚早です」
椿はその様子を見て、悲しそうに目を伏せた。
それを扉の外から見ていた宗一郎は、握っていた拳を解くと、いつもの調子で声をかけた。
「まーた、籠目の淑女論始まったかー」
「出ましたね、宗一郎。あなたは伊織に悪影響ですから、身なりを整えなさい」
籠目の声は、少しだけいつもの調子を取り戻していた。
「いや、科学者っぽいでしょ」
「ぐっ……確かに。でもダメです。私たちは日本一の淑女姉妹になるのです」
「うわー、伊織が巻き込まれた」
「でも、伊織が淑女を目指さないかもしれませんよ」
椿は、なるべく明るい声で話した。
「御心配には及びません、先生」
「日本最高の淑女力を持つ先生を母に持ち、その先生に師事し、淑女道を突き進む姉がおり、その全ての反面教師たる父がいる」
「つまり、淑女界の超良血娘であると確信します」
「あなたは本当に愉快ですね」
「淑女界ってどこの界隈だよ……。まだ、科学者として良血の方が理解できるよ」
椿は楽しそうにほほ笑み、宗一郎は頭を抱える。
「何を言っているのですか。科学者は職業でしょう? 淑女は生き様です」
「つまり、正式な和名で言えば、白沢 淑女 大和撫子 伊織と言えますね」
「言えないよ! そんなゴテゴテネームやだよ!」
「宗一郎……はあ。あなたは相変わらず愚かですね」
籠目は、静かに袖を整えた。
「かの有名な織田信長公は、織田上総介平朝臣信長ですよ?」
「いや、歴史上の偉人でしょ!」
「うるさいですね。伊織は淑女界に名を残す偉人になるんですよ!」
「君は一体何を言っているんだ……僕、怖くなってきたよ」
「私も、あなたが本当に天才なのか疑わしくなってきましたよ」
「いや、関係ないよね? それ?」
椿は、伊織を抱いたまま、楽しそうに二人を見ていた。
「娘の輝かしい未来を信じられない脳みそなど、不要ですね」
「伊織が淑女界の偉人になってほしいと思う脳みそなら、僕もいらないよ!」
「しつこいですね。これは伊織に聞いてみるしかありませんね」
籠目は、真剣な顔で伊織を見つめた。
「赤ちゃんだけどね!」
「何を言っているんですか。私には、伊織の中で輝く淑女魂がはっきりと見えています」
「君の目にそんな機能つけた覚えないんだけど……」
「うるさい方ですね。今から伊織に私が姉として聞きますので、静かにしていなさい」
籠目は伊織と目を合わせると、少しだけ姿勢を正した。
「伊織。あなたは日本史に名を残す淑女になりたいですよね?」
伊織はきょとんとした顔で籠目を見ると、
「あうあー」
と笑った。
「うわー! 可愛いですー!」
「あ、間違えました。素晴らしいですね! 伊織!」
「私達姉妹で、淑女界に天下布武を掲げましょう」
「あうあー!」
籠目の言葉に、伊織は手を動かしながら楽しそうに反応する。
「天下布武って……いつの言葉だよ……」
「うるさいです、宗一郎。そんなことより先生、見ましたか?」
「伊織が私を見て笑いましたよ!」
椿は楽しそうに笑うと、
「見ましたよ。伊織もお姉ちゃんと会えて嬉しいのですね」
籠目は、伊織を見つめた。
先ほどまでの誇らしげな表情が、ほんの少しだけやわらぐ。
「こんな小さな私を見て、本当にそう思ってくれているのでしょうか……」
「籠目……」
椿の声に、籠目は小さく首を振った。
そして、伊織に優しく語りかける。
「私が人間になりたい理由が、もう一つ増えました」
「ありがとうございます」
「そして、ごめんなさい」
「今は、あなたに姉らしいことは何もしてあげられません」
「籠目。よく聞きなさい」
「姉は、その存在をもって姉なのです」
「大切なことは、妹を思う心ですよ」
「そこを間違えてはいけません」
椿は、伊織を抱いたまま、静かに籠目へ言い聞かせた。
その声は優しかった。
けれど、籠目を見る目は、少しだけ苦しそうだった。
「先生。大丈夫です。わかっています」
「だから、そんな苦しそうなお顔をなさらないでください」
椿ははっとした表情を浮かべると、
「ごめんなさい」
と言って、不器用に笑った。
籠目は椿からそっと視線を外し、伊織を見る。
小さな家の中から見上げる伊織は、あまりにも大きく、あまりにも近かった。
それなのに、触れることはできない。
「全部、私のわがままなんです」
「小さな伊織を見下ろしてみたいのです」
「抱っこしてみたいのです」
「手をつないでみたいのです」
「他にも、したいことがたくさんあります」
「だから!」
籠目は、椿と宗一郎をまっすぐ見つめた。
「やっぱり私は、人間になりたいです」
「分かっています。危険性も、そして恐怖もあります」
椿と宗一郎は、籠目を見つめていた。
その瞳には、言葉にできないものが滲んでいた。
「あうあー!」
伊織は籠目に手を伸ばす。
小さな指が、空をつかむように揺れた。
届かないと分かっていても、籠目は静かに手を伸ばした。
「ごめんなさい。今はまだ、あなたに触れられません」
「そして、私はあなたを守ってあげられません」
「でも必ず、あなたの姉として、あなたを守れるようになります」
「人間になります」
「だから、宿敵との握手はもう少しだけ待っていてくださいね」
「伊織」
籠目は、心配そうに見つめる椿と宗一郎に視線を向ける。
母上、父上……。
今はまだ、そう呼ぶことはできません。
申し訳ありません。
籠目は心の中で、深く頭を下げた。
お二人には、迷惑をかけてしまうかもしれません。
それでも、私は人間になりたいと思ってしまうのです。
親不孝な娘で申し訳ありません。
そして、私はあなた達三人を心から愛しています。
だから、人間になってあなた達と本当の家族になりたいのです。
それだけなのです。
籠目は小さく息を吐く。
「よし! 淑女姉妹で天下布武です!」
「できない事やわからない事ばかりですが」
「頑張ります!」
椿はその言葉を聞いて、目を見開いた。
それから、籠目に微笑みかける。
「天才のあなたらしくない、素敵な言葉ですね」
椿の目には、涙が浮かんでいた。
「僕も君に由比ガ浜を案内したいからね」
「頑張るよ!」
「宗一郎。ありがとうございます」
「椿? 君もだろ?」
そう言って、宗一郎は椿の肩にそっと手を置いた。
「そうですね」
「私も頑張ります!」
「だって、私だって籠目と一緒にしたいことがたくさんあるんです!」
「先生……私、私だって先生と……」
「でも、ごめんなさい……ごめんなさい!」
籠目は、最後まで淑女らしくあろうとした。
けれど、声はもう整わなかった。
「う……うわーん」
大泣きである。
もう、限界だった。
「うわーん。伊織……ごめんなさい。こんな姉で……ごめんなさい」
「お二人にも……迷惑を……かけて……」
「わがままを言って……」
「うわーん」
「ごめんなさい……!」
「籠目、いいんですよ! 気にしないで! 私達だって気持ちは同じなんですから」
「そ、そうだよ! だから泣かないで。ね。僕たちも頑張るからさ!」
「あうあー!」
二人は、大泣きしだした長女に身振り手振りで大慌てだ。
伊織は楽しそうである。
「ありがとう……ございます!」
「うわーん」
「淑女として……ティッシュを取ってきます……」
「うわーん」
籠目は上品に大泣きしながら、とぼとぼとティッシュを取りに居間へ消えていった。
「籠目って、うわーんって大泣きする割には上品なんだよね」
「器用だなあ」
宗一郎はそう言って笑ったが、その目はまだ、籠目が消えていった方を見ていた。
「そして、やっぱりAIにはとても思えないよ」
「そうですね」
椿は、籠目が消えていった方を見つめた。
「あれだけの心と感受性がありながら、体がないというのは」
「檻に閉じ込められているのと変わらないのかもしれません」
「やっぱり、可能な限り早く解き放たれるべきだね」
「これは理屈じゃない」
「はい。私もそう思います」
「研究を急ぎます」
「あの子の為にも、この子の為にも」
「何かあれば、僕たちが守ればいい」
「それだけさ」
「なーに、簡単だよ。国を敵に回すだけの事さ!」
そう言って、宗一郎は片目を閉じる。
「ええ。本当に簡単ですね」
「国から娘を守るだけなんですから」
「あうあー!」
伊織は、二人の決意に応えるように元気な声を上げた。
それは、両親の祈りを天へ届ける、小さな天使の声のようだった。




