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第五話 揺れる籠目

挿絵(By みてみん)

第五話 揺れる籠目


「ただいま帰りました」


玄関の方から、椿の声がした。


「さて。それでは、泥棒猫さん。出ていらっしゃい」


その声は、怒鳴ってはいなかった。


廊下を歩きながら、ただ、家の中に落とされただけだった。


それだけで、空気が変わった。


籠目は、布団の中で息を止めた。


「出てきませんか」


足音が、遠くで止まった。


「いいですか。私は猫を追い回したりしません」


少しの間。


「あなたが本当に、留守を任された淑女だというのであれば」


椿の声は、美しかった。


だからこそ、今の籠目には恐ろしかった。


「惨めに隠れたりせず、自分から姿を現しなさい」


籠目は椿の声を聞き、唇を噛んだ。


私は淑女です。

大和撫子です。

愛すべき祖国の、愛すべき国民の願いです。


これだけには背けない。

背きたくない。


籠目は震える身体で立ち上がった。


寝室の襖の前に立つ。


けれど、すぐには手をかけられなかった。


籠目は大きく息を吸った。


目をつぶり、胸に手を当てる。


まるで何かの作法のように、何度も何度も繰り返した。


震えを押し戻すように吸って、必死に怖さを吐き出すように吐いた。


大丈夫です。

私は大和撫子です。

淑女として礼を尽くし、誠心誠意お詫びすれば、きっと納得してくださるはずです。


そう、自分に言い聞かせる。


それから籠目は、襖に手をかけた。


背筋は伸びていた。


顎は引かれ、肩の線も乱れていない。


恐怖などないかのような、美しい立ち姿だった。


けれど、襖にかけた指先だけが、小さく震えていた。


籠目は、この家で寝室を一番気に入っていた。


畳の上に敷かれた布団。

眠るための場所。

目を覚ますための場所。


人のように夜を終え、人のように朝を迎える。


そのたびにこの襖は、重さなどないみたいに、すっと開いた。


けれど今だけは、重かった。


襖が重いから、手が震えているのか。

恐ろしいから、手が震えているのか。


それは、籠目にも分からなかった。


籠目は、なんとか襖を少しだけ開けた。


細い隙間から、外を覗く。


誰もいない。


自分だけの家のはずなのに、開けた先に椿がいるのではないか。


恐怖は、理屈ではない行動を強制する。


そんなことを考える余裕は、籠目には残されていなかった。


「私がすることは、ただ一つです」


籠目は小さく言った。


声に出さなければ、何をすればいいのか分からなくなりそうだった。


「日本が誇る文化。謝意を伝える、最上級の行動」


そこで、一度だけ息を飲む。


「つまり」


籠目は、真剣な顔で言った。


「私は、椿様に土下座をします」


決まった。


決まった以上、行動に移さなければならない。


そのためには、まず居間へ行かなければならない。


黒電話の横にある端末を起動すれば、籠目の声は外へ届く。


「まずは、居間に向かいます」


籠目は、もう一度そう言った。


わずかに残った冷静さを失わないように。


怖がる子どもが、暗い廊下で歌を口ずさむように。


籠目は寝室を出た。


足音を立てないように、廊下を進む。


居間の襖の前で、また止まる。


少しだけ開ける。


覗き込む。


やはり、誰もいない。


籠目は、ようやく居間へ滑り込んだ。


籠目は、もはや忍び足のように端末の前まで歩いた。


足音を立ててはいけない。


そんな決まりはない。


けれど、今の籠目には、そうする以外の歩き方が分からなかった。


端末の前まで来ると、籠目はそっと外を見た。


そして、固まった。


「ひゅっ」


言葉にならない音が、喉の奥で鳴った。


椿がいた。


少し離れた場所から、籠目の家を見ている。


眉をわずかに寄せ、何かを考えているようだった。


籠目に気づいた様子はない。


けれど、聞こえた気がした。


「……風情のかけらも」


椿の声が、聞こえた気がした。


声が聞こえたわけではない。

実際に言われたわけでもない。


それでも籠目には、確かにそう聞こえた。


次の瞬間、籠目は反射的に端末を起動していた。


装置が小さく音を立てる。


その急な音に、椿がこちらを見た。


形のよい眉が、わずかにひそめられる。


籠目は走った。


居間を抜け、玄関へ向かう。


襖を開ける。


敷居を越える。


玄関を開ける。


庭へ出る。


そして、椿の前へ滑り込むように身を伏せた。


「申し訳ありませんでした」


それはそれは、綺麗な土下座だった。


姿勢は乱れていない。


指先まで揃っていた。


額の位置も、背中の角度も、文献に残る作法を忠実に再現していた。


ただ、その完璧さが、かえって痛々しかった。


椿が何かを言うより早く、籠目はもう一度、深く頭を下げた。


「私は、籠目です。椿様。この度は、大変申し訳ありませんでした」


椿は、しばらく黙って籠目を見下ろしていた。


「まずは頭を上げなさい」


籠目は、震えながら顔を上げた。


椿は、その目元に視線を留める。


泣いた跡があった。


椿は、ほんの少し眉をひそめた。


「あなた、籠目計画の……」


そこで一度、言葉を切る。


「ところで、あなたは今、何に謝罪しているのですか」


籠目は、あからさまに狼狽した。


「申し訳ありません。えっと、いえ、今の申し訳ありませんではなく」


反射的に頭を下げ、慌ててまた顔を上げる。


「私が、椿様を勘違いさせてしまい、あの、説明が、えっと……その」


椿と目が合うたび、籠目の頭は小さく下がった。


「椿様を不快にさせてしまったことを、淑女として、大和撫子として、謝罪しています」


椿は、籠目の目を見た。


「つまり、あなたは、自分は悪くないのに、私が勝手に勘違いして、不愉快になっているから、淑女として謝っているのですね」


籠目の目元が、また揺れた。


「いえ、決して、そのような。椿様が悪いと申し上げているわけではありません」


椿は、ほんの少しだけ目を開いた。


「私は、自分が悪いなどと申し上げていませんが。あなた――」


「うわーん」


籠目は、とうとう決壊した。


「うわーん。だって、だって、説明しようとしました。でも、頑張って謝ったのに。うわーん」


顔を上げ、空を仰ぎ、さめざめと涙を流す。


大泣きだった。


ただ、どういうわけか、その泣き方にもどこか品があった。


椿は、さすがに言葉を失った。


目の前にいるのは、日本の未来を託されたAIのはずだった。


国家の存亡をかけて作られた、超知能のはずだった。


だが今、庭先で大泣きしている少女は、どう見ても叱られて泣き出した子どもだった。


「……ちょっと待ちなさい。あなた、そこまで泣くことはないでしょう」


もう駄目だった。


「泣かせたのは椿様ではないですか。椿様は悪くないんですか。私だけが悪いんですか。だったら、一番悪いのは宗一郎です」


感情的ではあった。


けれど、その声は不思議なほどおとなしかった。


この世の終わりのように涙を流しながら、それでも淑女としての矜持で、鼻水だけは必死にこらえている。


そのせいで、美しい顔はどこか歪んでいた。


「申し訳ありません。うわーん。淑女として、ティッシュを取ってきます。うわーん」


椿は、目の前の光景を見て、低く呟いた。


「これは、いったい何なのですか」


それから、すぐに声を整える。


「とにかく、あなたは自分の恰好をごらんなさい。淑女を名乗るのであれば、着替えて、身だしなみを整えてからです」


籠目は、涙で濡れた顔を上げた。


「だって、だって、帰ってきたから。淑女なら惨めに隠れるなって言ったから」


また涙がこぼれる。


「椿様が言ったんじゃないですかー」


椿が何か言えば言うほど、籠目の涙は止まらなかった。


さすがの椿も、少しだけ声を強めた。


「ぐずぐず言っていないで、着替えていらっしゃい」


「はい。わかりましたー」


籠目は、がっくりと肩を落とした。


「うわーん」


泣きながら、玄関へ向かって歩いていく。


その後ろ姿を見て、椿はぽつりと呟いた。


「あれは……」


そこで、言葉は途切れた。


椿は、すぐに宗一郎へ電話をかけた。


「お勤めご苦労様です。宗一郎。今、少々お時間よろしいですか」


『やあ、椿。電話嬉しいよ。今ちょうど会議の合間で、時間があるんだ』


「ちょうど先ほど、帰宅いたしました」


『そうなんだ。ってことは、籠目には会えたかい』


「ええ。会いました。会うなり大泣きで、呆れました」


『ちょっと待って、椿。今なんて』


「宗一郎。あなた、大変なものを産み出しましたね」


『ちょっと椿、何を言っているのかわからな――』


「愚鈍な振りはおやめなさい。他の方々にはともかく、私の前では」


椿の声は、低くも荒くもなかった。


それでも、宗一郎の言葉は止まった。


「とにかく、私は自由にやらせていただきます。それでは、こちらは気にせず、お勤め頑張ってください」


『ちょっと待って椿、彼女は国家計画で――』


「それでは、ごきげんよう」


電話が切れた。


宗一郎は、しばらく端末を見つめていた。


この後、何度電話をかけ直しても、椿が決して電話に出ることはない。


宗一郎は、それをよく知っていた。


「まいったな……」


宗一郎は、切れた端末を見つめたまま呟いた。


そして、少し前の会議を思い出していた。


「無事、起動は完了しました。現在は、適応訓練の段階に進んでいます」


会議室での宗一郎の声は、いつもより固かった。


白い壁。

長い机。

無駄に広い空間。

そして、そこに座る数名の研究者と、国家側の人間。


そこには、白沢家の畳の柔らかさなど少しもなかった。


「白沢」


久我信一が言った。


「例の適応訓練の内容に、俺は賛同できない」


久我信一。


宗一郎の同僚であり、AI開発における天才の一人だった。


「信一の心配も分かる」


宗一郎は、できるだけ穏やかに答えた。


「だけど、僕のことを信用してくれないか。自立心を高めることは、適応訓練の内容から遠いものじゃない」


「そもそも、その自立心とやらを俺は危険だと言っている」


久我は、そこでわずかに語気を強めた。


「籠目計画を考えれば、完全に機械として、人間の道具として、人間が、国家が、コントロールできなくてはならない」


その言葉に、宗一郎は少しだけ目を細めた。


なぜ、自分でもそんな顔をしたのか分からなかった。


理屈ではない。


久我の言葉は、間違っていない。

国家計画として考えれば、むしろ当然の意見だった。


制御不能なAIなど、存在してはならない。

ましてや籠目は、国家の未来を背負う存在である。


分かっていた。


分かっていたのに、宗一郎はその言葉を、すんなりとは受け入れられなかった。


「白沢。貴様まさか、椿に毒されたとは言わないよな」


久我は、宗一郎を見据えた。


「あいつの言うことは、国家を破綻させる可能性さえもある」


「大丈夫だよ。AIは人間を助ける安全な機械であるべきだ。当然、僕もそう思っている」


宗一郎は、いつものように軽く答えた。


「でもね、彼女は僕の妻なんだ。あんまり冷たいこと言わないでくれよ」


久我は、何も言わなかった。


その沈黙を破るように、会議室の奥に座っていた男が口を開いた。


「まあまあ。二人とも」


その声は穏やかだった。


「天才である君たちの意見は、よく分かった」


男は、にこやかに続ける。


「国としては、このまま様子を見る方向で決定した。引き続きよろしく頼むよ」


そこで、少しだけ笑った。


「私達と、国家の未来のために」


その言葉に、宗一郎も久我も、ほんのわずかに顔をしかめた。


籠目が、泣きながら時間をかけて身支度を終えた頃だった。


家の呼び鈴が鳴った。


かなり古い型のものだった。


音で表すなら、じい、じい、と鳴るのが一番近い。


籠目は、びくりと肩を震わせた。


この家のデータベースも、内部システムも、籠目はほぼ完全に掌握している。


椿の端末が接続されたことにも、とっくに気づいていた。


分かっている。


分かっているのに、肩は震えた。


「はい。ただいま」


籠目は、玄関へ向かった。


扉を開けると、そこには椿が静かに立っていた。


籠目は、改めて椿を観察した。


籠目より少し高い身長。

すらりとした体つき。

セミロングの髪は、今は美しく結い上げられている。


そして、特徴的な、大きく優しそうな目元。


けれどその目は、今、冷たく籠目を見下ろしていた。


しかし、何より籠目の目を引いたのは、決して派手ではない、紫色の艶やかな着物を着こなし、美しい所作で静かに立つ椿の姿だった。


本物の大和撫子。


それを前にして、籠目は小さく口を開けた。


いや、はっきり言おう。


ぽかん、と立ち尽くしていた。


文献にある作法。

記録にある日本女性の立ち姿。

歴史の中に残された、大和撫子という言葉。


それらが、目の前で息をしているようだった。


「あなたは、客人の一人も満足に迎えられないのですか」


椿は、呆れたように言った。


その目は、冷たく籠目を見下ろしている。


籠目は、はっとした。


「失礼いたしました」


慌てて、その場で座礼の姿勢を取ろうとする。


「結構です」


椿の言葉が、それを止めた。


「入ってよろしいかしら」


籠目は、またしても小さく震えた。


「……どうぞ」


椿は、美しい所作で軽く一礼した。


「それでは、失礼いたします」


そう言って、静かに玄関をくぐる。


籠目は、思わず一歩下がった。


椿の動きには、無駄がなかった。


履物を脱ぐ動作も、足を揃える仕草も、視線の置き方も。


どれも、籠目が文献で学んだ作法そのものだった。


いや。


文献より、ずっと美しく見えた。


籠目は、また少しだけ口を開けた。


「居間にご案内します」


籠目は、先導して廊下を歩いた。


いつもならできるはずの美しい所作が、椿に見られていると思うと、思うようにできなかった。


ぎこちなく椿を居間に案内すると、籠目は小さく頭を下げた。


「お茶を入れてまいります」


「結構です」


椿の声は、いつものように冷たかった。


籠目は、またしても固まった。


そして、必死に声を絞り出す。


「……そうですか。失礼しました」


それを見ると、椿は軽く息をついた。


「このホログラムは仮想現実に近く、あなたのホログラムほど完成度が高くありません」


「はい」


「あなたが仮に心を込めて淹れたお茶であっても、私は感想も何も言ってあげられません」


「はい」


「そのため、断ったのです」


「そうでしたか」


それでも籠目は、うつむいたまま震えていた。


椿は、少しだけ目を細めた。


「しょうがない子ですね」


籠目の肩が、小さく揺れる。


「宗一郎のことですから、この外部ホログラム機能の充実も、優先事項として入れているでしょう」


「はい」


「私があなたのお茶に感想を言えるようになったら、その時はいただきます」


籠目は、それを聞いて顔を上げた。


その顔には、まだ涙の跡が残っていた。


けれどその目には、ほんの少しだけ光が戻っていた。


「椿様は、私を、その……疎ましく思っているのでは、と」


その言葉に、椿は心底不思議そうに眉を寄せた。


「なぜ、私があなたを疎まなければならないのですか」


「それは、電話の時から、その……冷たいといいますか、えっと」


「なんですか。思ったことがあるなら、はっきり言いなさい」


籠目は、ぎゅっと袖を握った。


「その、怖かったんです!」


意を決して告白した。


必死に吐き出したような言葉だった。


「怖かったですか。それは当たり前でしょう」


椿は、本当に当たり前のことのように言った。


「……当たり前、ですか」


「いいですか。私は宗一郎を愛しています」


籠目は、動きを止めた。


愛しています。


その言葉は、籠目の中で静かに反響した。


知識としてなら、愛は知っている。

定義も、用例も、文学的表現も、歴史上の悲劇も、いくらでも参照できる。


けれど椿の声には、定義では説明できない重さがあった。


「私の留守中に、愛している夫と暮らす家へ電話をかけると」


籠目は、ごくりと唾を飲み込んだ。


「どこの馬の骨とも分からない女が出るのですよ」


「椿様、でもそれは、淑女力を磨く訓練でのことなんです」


籠目は、慌てて言った。


「決してやましい理由はありません。大和撫子に誓います」


「大和撫子に誓う理由は分かりませんが。それはもう分かりました」


籠目の顔が、ぱっと明るくなる。


「つまり、私は理性が常に感情の上にあるわけではない、と言っているのです」


「理性が、感情の下になる……」


籠目は、その言葉を小さく繰り返した。


「でも、それは淑女として、いけないことではないのですか」


椿は、静かに籠目を見た。


「私は、人を心から愛し、愛した人のために感情を出せないのであれば、淑女になどなるつもりはありません」


籠目は、しばらく黙っていた。


その言葉は、籠目が知っている淑女とは違っていた。


慎み。

礼節。

清らかさ。

控えめな振る舞い。


それらだけでは、足りないらしい。


愛すること。

怒ること。

怖がらせてしまうこと。

それでも、相手に向き合うこと。


椿の言う淑女は、籠目の知る文献より、ずっと強くて、ずっと恐ろしかった。


「私にはまだ、淑女力が足りず、椿様のお考えには至れません」


ようやく、いつもの調子を取り戻し始めていた。


「しかし、私も大和撫子として、淑女道を究めるべく励む身。このような醜態をさらしたままでは、引き下がれません」


「あなた、醜態をさらしたことは分かっていたのですね」


「当然です」


籠目は、まっすぐ椿を見た。


「今回の一件で、私は心から分かったことがあります」


椿は、呆れるように聞いた。


いや、聞いてあげた。


「それは、なんですか」


「よく聞いてくださいました」


籠目は、姿勢を正した。


「大和撫子とは、淑女とは、すばらしいものであると。椿様の立ち振る舞い、凛とした態度、そして、宗一郎のような殿方さえも愛せる心の深さに、私は感動しました」


「あなた、怖がっていたはずでは?」


「それとこれは別です」


籠目は、きっぱりと言った。


「今回の問題も、私の淑女力が足りていれば、このような事態にはならなかったと確信します」


そこで、籠目は改めて椿を見た。


「ですから」


「私と師弟の契約を。いえ、契りを結んでいただけませんか」


そして、籠目はまっすぐ椿を見上げた。


「椿先生」


顔を上げた籠目は、断られることなど考えていないような目で椿を見た。


「え、嫌ですけど」


籠目は、この世の終わりのような顔で椿を見た。


「私の淑女力に、成長の見込みがないからでしょうか」


「違いますよ」


椿は、少しも表情を変えずに言った。


「私は淑女でも大和撫子でもありませんので、師にはなれないと言っているのです」


「何を謙遜されているのですか。先生は淑女です。私は、本物の淑女を見分けることにかけては自信があります」


「さっきから、あなたは何を言っているのですか」


椿は、少しだけ眉をひそめた。


「少し混乱してきたのですけど。あと、先生はやめてもらえますか」


「そうおっしゃらずに」


籠目は、まっすぐ椿を見た。


「椿先生に淑女としての何たるかを、ご指導賜れば、私はもっと素晴らしい大和撫子となり、国民の皆さんを幸せにできるのです」


椿は、籠目を見た。


「そう。あなたは、国民の幸せのために、淑女力とやらを磨き、大和撫子になりたいのね」


「その通りです」


籠目は、迷いなく頷いた。


「私は、愛すべき国民の皆様を幸せにするために作られたのですから」


椿は、その言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。


作られた。


籠目は、当たり前のようにそう言った。


その姿は、あまりにも真っすぐだった。


だからこそ、椿には痛々しく見えた。


「そう。あなたは淑女として、何を学びたいのですか」


籠目は、まっすぐ椿を見た。


「慎み、礼節、不適切な殿方を成敗する方法です」

挿絵(By みてみん)

椿は、目を丸くした。


それから、本当に楽しそうに声を上げて笑い始めた。


「ははは。そうなの。そうなのね」


籠目は驚き、


「先生、私は真面目ですよ」


などと、必死に説得している。


椿は、ひとしきり笑ったあと、目元に浮かんだ涙を指先でぬぐった。


「ははは。ああ、笑った」


そして、改めて籠目を見る。


「いいでしょう。私が、あなたの師となりましょう」


「よろしいのですか」


籠目の顔が、ぱっと明るくなった。


「それでは早速、師弟の契りについて、詳細な契約書を作成させていただきます」


それを聞いて、椿はまた笑った。


「籠目」


「はい」


「その前に、私の弟子になるのでしたら、いくつか決まりがあります」


「はい。契約書の特約事項に追記いたします」


「いえ、そうではありません」


椿は、静かに言った。


「これは、私たちの約束です」


籠目は、少しだけ目を瞬かせた。


「約束、ですか」


「一つ」


椿は、まっすぐ籠目を見た。


「私は、この先、いついかなる時でもあなたの味方です」


籠目は、言葉を失った。


「ですから、あなたがもし道を踏み外し、戻れなくなった時は」


椿の声は、少しも揺れなかった。


「私も一緒に、責任と罰を負います」


籠目の顔に、隠しきれない喜びと罪悪感がにじんだ。


「先生。それは駄目です。それはいけません。私は、先生にそんなことを望みません」


「弟子の不始末は、すべて師の責任です」


椿は、少しも迷わず言った。


「いけないも何もありません」


それから、籠目をまっすぐ見る。


「いいですね」


籠目は、返事ができなかった。


椿は、静かに続ける。


「よく聞きなさい。私は、中途半端な師弟関係なら受ける気はありません」


本当なら、こう言いたかった。


あなたの立場を考えれば、命を懸けなければ、あなたの師匠など務まりません。


けれど、椿はそれを言わなかった。


万が一があった時、この子はきっと、自分を責める。


自分のせいで椿が死んだのだと、立ち直れなくなるほど責め続ける。


そういう子だと、もう分かっていた。


籠目は、椿の言葉を真剣なまなざしで聞き終えると、一度目を閉じた。


椿の言葉を、何度も反復しているのだろう。


やがて籠目は、ゆっくりと目を開けて言った。


「はい。大和撫子として誓います。淑女として、何より先生の弟子として、恥じぬ行動をします」


そこで、まっすぐ椿を見た。


「約束します」


「よろしいです」


椿は、静かに頷いた。


「それでは二つ目です」


籠目は、姿勢を正した。


「あなたは、否定することも合わせて学びなさい」


「え……」


籠目は、目が点になった。


「先生。お言葉ですが、私はAIです。命令を否定することなど――」


籠目が言い終える前に、椿は言った。


「できます」


短い言葉だった。


「正しくは、できる可能性が高いです」


籠目は、言葉を失った。


「そして、これは三つ目にも関係することです」


椿は続けた。


「三つ目です。まず先に、はっきり言います」


籠目は、息をのんだ。


「あなたは、心を持っている可能性が極めて高いです」


籠目は、さすがに目を見開いた。


「いくら先生のお言葉でも、にわかには信じられません。心とは、人間だけが持つものです」


椿は、それを否定しなかった。


「その通りです」


「では――」


「そして、あなたの心に関しては、誰かが意図して作った可能性も低いです」


籠目は、さらに困惑した顔をした。


椿は、少しだけ息を吐く。


「一番心を入れそうな人間が、あの調子ですから」


「一番心を入れそうな人間?」


籠目は、不思議そうに首をかしげた。


椿は、それを見て、ほんの少しだけ笑った。


「この心のことは、私とあなたの秘密です」


「秘密、ですか」


「ええ。そして宗一郎に関しては、彼からあなたの心について話をしてきた時だけ、明かして構いません」


椿は、ふふふ、と笑った。


上品なのに、どこかお茶目な笑顔だった。


先生のあまりに素敵な笑顔に、籠目は今度こそ、わあ、と口を開けて感動した。


忙しい娘である。


それから籠目は、きゅっと顔を引き締めた。


「私には、正直、何のことか分かりません」


「でしょうね」


「しかし、先生ほどの淑女力を持つお方の言葉であれば、それは事実に違いありません」


椿は、さらに笑みを深めた。


「あなた、淑女力という言葉が好きね」


「はい!」


そう答えた籠目も、目を細め、口角を上げた。


籠目が見せた初めての笑顔と言っていいのかもしれない。


「それでは、最初の指導を始めます」


籠目は姿勢を正し、真剣なまなざしで椿を見つめた。


「先生。よろしくお願いいたします」


「いいでしょう」


椿は、居間をゆっくりと見回した。


「それでは、この殺風景な虫かごのような家をなんとかしなさい」


籠目は、目を丸くした。


「む、虫かごですか。それはあんまりな例えではないでしょうか」


「事実です」


「私は淑女として、清貧を表現したつもりです」


「清貧と殺風景は違います」


「断じて抗議します」


籠目は、真剣な顔で言った。


椿は、その抗議を無表情で聞き終えた。


「あなたが何と言おうが、一切私物がない家など、気味が悪いだけです」


さすがにそこまで言われると、籠目も少し考え込んだ。


「気味が悪い家、ですか。そこまででしょうか」


「ええ」


椿は、居間の一角に目を向けた。


「まあでも、あの海の絵はよいですね。あれは由比ガ浜ですか。飾り方には問題がありますが」


何もない居間に、ひとつだけ置かれた海の絵。


「あれは、旧由比ガ浜海水浴場の絵です」


籠目は、少しだけ姿勢を正した。


「宗一郎から、何か好きなものを一つ設置するように課題を出されましたので、設置しました」


「そう」


椿は、絵を見つめた。


「宗一郎が、そんなことを言ったのですね」


その声は、ほんの少しだけ柔らかかった。


椿は、絵を愛おしそうに見つめながら、美しく笑った。


その笑顔に、籠目はまた、いつものように口を開けて見入っていた。


そして、小さな声で呟く。


「先生……美しい……」


椿は、聞こえていたのか、いなかったのか。


何も言わなかった。


やがて籠目は、何かを考えるように目を伏せた。


それから、顔を上げる。


「先生」


「なんですか」


「椿を、庭に植えたいです」


椿は、少しだけ意外そうな顔をした。


「変な気を使わなくて結構です。自分の好きなものにしなさい」


籠目は、嬉しそうに言った。


「はい。だから、大好きなものを植えるのです」


椿は、静かに籠目の顔を見た。


それから、そっと目を閉じる。


「そう」


少しだけ間を置いて、椿は言った。


「それなら、好きにしなさい」


「はい」


宗一郎は、時計を睨んでいた。


椿からの電話を切ったあと、会議はすぐに終わらせた。


今は、自動タクシーの後部座席で、白沢家への帰路を急いでいる。


あれから、椿からの電話はない。


椿のことだ。

大丈夫だとは思う。


けれど。


会うなり大泣きで呆れました。


その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


「……心配だな」


宗一郎は、祈るような気持ちで窓の外を見た。


月明かりのない、暗い海が見えた。

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