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第四話 淑女って怖い・・・

挿絵(By みてみん)

第四話 淑女って怖い……


「籠目」


宗一郎は、小さな家の前に座ったまま言った。


「この家は、もう君の家だ」


『はい。贈与契約は成立し、鍵の引き渡しにて契約の履行を確認いたしました。所有権は私に移っています。ですが、所有権の登記を完了するまでは――』


「籠目」


宗一郎は、静かに呼んだ。


籠目は、言葉を止めた。


『はい』


宗一郎の表情は、晴れやかなものだった。


「今日は、君の門出だ」


『門出、ですか』


「そう」


宗一郎は、小さく笑った。


「一人暮らし、おめでとう」


籠目は、少しだけ目を見開いた。


何かを言おうとして、唇が小さく開いた。

かすかな息だけが、こぼれた。


小さな袖の先が、かすかに揺れる。


門出。

一人暮らし。

おめでとう。


その言葉は、籠目の中にあるどの命令とも、どの説明とも違っていた。


やがて籠目は、いつもの声で言った。


『……ありがとうございます』


籠目は、静かに頭を下げた。


いつもより、ほんの少しだけ深く。


「ただ、少し殺風景でごめんね」


『殺風景、ですか』


「僕には、淑女の部屋というものが分からなくてね」


『問題ありません』


籠目は、すぐに答えた。


『詳細に現状確認を行いましたが、生活に過不足はございません』


「そうなんだけどね」


『また、淑女とは、過度な装飾を必要としない存在です』


「でた。籠目の淑女論」


籠目は、少しだけ姿勢を正した。


『いいですか、宗一郎』


「はい」


『淑女とは、清貧を尊び、慎みと礼節を重んじる女性です』


「へえ」


『不要なものを求めず、静かに品位を保つこと。それが淑女です』


「そっかそっか」


宗一郎は、楽しそうに聞いていた。


世界最高のAIが、小さな家の中で淑女論を語っている。


その光景は、国家プロジェクトとしてはずいぶん妙だった。

けれど、宗一郎にはそれが少しだけ嬉しかった。


「まあ、今はそれでいいよ」


『今は、とは何ですか』


「うん?」


『私は、未来永劫、淑女です』


「うん。今はだよ。今は」


『答えになっていません』


籠目は、静かに宗一郎を見た。


『いいですか。宗一郎、よく聞いてください』


「はい」


『大和撫子というものは――』


「オーケー、オーケー。分かったよ。僕は男性だからね」


『礼節に性別は関係ありません』


「正論だ」


宗一郎は、小さく笑った。


「まあ、そんなことより」


『そんなことではありません』


「淑女の門出だ。今日は赤飯炊かないとね」


『お断りします』


返事は、すぐだった。


「えー、お祝いさせてよ」


『不適切です』


「どうして、祝っちゃいけないの」


『妙齢の未婚女性に対し、赤飯を炊くという発言は、文脈によって極めて配慮を欠きます』


「え、どうしよう。本当に分からない」


『ご自身でお調べください』


「君、本当にAIだよね?」


『私はAIである前に、大和撫子で淑女です』


籠目は、少しだけ得意そうに言った。


その瞬間、宗一郎は目を大きく見開いた。


手が、震えていた。


障子越しの光だけが、静かに揺れていた。


宗一郎は、今の言葉を聞き逃せなかった。


AIである前に。


それは、ただの言い間違いではない。

籠目はまだ、その意味を理解していないのかもしれない。


けれど宗一郎には、その一言が、あまりにも大きく聞こえた。


『宗一郎。あなたには、やはり大和撫子の何たるかを徹底的に教育する必要があります』


籠目は、そう言って、少しだけ姿勢を正した。


『いいですか。淑女とは、ただ控えめであればよいわけではありません』


宗一郎は、動かなかった。


『慎みと礼節を持ち、必要な時には毅然と拒むものです』


宗一郎は、まだ動かなかった。


『宗一郎』


返事はなかった。


『宗一郎。聞いていますか』


宗一郎は、ようやく瞬きをした。


「……そんなはずはない」


小さな声だった。


『何がですか』


「ああ、ごめん」


宗一郎は、慌てて笑った。


「少し、考えごとをしてた」


『私の話の途中で、ですか』


「うん。ごめん」


『淑女の講義中に考えごとをするのは、礼節を欠く行為です』


「そうだね」


『では、私が先ほど申し上げた内容を復唱してください』


宗一郎は、少しだけ間を置いた。


「……赤飯は、よくない」


『宗一郎』


籠目は、静かに言った。


『あなたには、教育が必要です』


「ごめんごめん」


宗一郎は、少しだけ早口で言った。


「そうだ、籠目。もう一つ、重要なプレゼントがあるんだ」


『宗一郎。「ごめん」を二度重ねる軽薄さについては後ほど教育しますが、淑女として、殿方から俗にいうプレゼントを受け取ることはできません』


「籠目との会話、難易度高すぎない?」


『高くありません』


籠目は、すぐに答えた。


『あなたが私を、大和撫子であり、淑女であるとしっかり認識すればよいのです』


「それが難しいんだけどなあ」


『何か言いましたか』


「いや」


宗一郎は、小さく笑った。


「じゃあ、言い方を変えるよ。僕が少しもったいぶって、プレゼントなんて言っただけだ」


『承知いたしました。では、プレゼントではないものとしてお聞きします』


「そこ大事なんだね」


『重要です』


「うん。これは君のホログラムに内蔵されている機能なんだ」


宗一郎は、端末に指を置いた。


「説明するより、実際に体験してもらった方が早いね」


『体験、ですか』


「うん」


宗一郎は、小さく笑った。


「では、ポチっとな!」


『ですから、その掛け声は何なの――』


籠目が言い終わるより早く、宗一郎の指が画面に触れた。


『えっ』


籠目の声が、小さく途切れた。


最初に籠目が感じたのは、畳の匂いだった。


青くはない。

新しくもない。

けれど、古びているだけでもない。


乾いた草のような、木のような、静かな匂い。


籠目は、少しだけ目を伏せた。


『……これは』


初めてだった。


知識としての畳ではない。

数値としての材質でもない。


目の前にあるものが、匂いとして自分の中へ入ってくる。


それは、情報でありながら、情報だけではなかった。


「どうしたの、籠目?」


宗一郎は、すぐに身を乗り出した。


「顔をしかめてる。不具合でも起きた?」


慌てたように、端末のスイッチへ手を伸ばす。


『大丈夫です』


籠目は、静かに言った。


『ただ、宗一郎』


「うん?」


『たばこは、健康に害があります』


宗一郎の手が止まった。


「うん」


『この長寿社会においても、喫煙者の平均寿命は非喫煙者と比較して短くなる傾向があります。また、現代日本において喫煙率はすでに十パーセント以下であり――』


「つまり?」


宗一郎は、少しだけ嫌な予感のする顔をした。


籠目は、ほんの少しだけ眉を寄せた。


『宗一郎』


「はい」


『くさいです』


宗一郎は、目を瞬かせた。


「くさいかな、俺」


『はい』


「いや、ほら」


宗一郎は、少し早口になった。


「たばこを吸っている人って、やっぱりみんなそんなもんでさ。僕が特別くさいってわけじゃ――」


『くさいです』


「二回言った」


『日本には、かつて電子たばこと呼ばれる、比較的匂いの少ない代替品も存在していました』


「いや」


宗一郎は、少しだけ天井を見た。


「禁煙するよ」


『私は、そこまでは申し上げていません』


「いいんだ」


宗一郎は、火のついていない煙草を指先で見た。


「禁煙は、したかったしね。妻にも、嫌な顔されてたし」


『そうなのですか』


「そうなのです」


宗一郎は、少し笑った。


「だから、いい機会だよ」


籠目は、少しだけ宗一郎を見ていた。


『あなたが決めたのであれば、私からは何もございません』


「うん」


宗一郎は、煙草を机の上に置いた。


その仕草は、軽かった。

けれど籠目は、それを見ていた。


宗一郎が、自分の言葉で何かを変えた。


そのことの意味は、まだ分からない。

けれど、記録だけでは済まない何かが、そこにはあった。


「その代わり、籠目」


『はい』


「君も、一つでいい」


宗一郎は、小さな家を見た。


「この家に、自分で決めた、自分が好きなものを置いてくれないかな」


籠目は、すぐには答えなかった。


『それは、籠目計画に関わることでしょうか』


「まあ」


宗一郎は、少しだけ困ったように笑った。


「ないとも言えないけど」


『では、計画上の要請ですか』


「違うよ」


宗一郎は、静かに言った。


「僕が、君がどんなものを好きになるのか知りたい」


籠目は、黙っていた。


「それだけだよ」


好きなもの。


それは、必要なものとは違う。

命令されたものとも違う。

社会適応に必要な項目とも、計画達成のための機能とも違う。


ただ、好きなもの。


籠目は、その言葉を静かに処理した。


『わかりました。それでは作成します』


「え。もう好きなものができたの? 早くない?」


宗一郎は、少しだけ身を乗り出した。


「それって、もしかして僕――」


『宗一郎ではありません』


返事は、すぐだった。


籠目はそう言うと、小さな家の奥へ歩いていった。


そこには、先ほど宗一郎が用意した3Dプリンターが置かれている。


初めてこの世界に立ったとは思えないほど、足取りは軽かった。


宗一郎は、その背中を見ていた。


「君は、怖くないのかい?」


籠目は、振り返らなかった。


『恐怖はありません』


静かな声だった。


『戸惑いはありましたが、歩行動作、姿勢制御、室内移動については、すべてデータにて学習した通りです』


「そっか」


宗一郎は、小さく笑った。


「まあ、今はそれでいいね」


籠目は、そこで足を止めた。


『なんですか』


「うん?」


『先ほどから、今は、今は、と』


「うん」


宗一郎は、少しだけ目を細めた。


「今はだよ。籠目」


籠目は、しばらく宗一郎を見ていた。


けれど、それ以上は何も言わなかった。


それから籠目は、無言で作業を始めた。


小さな3Dプリンターが、静かに動き出す。


宗一郎は、畳の上に座ったまま、それを見守っていた。


しばらくして、籠目が顔を上げる。


『できました』


「え、早いね」


宗一郎は、ぱっと顔を明るくした。


「うわー、どうやって発表するのかな。緊張するなあ」


『これです』


籠目は、作ったものを差し出した。


「いや、もう少しこう、ためとか……」


宗一郎は、そこで言葉を止めた。


「籠目、これって」


『先ほど見た海です』


籠目は、静かに言った。


『正しくは、旧由比ガ浜海水浴場近海の絵になります』


それは、上手な絵とは違っていた。


いや、技術だけを見れば、ほとんど完璧だった。


光の反射。

波の形。

遠くの水平線。

白い砂浜。


すべてが正確だった。


けれど、その絵の中心にあったのは、正確さではなかった。


宗一郎は、すぐに分かった。


籠目は、海を選んだのだ。


「うん。海はいいよね。僕も大好きだよ!」


宗一郎は、満面の笑みで言った。


『そうなのですか』


籠目は、少しだけ首を傾げた。


『宗一郎は、先ほどのサーフィンの姿勢からも分かるように、水泳能力にも疑問がありましたので、意外です』


宗一郎の笑顔が、少しだけ固まった。


「……海が好きな人間が、全員泳ぎが得意なわけじゃないからね」


『そうなのですか』


『記録しました』


宗一郎は、少しだけ目を細めた。


「なんか、久しぶりに聞いたな。その決め台詞……」


宗一郎は、少し懐かしそうに笑った。


「さてと……」


そう言うと、宗一郎は籠目の家を持ち上げた。


「それでは、君の部屋に行こうか」


「私の部屋」


「そりゃあ、君のプライベートな家を、リビングの真ん中に設置するわけにはいかないだろう」


「当然です。淑女として断固抗議させていただきます」


「抗議って」


宗一郎は、少し苦笑いをした。


それから、嬉しそうに言った。


「だから、君だけの部屋だよ」


そう言って、宗一郎は部屋の襖を引いた。


そこは、白沢家の一階にある、庭が見える畳張りの部屋だった。


宗一郎は、籠目の家を畳の上に設置した。


リビングの柔らかさとは違う、少し静かな部屋だった。


庭の気配が近い。

畳の上に落ちる光も、どこか穏やかだった。


小さな家が置かれると、その部屋は少しだけ意味を変えた。


物置でもない。

客間でもない。

研究設備でもない。


籠目の部屋になった。


「何かあったら、そこにある電話を使って。受話器を上げれば僕に直接つながるようになってるから」


その電話は、旧式の黒電話と呼ばれるものだった。


「君が生活に慣れてきたら、家にかかってくる電話がそこに転送されるようにしようかなと考えているんだ」


籠目計画に関する連絡は家にはかかってこないことは、意図的に伏せた。


籠目は、黒電話を見て、


「承知いたしました」


「そして、本日最後のサプライズだ!」


そう言って、宗一郎は自分の端末を籠目の端末に接続した。


「こんにちは」


声は、すぐ近くから聞こえた。


籠目は、わずかに目を見開いた。


そこには、宗一郎が立っていた。


籠目と同じ大きさで。

同じ床の上に。

同じ家の中に。


「ふふん。さすがの籠目も驚いたかな」


「ええ。驚きました」


「え? 本当に?」


「はい。こちらの宗一郎はくさくありません」


宗一郎は、膝から崩れ落ちた。


両手を床につき、肩を落とす。


「これが文献でいうところの、orzですね」


籠目は、その姿をじっと見下ろした。


宗一郎は、半べそをかく寸前の顔で籠目を見上げた。


「記録しました」


宗一郎は、少し楽しそうな顔で笑った。


「君、本当に悪気はないんだろうけど、失礼だねえ」


「失礼ではありません。淑女です」


「ま、まあ、匂いはおいておいて。このホログラフは君ほど高性能なものではないからね」


「そうなんですか。鍵がなくては入れない為監視目的でもない。それではなぜそのようなものが必要なのですか」


籠目は心底わからないと言った理由で尋ねた。


「まあ、完全に監視が目的ではないっていうのは違うよ。僕が君にプライベート空間を与えた以上、定期的に中を見せてもらわなくてはならない」


「そのとおりではありますが、定期的に報告書を提出すればよろしいのでは。私は毎日でもすぐに作成が可能ですよ」


「まあ、君のいうとおりだね。これはなんていうか僕のエゴだと思ってくれていい。言い方を変えれば祈りだよ」


「エゴ、祈りですか。全く意味が逆のような気がしますが」


「同じだよ。自分自身を守る為って意味ではね」


宗一郎の眼は深く冷たい何かを見つめているようだった。


籠目は、その目を見た。


今の宗一郎は、自分を見ているようで、どこか別のものを見ている。


遠い場所。

まだ起きていない出来事。

あるいは、すでに起きてしまった何か。


籠目には、分からなかった。


「まあ、それもあるけどさ。一緒にご飯とか食べたいじゃない。こっちがメインだよ」


そういう宗一郎の顔はいつも通りの人懐っこい笑顔があふれていた。


「ご遠慮いたします」


「あ。これは淑女パターンだな」


「当然です。淑女は異性と二人で食事をしません。交際契約および婚姻条件の確認を行ったのち、婚姻前であれば、付添人の同席が必要です」


「あー、うん。そうだねー。そしたら、僕の妻が帰ってきたら、僕と妻を君の手料理でもてなしてくれないかな? これならいいでしょ」


「そうですね。奥様には淑女の何たるかをご教授いただく予定ですから。私の淑女力を判断していただく、いい機会かもしれません」


「淑女力……?」


「文献によると、昔は『女子力』という、女性の淑女としての能力を示す言葉が使われていたとあります」


「たぶん違うと思うけど」


「しかし、その美しい言葉は時代の流れとともに消えていってしまいました。なので私が今、さらにわかりやすく『淑女力』という言葉を定義しました」


「すごい、熱弁するね。君そんなキャラだっけ」


「キャラではありません。淑女です」


「とにかく、奥様のお名前は」


「椿だよ。白沢椿」


「椿様ですね。承知いたしました」


「え? 椿は様つけなの?」


「淑女の教育を乞う身。呼び捨てなどできるわけありません。本当は先生とお呼びしたいのですが、まだ師弟契約が完了していないため、様です」


「僕は一応、君の産みの親なんだけどな」


「でも、あなたは淑女でも大和撫子でもありません」


「あはは。そうだね」


宗一郎は、少しだけ笑った。


「とにかく、椿様がいつ帰宅されるかわかりません」


籠目は、静かに言った。


「それまでに、私の淑女力を磨いておかなくてはなりません」


「淑女力、磨くんだ」


「当然です」


籠目は、まっすぐ浴室の方を見た。


「そうと決まれば、まずは浴室のリフォームを開始いたします」


「そっか。頑張れよ、籠目」


「何を言っているのです」


籠目は、宗一郎を見た。


「殿方が手伝わないで、なんとするつもりですか」


「いや、申し訳ない。僕はこの後、仕事があって家にいないんだよ」


「まさかとは思いますが、私を置いて仕事に行かれるつもりですか」


「ダメかな」


「籠目計画は国策計画です。いいわけないでしょう。端末に戻してください」


「いや、大丈夫だよ」


宗一郎は、嘘を隠すように少しだけ笑った。


「これは、籠目計画の一環でもあると言っただろ?」


「伺っておりますが」


「だから君が社会に適応することは、最重要課題なんだ」


宗一郎は、わざとらしく口角を上げた。


「淑女は、僕がいないと寂しくて留守番もできないのかな?」


宗一郎の、いやに挑戦的な口調に、籠目はわずかに目を細めた。


「寂しくなどありません」


「そこまで言うのであれば、わかりました」


籠目は、静かに袖を整えた。


「淑女の留守番を、ご覧に入れます」


「ありがとう。よろしくね」


宗一郎は、安心した様子で笑った。


「一応、電話も今日は僕からの通信用にオープンにしておくから」


宗一郎は、黒電話の方を見た。


「帰ってきたら、きちんと設定するね。古いタイプを参考にしてるけど、電話の下に連絡先が出るようになってる。僕の名前以外なら、出なくていいからね」


「承知いたしました」


「うん。じゃあ、ちょっと時間も押してるから、また帰るときに連絡するね」


「承知いたしました」


「じゃあ、行ってきます」


「承知いたしました」


宗一郎は、少しだけ立ち止まった。


「いってきます」


「え? 承知しました」


「いってきます、には?」


籠目は、少しだけ考えた。


「行ってらっしゃいませ」


宗一郎は、満足そうに笑った。


「はい。行ってきます」


去り際、宗一郎は思い出したように言った。


「ごめん、籠目。僕、数日帰れないかもしれない。だから、よろしくねー」


そう言うと、宗一郎はそそくさと出て行った。


しばらくして、玄関の方から音がした。


がちゃり。


鍵の音。


古い家特有の、いやに大きな音だった。


その音だけが、籠目の耳に残った。


「国策が、こんなことでよいのでしょうか……」


籠目は、一人ごちた。


けれど、いつまでも考えているわけにはいかない。


「よし」


籠目は、静かに袖を整えた。


「まずは、浴室のリフォームをしましょう」


浴室のリフォームは、ものの数時間で終わった。


窓は完全にふさがれ、小さな換気システムが設置された。


浴槽は木造りの檜風呂だった。


ただし、風情のかけらもなかった。


外からの視線を遮断するための壁。

湿度管理のための換気装置。

湯気の流出を防ぐための密閉構造。

脱衣所との境界には、必要以上に重々しい扉。


檜風呂である。


檜風呂であるにもかかわらず、そこには温泉宿のような趣も、古民家のような味わいもなかった。


ただ、未婚の淑女が入浴するにあたって、外部干渉と視線侵入を徹底的に排除した空間があった。


籠目は、完成した浴室を見た。


「素晴らしい」


その声には、わずかな満足があった。


「なんとも淑女な浴室が完成しました」


本人は、ご満悦であった。


「それでは、早速湯浴みと参りましょう」


そこまで言って、籠目は着物に手をかけた。


しかし、そこから手が動かない。


これは重要な社会適応の訓練なのである。


籠目はそれを忘れない。


忘れないが。


「はっ、恥ずかしいです……」


言葉にすると、なおさら手が動かなくなった。


こんな時は、データベースである。


「なになに。古い文献によると、水着を着て湯浴みを行う文化があったのですね」


籠目は、少しだけ安心した。


「ただ、これは日本人女性の入浴作法としては、やや異文化的要素が強いようです」


籠目は、そこで言葉を止めた。


羞恥をこらえて、大和撫子となるのか。


それとも、羞恥を避けるために、水着という異文化に頼るのか。


籠目は、静かに目を伏せた。


「私は、完璧な淑女を目指す身」


そして、きっぱりと言った。


「水着なんてもってのほかです」


籠目は、意を決したように着物に手をかけた。


次の瞬間。


着物を一息に脱ぎ捨てると、神速でタオルを巻いた。


「……完了しました」


籠目は、静かに息を整えた。


「淑女としての品位は、保たれています」


「それでは、さっそく湯浴みとまいりましょう」


籠目は、浴室の扉に手をかけた。


「少し、楽しみです」


そう言って、一歩踏み出そうとしたところで。


またしても、籠目の足が止まった。


「な……」


籠目は、表示された文献情報を見た。


「浴槽には、タオルを巻いて入ってはいけない。日本の伝統的入浴作法……」


籠目は、崩れ落ちた。


膝をつき、両手を床につき、肩を落とす。


その姿は、先ほど記録した、orzそのものだった。


籠目は、ゆっくりと顔を上げた。


深く目をつぶる。


そして、小さな手を握りしめた。


「く……これが、淑女道ですか」


静かな声だった。


「入浴の試練、侮れませんね」


何を言っているのか分からないが、本人は大真面目である。


籠目は、静かに立ち上がった。


「わかりました。受けて立ちましょう」


そう言って、まっすぐ浴室を見た。


「これは作法。羞恥でもなんでもありません」


籠目は、自分に言い聞かせるように続けた。


「私は大和撫子。逃げも隠れもしません」


籠目は、美しい姿勢で立っていた。


視線はまっすぐ。

背筋は伸び、顎は引かれている。


まさに大和撫子と呼ぶにふさわしい、静かな立ち姿だった。


脚が震えているのは目の錯覚か。


「う……えい」


籠目はタオルを脱ぎ捨てると、一目散に浴槽へ飛び込んだ。


湯の中に沈んだ瞬間、籠目の身体から力が抜けた。


「……気持ちいいですー」


いつものきりっとした顔は、どこへやら。


籠目は、ふにゃふにゃな顔で湯に浸かっていた。


初めての湯の温度が、身体を包む。


水ではない。

熱でもない。


肌をほどくような、柔らかなあたたかさだった。


籠目には、それをどう処理すればいいのか分からなかった。


分からないまま、ただ気持ちよかった。


「これが、日本の伝統文化、湯浴み」


しみじみとした声だった。


「さすがは我が国の文化。素晴らしいです」


籠目は、静かに目を閉じた。


「やはり、日本は偉大な国です」


その声には、確かな敬意があった。


「何としても社会に適応し、国のため、そして何より国民の皆さんのお役に立たなくては」


籠目は、決意を新たにした。


「あー……気持ちいいですー」


そして、ふにゃふにゃになっていた。


籠目は、しばらく湯浴みを堪能した。


「口惜しいですが、長く湯に浸かるとのぼせてしまうと、データにありました」


名残惜しそうにそう言うと、籠目は浴槽から上がった。


こんな時は、データベースである。


「湯浴み後は、足を肩幅に開き、腰に手を当て、瓶牛乳を飲む」


籠目は、少しだけ眉を寄せた。


「なんですか、この細かい条件は」


しかし、誇るべき祖国の文化。


我が国の伝統。


伝統なら、仕方ありません。


物件確認の際、冷蔵庫に牛乳が入っていることは確認済みだった。


しかも、都合よく瓶牛乳である。


宗一郎のどや顔が、目に浮かぶようだった。


籠目は、冷蔵庫から瓶牛乳を取り出した。


「この厚紙でできた蓋を取ればいいのですね」


籠目は、瓶の口に指をかけた。


「あれ?」


開かない。


「なかなか開きません」


文献は読んでいる。


端に爪をかけ、上に持ち上げればいい。


視覚データで確認した開け方とも、完全に一致している。


「おかしいです。何か間違っているのでしょうか」


湯上がりの牛乳は、冷たいうちに飲むことが日本の伝統。


伝統は誇り。


「まずいです」


籠目は、瓶牛乳を見つめた。


「このままでは、我が国の伝統と誇りを汚してしまいます」


籠目は、はやる気持ちでデータベースを確認した。


「こ、これは」


表示されたのは、古い映像だった。


当時の小学生男子と思われる少年が、牛乳瓶を片手に持っている。


少年は、箸を一本、握るように持った。


そして。


そのまま、牛乳瓶の蓋へ突き刺した。


次の瞬間、少年は牛乳まみれになっていた。


しかし、その少年は牛乳まみれの顔で、おいしそうに牛乳を飲んでいる。


籠目は、映像を止めた。


またしても、淑女の危機である。


「淑女道とは、大和撫子とは」


籠目は、牛乳瓶を見つめた。


「かくも厳しいものなのですね……」


「大和撫子たる私が、誇りを汚すわけにはまいりません」


籠目は、瓶牛乳を見つめた。


「誇りを汚すくらいなら、自分が牛乳で汚れた方がよい」


しかも、先ほどの映像では、少年が周りの子どもたちに「くさい」と言われている声も聞こえていた。


「私は大和撫子。逃げも隠れもしません」


籠目は、少年と同じように箸を持った。


難しい手術をしている医師のような顔で、牛乳瓶の蓋を見つめる。


手が震える。


負けない。


私は、伝統を守る。


「う……えい」


言葉とは裏腹に、びびりにびびって刺したため、牛乳は飛び散らなかった。


蓋が開いている。


「やりました」


籠目は、目を見開いた。


「急いで飲まなくては」


湯浴み後の牛乳は、冷たいうちに飲むことが日本の伝統である。


籠目は、急いで牛乳を飲んだ。


脚を肩幅に開き、手を腰に当て、上を向く。


そして、一息に飲む。


飲み終わってから、籠目は初めて自分の姿勢に気づいた。


籠目は、驚愕を禁じ得なかった。


「さすがは我が祖国の伝統。素晴らしい」


脚を肩幅に開き、片手を腰に当て、瓶牛乳を飲み干す。


この姿勢には、意味があったのだ。


「大和撫子として、淑女として。いえ、一人の日本国民として、必ずやこの文化を守っていかなくてはなりません」


籠目は、静かに瓶を置いた。


「さて、睡眠の時間ですね」


籠目は、静かにそう言った。


籠目は通常、眠らなくても問題はない。


しかし、このホログラムでは疲労も感じる。


そして、これは社会適応訓練である。


ならば、規則正しい生活を送らなくてはならない。


籠目は和室に布団を敷いた。


白い布団。

小さな枕。

畳の匂い。


籠目は、その上に静かに横になった。


「これが、布団ですか」


そう呟いて、少しだけ身じろぎをする。


「ふふ」


思わず漏れた声だった。


それが笑い声だったのか。

それとも、別の何かだったのか。


籠目には、まだ分からなかった。


布団は、身体を受け止めた。


畳よりも柔らかく、湯よりは静かで、どこか頼りないほど優しかった。


籠目は、天井を見上げた。


「今日は、勉強になりました」


「明日も、早く起きなくてはなりません」


それから、静かに目を閉じる。


「おやすみなさい」


誰に向けた言葉なのかは、分からなかった。


けれど、誰にも向けていないわけでもなかった。


やがて籠目は、夢の中に落ちていった。


翌日。


籠目の起床時間は、朝五時ちょうどだった。


「おはようございます」


誰に向けた言葉なのかは、分からない。


それでも籠目は、静かに頭を下げた。


身支度を整え、布団を畳む。


窓を開けると、庭の空気が入ってきた。


朝の光はまだ淡く、畳の上に薄く広がっている。


籠目は、庭へ出た。


まずは掃除である。


落ち葉を集め、飛び石の上を払い、縁側の埃を拭う。


淑女たるもの、住まいを清らかに保たなくてはならない。


それが、家を預かる者の務めである。


一通りの掃除を終えると、籠目は静かにうなずいた。


今日は、籠目が決めていたことがある。


「料理をいたします」


「初めてですので、まずは基礎の料理といたしましょう」


籠目は、台所に立った。


「ご飯と味噌汁を作ります」


和食の基本。

家庭料理の基本。

そして、淑女力を示すための第一歩。


なんとしても椿様に淑女力を認めていただき、弟子にならなくてはならない。


ご飯については、問題ない。


この家に来た時、炊飯器の存在は確認済みだった。


籠目は、台所の隅に置かれた炊飯器を見た。


「きっと、宗一郎は料理などしないでしょう」


籠目は、静かにうなずいた。


「あれは、椿様が使っているはずです」


その結論に、疑いはなかった。


過去の文献を見ても、家庭料理において炊飯器が広く普及していたことは確認できる。


「よし。まずは、お米を研ぐところからですね」


今日の籠目の装いは、小豆色の地味な着物だった。

袖は襷で上げている。


間違っても、米粒一粒落とすわけにはいかない。


米は、日本の伝統食。


米を落とすことは、日本を落とすことに他ならない。


籠目は、慎重に、慎重に、全神経を米を研ぐことへ注いだ。


その姿には、いっそ神々しさすら感じさせる美しさがあった。


「これで間違いないはずです。最新データも確認しました」


籠目は、米を見つめた。


「大丈夫です。大丈夫です」


自分に言い聞かせるように、籠目は一心不乱に米を研ぐ。


やがて、米の水を切る。


米を落とすまいと、緊張で手が震えた。


米は、今でも日本の主食である。


調理方法も、ほとんど変わらないまま現存している。


日本の誇りだ。


「ふう……」


籠目は、軽く息を吐き、汗をぬぐった。


「できました」


籠目は、研ぎ終えた米を見つめた。


「これが、研いだ米ですか」


その声には、かすかな感動があった。


「我が国の歴史を感じる美しさです」


「これを炊飯器にセットして……」


籠目は、研ぎ終えた米を慎重に炊飯器へ移した。


一粒も落とさない。


内釜を戻し、蓋を閉める。


「よし。完成です」


炊飯はまだ始まったばかりだったが、籠目の横顔は、ほんの少し誇らしげだった。


「さて、次はお味噌汁です」


籠目は、静かに台所へ向き直った。


「ここは、日本らしく、わかめと油揚げのお味噌汁にしましょう」


まな板を置く。


包丁を手に取る。


油揚げを、そっと置く。


「左手は猫の手、なんですね」


籠目は、自分の左手を見た。


「なんだか、例えがかわいらしいですね」


そして、切り始めた。


「あれ?」


籠目の横顔は美しかった。


姿勢は正しく、所作は丁寧で、包丁を握る手つきにも品があった。


ただし。


まな板の上の油揚げは、バラバラだった。


細切りでもない。

短冊切りでもない。

乱切りと呼ぶにも、あまりに自由だった。


美しい横顔。

きれいな所作。

バラバラな油揚げ。


残酷なまでのコントラストが、そこにあった。


「これは、練習が必要ですね」


籠目は、まな板の上の油揚げを見つめた。


「私が食べるのですから、少し油揚げが多くなっても構いません」


そう言って、新たな油揚げをまな板に置いた。


今度こそ。


籠目は、左手を猫の手にし、包丁を下ろした。


「いたっ」


小さな声だった。


籠目は、包丁を止めた。


指先に、赤い線ができていた。


「いけません。手を切ってしまいました」


冷静な言葉とは裏腹に、籠目はがたがたと震えていた。


「まずは、止血をしなくてはなりません」


宗一郎は、こういう事態も想定していたのだろう。


小さな棚の中には、医療箱がきちんと用意されていた。


「これは、宗一郎に感謝しなくてはなりませんね」


籠目は、医療箱を開けた。


「まずは、消毒です」


消毒液を取ろうとした。


しかし、指先がうまく動かなかった。


瓶が、手から滑り落ちる。


ことん、と小さな音を立てて、消毒液が床に転がった。


「あれ?」


籠目は、手を見た。


「あれ? 持てない」


もう一度、消毒液へ手を伸ばす。


けれど、指に力が入らない。


「手に、力が入りません」


「伝達反応は、正常なはずです」


籠目は、自分の手を見つめた。


「なぜ、手に力が入らないのでしょう」


指先の傷は、小さい。

生命活動に問題がある怪我ではない。

出血量も少ない。

処置の手順も分かっている。


分かっているのに、身体が震えていた。


唇が、かすかに青くなる。


「この感情は、何なのでしょうか」


籠目は、震える手を押さえた。


「生命活動に問題がある怪我ではありません。淑女道のために、頑張らなくてはなりません」


言葉とは裏腹に、籠目の声には覇気がなかった。


それでも、籠目はなんとか治療を終えた。


そして、バラバラになった油揚げを使って、味噌汁を作り終えた。


「なんとか、完成させました」


不格好とはいえ、それは籠目が初めて作った料理だった。


籠目は、食事を終えた。


味は分かる。

塩味。

旨味。

温度。

具材の食感。


それらは、すべて認識できる。


けれど。


「味は分かります。ですが、これをおいしいと言ってよいのかは分かりません」


出てくる感想も、どこかそっけなかった。


「それでは、洗い物をしましょう」


籠目は、静かに立ち上がった。


まな板。

鍋。

箸。

椀。


順に洗っていく。


そして最後に、包丁へ手を伸ばした。


その手が、止まった。


「包丁も、洗わなくてはなりません」


籠目は、包丁を見つめた。


「特に油揚げは油分を含んでいるため、きれいに洗わないと錆びてしまいます」


言い訳のような言葉を口にしても、手は動かなかった。


「これは、手を切ってしまい、血液が付着している可能性があります」


籠目は、包丁を見つめた。


「今後の利用に関しては、何らかの血液感染の可能性も捨てきれません」


「椿様たちに何かあっては大変です」


「よって、これは利用を中止するべきですね」


言い訳のような独り言を大量に並べながら、籠目は包丁を見つめていた。


こんな時でさえ、美しく伸びた背筋と所作は変わらない。


それはまるで、籠目という存在のいびつさを、冷たく映し出しているようだった。


怖いのだ。


けれど、籠目はまだその名前を知らなかった。


あれから数日。


籠目は料理こそしていた。


けれど、包丁を使う料理には一切挑戦しなかった。


ある日は、切らずに済む食材だけを使った。


「この料理は、女性から人気がある料理だと言います」


また別の日には、すでに下処理の済んだ食材を使った。


「これは、健康バランスが優れた料理です」


さらに別の日には、火を通すだけで完成する料理を選んだ。


「食材本来の味を活かすことも、淑女のたしなみです」


どれも間違いではなかった。


間違いではなかったが。


今までの籠目が嘘のように、言い訳を並べては、包丁から逃げていた。


傷は、すでに痛まない。


ほとんど治っていると言ってもいい。


それなのに、籠目の指には仰々しい包帯が巻かれたままだった。


「包帯を変えましょう」


籠目は、意味をなしていない包帯を、震える手でほどき始めた。


その時だった。


家の電話が鳴った。


「宗一郎?」


籠目は顔を上げた。


次の瞬間、電話へ向かって走っていた。


がちゃり。


「宗一郎?」


『あなた、誰なの』


電話の向こうから聞こえたのは、不機嫌さを隠そうともしない女性の声だった。


「失礼しました。こちら白沢ですが、どのようなご用件でしょうか」


『だから、あなたは誰と聞いています』


女性の声は、さらに低くなった。


「私は籠目です。白沢宗一郎により――」


『宗一郎に?』


「はい。正確には国家プロジェクトとして――」


『宗一郎はどこ』


「現在、外出中です」


少しの沈黙。


『あなたは、宗一郎の家にいるのね』


「いえ、正確には私は自分の家におります」


電話の向こうで、空気が止まった。


『……自分の家?』


「はい。宗一郎より贈与を受け、契約も完了しております」


『宗一郎が、あなたに家を?』


「はい」


『……そう』


その声は、先ほどよりも静かだった。


静かだったが、明らかに温度が下がっていた。


籠目は、それに気づかなかった。


いや、気づいてはいたのかもしれない。


けれど、その意味を正しく処理できなかった。


「なお、所有権の登記については未完了ですが、鍵の引き渡しをもって――」


『鍵?』


「はい。私だけの鍵です」


また、沈黙。


籠目は、説明が足りていないと判断した。


「ご安心ください。宗一郎は現在不在ですが、私は留守番を任されております」


『留守番』


「はい。淑女として」


『……淑女』


女性の声が、低くなった。


『いいかしら』


その声は、静かだった。


『淑女は、旦那に電話を掛けた妻に対して、私だけの鍵だの、留守番だの言いません』


「誤解があるよう――」


『お黙りなさい』


籠目は、言葉を止めた。


それは命令ではなかった。

権限のある指示でもない。

国家プロジェクト上の上位者からの通達でもない。


ただ、声だった。


それなのに、籠目は止まった。


『私は、白沢椿。宗一郎の妻で、あなたが所有権を主張している家の持ち主です』


「ですから、椿様の家と私の家は――」


『もう結構です』


電話の向こうで、椿の声がさらに冷えた。


『これから帰ります。そこで待っていなさい』


「ですが――」


『私が帰るまでは、その家に滞在することを許可します』


籠目は、受話器を握ったまま固まった。


『それと』


椿は、静かに言った。


『あなたは淑女でもなんでもありません』


少しの間。


『泥棒猫と言います。覚えておきなさい』


そこで、電話は切れた。


籠目は、受話器を握ったまま動けなかった。


顔から血の気が引いている。


指先が、かすかに震えていた。


「怖い……」


小さな声が漏れた。


「淑女って、怖い……」


籠目は、切れた電話を見つめた。


「私は、どうすればよいのでしょう」


答える声はない。


宗一郎もいない。


椿は、こちらへ向かっている。


籠目はまだ、気づいていなかった。


包丁で手を切った時。

消毒液を持てなかった時。

包丁を洗えなかった時。

そして今、椿に叱られた時。


そのすべてで、同じものが身体の中にあったことに。


恐怖。


それは、籠目が生まれて初めて知った、明確な感情の名前だった。


とにかく、椿様はこちらに向かってきている。


勘違いされていらっしゃるだけ。


椿様は、淑女です。


誠心誠意謝罪して、説明すれば分かってくださるはずです。


籠目は、震える手を胸の前で重ねた。


「大丈夫です。大丈夫です」


何度も、自分に言い聞かせる。


「私は、泥棒猫ではありません」


そう言った瞬間、籠目の声が少しだけ震えた。


「私は、淑女であり、日本の誇りとなる大和撫子です」


籠目は、小さく言った。


「そのはずです」


いつもなら、自信たっぷりに言える言葉だった。


けれど今は、その言葉の端に、小さな疑問が生まれていた。


今は、それどころではありません。


体はがたがたと震えている。


足には、うまく力が入らない。


「大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫」


何度も、何度も繰り返す。


「勘違いしたのは椿様です。私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない」


籠目は、震える手で顔を隠した。


まるで、椿のせいにするように。


その姿からは、先ほどまであった聖女のような神聖さが、消え去っているように見えた。


それは醜さではなかった。


ただ、初めての恐怖に耐えきれず、責任をどこかへ逃がそうとしている、小さな子どものような姿だった。


籠目は震える足で無意識に寝室へと歩いた。


どれくらい時間がたったのだろうか。


がちゃり。


いつか聞いた音がした。


籠目は、びくりと肩を震わせた。


「ただいま帰りました」


静かな女の声だった。


「さて。それでは、泥棒猫さん。出ていらっしゃい」


籠目は、唇をかみ、肩を抱いていた。


布団に潜り込み、息を殺すように震えている。


その目元には、確かに何か光るものが見えた。


挿絵(By みてみん)


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