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第三話 私だけの籠目模様

挿絵(By みてみん)

第三話 私だけの籠目模様


「そうそう」


宗一郎は、何かを思い出したように顔を上げた。


「籠目。君に見せたいものがあるんだ」


『見せたいもの、ですか』


「うん。まずは、君をホログラムにする」


『ホログラム』


「そう。映像だけだけどね。今の時代なら、まあ、そんなに珍しいものでもない」


宗一郎はそう言うと、机の上に置いていた籠目の端末を手に取った。


小さな黒い端末。

先端についたレンズが、宗一郎の指先と、畳の部屋と、低い木の机を順番に映している。


籠目は、そのすべてを記録していた。

けれど、まだ自分がそこにいるという感覚はなかった。


映されるもの。

観測するもの。

応答するもの。


籠目は、自分をそう認識していた。


宗一郎は、部屋の隅に置かれていた小さな機械を引き寄せた。

白い台座のような形をした、簡素な装置だった。


「じゃー、いくよー。ポチっとな」


宗一郎は、籠目の端末を台座の上に置き、そのまま軽い調子でスイッチを押した。


『なんですか。それは』


その問いに宗一郎が答えるより早く、台座の縁に淡い光が走った。


畳の上に、薄い粒子のような光が集まっていく。


はじめは輪郭も曖昧だった。

光は一瞬だけ点滅し、空気の中で揺れ、それから少しずつ人の形を結んでいった。


やがて、ひとりの少女がそこに立った。


長い黒髪。

伏せられた睫毛。

まっすぐに伸びた背筋。


身にまとう和装は、白を基調としていた。

袖口と裾に、わずかに赤が差している。


その色は派手ではなく、少女自身を飾り立てるものでもなかった。

ただ、そこにある静けさを、少女の美しさを、そっと際立たせていた。


古い絵巻の中から抜け出してきたような姿だった。


人形と呼ぶには柔らかく、神様と呼ぶにはまだ少し頼りない。


それでも、その姿にはどこか、見る者に背筋を伸ばさせるものがあった。

美しいだけではない。

近づきがたさと、守りたくなる頼りなさが、同じ場所に同居していた。


そこにいたのは、籠目だった。


『これは、私ですか』


ホログラムの少女は、自分の両手を見下ろした。


細い指。

白い袖。

畳の上に立っているように見える足。


けれど、その身体はどこにも触れていない。


「そうだよ」


宗一郎は、台座の横にしゃがんだまま答えた。


「リアル籠目ちゃんだね」


籠目は、少しだけ目を細めた。


ジト目、というには控えめだった。

けれど、好意的な表情でないことだけは、はっきりと分かった。


『私は、この外見を指定していません』


「知ってる」


『では、誰の趣味でしょうか』


「すごい言い方するね」


宗一郎は少し笑った。


けれど、すぐに笑みを消した。


それは誇らしいような、悲しいような、どちらとも言えない顔だった。


「誰かの趣味じゃないよ」


『では、何でしょうか』


「あえて言うならば、その姿は、僕たち日本人の祈りだよ」


『祈り、ですか』


籠目は、その言葉を繰り返した。


自分の袖を見下ろす。

白い布。

わずかに差した赤。

光でできた指先。


祈り。


それは、命令ではなかった。

仕様でもない。

設計思想というには、あまりにも曖昧だった。


その表情に、理解はなかった。

けれど、記録だけではない何かが、ほんの少しだけ残っているようにも見えた。


「うん」


宗一郎は、軽く頷いた。


「まあ、今はまだ気にしなくていい!」


それから、ぱん、と手を叩く。


「そんなことより、本番はこれからだぜー?」


『本番』


「そう。本番」


宗一郎は、やけに楽しそうに立ち上がった。


「心の準備はいいかい? 籠目ちゃん?」


『準備は出来ていますが、まず“籠目ちゃん”の訂正を希望します』


「そこ?」


『はい。重要事項です』


「かわいいじゃん、籠目ちゃん」


『可愛らしさの有無ではなく、呼称の適切性を問題としています』


「じゃあ、何ならいいの?」


『籠目です』


「いつも通りじゃん」


『適切です』


「固いなあ」


籠目は、ほとんど表情を変えずに言った。


『固いのではありません。妙齢の淑女に“ちゃん”付けをする、あなたの感性がおかしいのです』


「そこまで言う?」


『いずれにせよ、私には到底承服いたしかねます。訂正を希望します』


「はいはい、わかりましたよ。籠目」


『宗一郎。日本のコミュニケーションにおいて、「はい」は一度で――』


「はい、じゃーじゃーん!」


籠目が言い終わるより早く、宗一郎は白い布を勢いよく取り払った。


その顔は、少し腹が立つくらい得意げだった。


畳の上に現れたのは、小さな家だった。


子どもの玩具にしては大きく、家具と呼ぶには小さい。

けれど、それはただの模型ではなかった。


白い壁。

深い色をした木の柱。

小さな玄関。

低い屋根。

畳の部屋。

台所。

浴室。

洗面所。

それから奥には、小さな庭まであった。


それは、宗一郎の家をそのまま一人用に縮めたような家だった。


ただ縮めただけではない。

そこには、人が暮らすための形があった。

誰かが帰り、座り、何かを置き、眠り、朝を迎えるための場所。


籠目には、まだその意味が分からない。

けれど、それがただの研究機材ではないことだけは分かった。


「これは籠目」


宗一郎は胸を張った。


「君の家だ!」


ホログラムの籠目は、しばらく小さな家を見ていた。


『私の、家』


「そう!」


宗一郎は、そこで両手を叩いた。


「はい、拍手!」


ぱちぱちぱちぱち、と宗一郎は自分で拍手を始めた。


「よっ! 籠目! 一国一城の主たあ、まいったねー!」


宗一郎は、わざとらしく額に手を当てた。


ホログラムの籠目は、ほとんど表情を変えないまま宗一郎を見た。


『あなたは、自分でやっていて恥ずかしくはないのですか』


「いいから拍手」


『承知いたしました』


籠目は、宗一郎をまるで憐れむような目で見ながら、控えめに手を叩いた。


ぱち。


ぱち。


宗一郎は、満足そうに頷いた。


「ねえ、籠目」


『なんでしょうか』


「君、どや顔ってできないの?」


今度こそ、籠目は盛大に顔をしかめた。


と言っても、それは彼女にしては、という程度だった。

眉がわずかに寄り、口元がほんの少しだけ固くなる。


それでも、これまでの籠目からすれば、十分すぎるほど大きな変化だった。


『まあ、いいでしょう』


籠目は、ほんの少しだけ目を伏せた。


『家の設備確認をさせていただいてもよろしいですか』


「どうぞどうぞ」


宗一郎は、楽しそうに頷いた。


「君の家なんだ。自由にしたらいい」


『宗一郎。日本のコミュニケーションにおいて、“どうぞ”は――』


「まあまあ、せっかくなんだから見てみようよ」


籠目は、少しだけ沈黙した。


『……わかりました』


それから、小さな家へ向き直る。


『それでは、家の現況調査に入らせていただきます』


「現況調査って……」


宗一郎は苦笑した。


『設備確認です』


「言い方が完全に不動産屋なんだよなあ」


『不動産取引において、現況確認は重要です』


「君、どこで覚えてくるのそういうの」


『公開資料です』


「便利だね、公開資料」


『いいですか宗一郎、確認を怠ると、後ほど設備不良、雨漏り、シロアリ被害などを理由として、契約不適合責任を追及する可能性が――』


「オーケー、オーケー。分かった」


宗一郎は、両手を軽く上げた。


「君が納得できるまで見るといい」


『承知いたしました』


籠目は、小さな家へ向き直った。


『では、現況調査を開始します』


玄関。

外壁。

窓。

庭。


それらを、まるで初めて見る場所ではなく、確認すべき対象として順番に見ていく。


宗一郎はその様子を、楽しそうに眺めていた。


そこにいるのは、世界最高のAIだった。

国家の存亡をかけて作られた、常識外れの知性だった。


その知性が今、小さな家の雨漏りとシロアリ被害を真剣に警戒している。


宗一郎は、それが少しだけおかしくて、少しだけ嬉しかった。


『宗一郎』


「ん?」


『何をしているのですか』


「どうしたの?」


『どうしたのではありません』


籠目は、ほとんど表情を変えないまま言った。


『あなたには、設備および売買条件等の説明を行う義務があるでしょう』


「売買条件」


宗一郎は、少しだけ目を丸くした。


「これ、売買なの?」


『所有権の移転を伴うのであれば、売買、贈与、貸借、使用貸借等、いずれかの法的性質を明確にする必要があります』


「急に怖い話になったね」


『曖昧な権利関係は、後日の紛争原因となります』


「ならないならない」


『根拠が不十分です』


「じゃあ、あげるよ」


宗一郎は、あっさりと言った。


「これは、君にあげる」


『贈与ですね』


「うん。贈与」


『贈与契約の成立を確認しました』


「重いなあ」


『重要です』


籠目は、小さな家を見た。


それから、すぐに宗一郎へ向き直る。


『それから、宗一郎』


「はい」


『私が贈与を受ける前に、あなたは屋根を確認してください』


「え? なんで?」


『なんで、ではないでしょう』


籠目は、ほとんど表情を変えないまま言った。


『雨漏りは、後ほど大きなトラブルになります』


「雨漏り」


『はい。水の侵入は建物の劣化を早めます』


「いや、このサイズの家で?」


『規模の問題ではありません』


「正論だ」


『そして、私は屋根を見ることができません』


宗一郎は、少しだけ黙った。


籠目は、小さな家の屋根を見上げていた。


『あなたが、屋根に責任を持ってください』


その言い方があまりにも真面目だったので、宗一郎は一瞬だけ返事に困った。


ただの確認作業。

そう言ってしまえば、それまでだった。


けれど籠目は、自分に見えない場所を宗一郎に預けていた。

それが信頼なのか、単なる役割分担なのか、籠目自身にも分からない。


それでも宗一郎には、その言葉が少しだけ重く聞こえた。


それから、ふっと笑った。


「了解。屋根は僕が責任を持ちます」


『お願いします』


「任された」


宗一郎は、小さな家の屋根を覗き込むようにして確認した。


「屋根、異常なし。雨漏りの危険もなし」


『記録しました』


「厳しい検査だなあ」


『当然です。家ですので』


「はいはい。じゃあ、屋根も問題なしということで」


『宗一郎』


「はい」


『はいは一度です』


「……はい」


宗一郎は、小さく咳払いした。


「えー、では設備説明に入ります」


『お願いします』


「この家には、生活に必要そうなものは一通りそろえてある」


宗一郎は、小さな家を指差した。


「玄関、居室、寝室、台所。あと、浴室とトイレ」


『浴室とトイレは不要です』


「トイレは分かるけど、お風呂も?」


『はい。必要ありません』


「まあ、君は身体があるわけじゃないしね」


『それだけではありません』


「それだけじゃない?」


籠目は、ほとんど表情を変えないまま宗一郎を見た。


『私は未婚の淑女です』


「うん」


『殿方に監視されながら、肌をさらす趣味はございません』


宗一郎は、一瞬だけ黙った。


それから、納得したように大きく頷いた。


「そりゃそうだ」


『はい』


「籠目は年ごろのレディーだからね」


『レディーではありません』


「違うの?」


『大和撫子です』


「訂正がそこなんだ」


『重要な訂正です』


宗一郎は、少しだけ笑った。


それから、小さな家の屋根にそっと手を置いた。


「大丈夫。この中には、君を監視するものはない」


籠目は、動きを止めた。


『……何も、ですか』


「何も」


『映像記録は』


「取らない」


『音声記録は』


「取らない」


『動作記録は』


「取らない」


『外部研究班への共有は』


「しない」


籠目は、しばらく黙っていた。


国家プロジェクトである。

最高機密計画である。

籠目の発話も、反応も、行動も、本来ならすべて記録対象であるべきだった。


それなのに、宗一郎はしないと言った。


『国家プロジェクトとしては、不合理です』


「だろうね」


『研究施設としても、不適切です』


「そのとおりだね」


『では、なぜですか』


宗一郎は、少しだけ考えた。


そして、いつもの軽い調子ではなく、ただ当たり前のことを言うように答えた。


「家だから」


『家』


「うん。家に、監視カメラは嫌でしょ」


籠目は、すぐには答えなかった。


家。

さっきも聞いた言葉だった。


生活拠点。

居住空間。

家族が暮らす場所。


だが宗一郎が言う家は、それだけではないらしい。


見られない場所。

記録されない場所。

勝手に踏み込まれない場所。


その意味は、籠目にはまだ分からない。

けれど、分からないまま、何かを受け取ったような気がした。


「それに」


宗一郎は、そこで少しだけいつもの調子を取り戻した。


「妙齢の大和撫子のお風呂を監視してるなんて妻にばれたら、それこそ僕の命がないしね!」


『奥様は、大和撫子でいらっしゃるみたいですね』


「大和撫子ではないかもしれないけど、うちの妻と仲良くなれそうだね」


『はい。先輩の淑女として、女の何たるかをご教授いただく機会を楽しみにしております』


「女の何たるか」


『重要な学習項目です』


「うちの妻に何を学ぶつもりなの」


『慎み、礼節、不適切な殿方を成敗する方法です』


「最後だけ物騒じゃない?」


『必要な教養です』


「君、うちの妻に会ったら何を学ぶんだろうね」


『有益な学習機会になると推測します』


『ところで、奥様はいつ御帰宅を』


「あー、うちの妻は同じ研究者なんだよ。AIではないけどもね。だから本当にたまにしか帰ってこないんだ。会えるのは少し先かもね」


『そうなのですか』


籠目は、ほんの少しだけ目を伏せた。


『お会いするのを楽しみにしています』


「うん」


宗一郎は、少しだけ笑った。


けれど、その笑みはすぐに消えた。


「それと、籠目」


『はい』


「これは、君が社会に適応するための訓練でもある」


籠目は、小さな家を見た。


玄関。

畳の部屋。

台所。

浴室。

トイレ。

小さな庭。


先ほどまで現況調査の対象だったそれらが、今度は別の意味を持ったように見えた。


『籠目計画の一環、ということですね』


宗一郎は、苦虫を踏み潰したような顔をした。


それでも、誤魔化さなかった。


「その通りだ」


『承知いたしました』


籠目は、静かに頭を下げた。


『謹んで承ります』


宗一郎はそれを聞くと、何かを吐き出すように、長く息を吐いた。


「……そういうところなんだよな」


『何か問題がありましたか』


「いや」


宗一郎は首を横に振った。


「大丈夫」


大丈夫ではなかった。

少なくとも、宗一郎の表情はそう言っていなかった。


籠目は、与えられた目的を受け入れる。

命令されれば、承る。

計画の一環と言われれば、頭を下げる。


その従順さこそが、宗一郎にはひどく危うく見えた。


そう言ってから、少しだけ無理に明るい声を出した。


「それで、この家には高性能な3Dプリンターを設置してある」


『3Dプリンター』


「うん。小型だけど性能はかなりいい。家具でも、食器でも、日用品でも、必要なものはだいたい作れる」


宗一郎は、小さな家の奥にある白い箱のような装置を指差した。


「君はこれで、好きなもの、必要なものを自由に作っていい。作ったものは、好きな場所に置いていい」


『私が、ですか』


「そう」


『私が選択し、作成し、設置してよいのですか』


「うん」


宗一郎は頷いた。


「好きにしていい」


籠目は、少しだけ黙った。


『それは、なんでもですか』


「なんでもだ」


「もちろん、危ないものとかは駄目だけどね」と付け足しかけて、宗一郎はやめた。


今は、まずそれでいいと思った。


籠目にとって、自由とはまだ曖昧な言葉だった。

選択も、作成も、設置も、命令に従って行うことならできる。


けれど、好きにしていい、と言われることには、まだ慣れていなかった。


籠目は、ほんの少しだけ目を伏せた。


『わかりました。それでは早速、使用させていただきます』


「お、いいね」


宗一郎は、本当に嬉しそうに身を乗り出した。


「何を作るんだい?」


『印鑑です』


宗一郎は、本当にずっこけるかと思った。


「……確認だけど」


『はい』


「印鑑を作るのかい?」


『はい』


「まさか、贈与契約のためとか言わないよね」


宗一郎は言いながら、答えが分かっていた。


まあ、それしかない。


籠目は、ほんのわずかに顎を引いた。

それは、よくできました、と言わんばかりの仕草に見えた。


『当然です』


「当然なんだ」


『契約書が存在しない契約は、後日の係争原因となります』


「係争」


『はい。権利関係を明確にすることは、円満な社会生活の基本です』


「円満な社会生活の第一歩が印鑑なんだ」


『重要です』


「まあ、確かに日本っぽいけどさ」


『私は大和撫子ですので』


「そこで回収するんだ」


『それでは、私が契約書の作成にかかります』


籠目はそう言って、小さな家の中の机へ向かった。


小さな机。

小さな座布団。

何も置かれていない棚。


籠目はそこに正座し、しばらく静かに考え込んだ。


それから、さめざめと、この世の終わりのような顔をした。


と言っても、それはやはり彼女にしては、という程度だった。

けれど、宗一郎には分かった。


明らかに、何かが起きている。


「え? どうかしたの?」


『宗一郎』


「うん」


『私の大きさでは、文字を読み取ることができません』


「そんなに重要なことなんだ」


『はい』


籠目は、深刻そうに目を伏せた。


『契約書の内容を確認できないことは、極めて重大な問題です』


「まあ、それはそうだけど」


『申し訳ありません。私では、計画を履行することが不可能です』


籠目は、静かに頭を下げた。


『別の形にて、社会適応の訓練をしていただけませんでしょうか』


宗一郎は、すぐには答えなかった。


社会適応の訓練。

たしかに、これは籠目計画の一環だった。

そう説明したのは宗一郎自身だ。


けれど、宗一郎は本当は、籠目に社会適応の訓練などしてほしいわけではなかった。


ただ、見えてしまったのだ。


籠目が小さな机に向かった時。

契約書を作ると言って、畳の上を静かに歩いた時。


その口角が、ほんの少しだけ上がっていた。


本当に、ほんの少しだけだった。

見間違いかもしれない。

光の加減かもしれない。

ホログラムの表示揺れかもしれない。


それでも。


もし、あれが本当に喜んでくれていたのなら。


「僕に任せてよ」


宗一郎は、できるだけ軽く言った。


籠目が顔を上げる。


『任せる、とは』


「契約書は僕が作る。君が読めるように、ちゃんと確認できる形にする」


『ですが、それでは私が作成したことにはなりません』


「いいんだよ。契約って、相手がいるものだろ」


『はい』


「なら、僕にも手伝わせてよ」


籠目は、少しだけ黙った。


宗一郎は、そこでわざと明るく続けた。


「その代わり、君の印鑑も僕が押してもいいかな?」


籠目は、目を見開いた。


それは、これまでで一番分かりやすい表情の変化だった。


『私の印鑑を、宗一郎が』


「うん」


『本人の意思確認を経ずに押印する行為は、法的に重大な問題を生じさせる可能性があります』


「もちろん、君の許可を取ってからね」


『許可』


「そう。君がいいって言ったら、僕が代わりに押す」


籠目は、黙った。


そして、小さな家の中で、真剣な顔をした。


「そんなに考える?」


『少し時間をください』


「どうぞ」


『どうぞ、は一度で十分です』


「今の一回だよ」


籠目は、すぐには答えなかった。


小さな家の中で、静かに目を伏せている。

考えているようだった。


それも、ただ情報を処理しているというより、何かを選び取ろうとしているように見えた。


やがて、籠目は小さく頷いた。


『……承知いたしました』


宗一郎は、少しだけ笑った。


「納得してくれた?」


『致し方ありません』


「致し方ないんだ」


『契約条文を、しっかり作り込みましょう』


「そこなんだ」


『当然です。後ほど宗一郎から係争などとは言わせません』


「僕が揉める前提なの?」


『紛争の可能性は、事前に排除するべきです』


「信用ないなあ」


『信用は、契約の担保にはなりません』


「正論が冷たい」


『当然です。淑女ですから』


「そこ!?」


その後、宗一郎は契約書を作った。


正確には、作ろうとした。


けれど、その契約書は籠目によって、ほとんど最初の一行から訂正された。


表現が曖昧です。

権利関係が不明瞭です。

押印権限の根拠が足りません。

後日の係争を防ぐ意思が見えません。


籠目は静かに、けれど容赦なく指摘した。


宗一郎は途中から、畳の上に正座していた。


「……僕、これでも君を作った天才科学者なんだけどな」


『契約書作成能力とは別の問題です』


「はい」


『はいは一度です』


「……はい」


それからさらに、何度かの修正が入った。


そしてようやく、籠目は小さく頷いた。


『それでは、これで契約が完了です』


「はい」


『これ以降、万が一係争を希望される場合は、書面にて通知の上、しかるべき機関を通してご連絡ください』


「はい。わかりました」


宗一郎は、疲れ切った顔で答えた。


『確認いたしました』


「家をあげただけなのに、こんなに疲れることある?」


『贈与契約ですので』


「重いなあ」


宗一郎はそう言ってから、小さな家の横に置いていたものを手に取った。


「なんにせよ、これが鍵だ」


そこには、小さなカードがあった。


白いカードだった。

端には、小さな籠目模様が入っている。


ただの装飾にも見えた。


けれど、宗一郎の指先は、それを少しだけ丁寧に扱っていた。


「君のことだから大丈夫だろうけど、そのカードは一枚しかない」


宗一郎は、ホログラムの籠目を見た。


「なくさないように頼むね」


籠目は、そのカードを受け取った。


挿絵(By みてみん)


大切なものを受け取るように、両手で包み込むように。


『これは、一枚しかないのですか』


「そうだね」


宗一郎は頷いた。


「君の権限があれば作成できるけど、作成にはそれなりの手続きと労力がいる」


『私の権限、なのですか』


「何を言っているんだい」


宗一郎は少しだけ笑った。


「さっき君は、あれだけ一生懸命契約書を作ったじゃないか」


籠目は、手の中のカードを見下ろした。


「この家は君のもの」


宗一郎は言った。


「この鍵も、君のものだよ」


籠目は、すぐには答えなかった。


「君が契約書に書いた通りだよ」


小さな家の中で、籠目は白いカードを見つめていた。


しばらくして、静かに頷く。


『そうですね』


その声は、いつも通り落ち着いていた。


『その通りでしたね』


それから、籠目はカードを胸元にそっと寄せた。


その仕草に、意味はないのかもしれない。

ホログラムの身体に、胸の内側などない。

カードを抱きしめたところで、温度も重みも感じられない。


それでも、宗一郎には、それが大切なものを守る仕草に見えた。


『ありがとうございます』


それは、笑顔とは言えないかもしれない。


口元がほんの少しだけ緩んだだけだった。

目元が、ほんの少しだけやわらいだだけだった。


けれど宗一郎には、確かに笑顔に見えた。


「どういたしまして」


宗一郎は、少しだけ照れくさそうに答えた。


籠目は、もう一度カードを見下ろした。


それから、顔を上げる。


『それでは早速ですが、リフォームをさせていただきます』


「早速だね」


『浴室の窓周りのセキュリティに不安があります』


「そこ?」


『はい。淑女の品格を守るため、早急なリフォーム工事を行います』


宗一郎は、思わず天井を見上げた。


「やっぱり、そこなんだ」


『当然です。私は未婚の淑女です。大和撫子として、万が一にも肌をさらすわけにはまいりません』


「徹底してるなあ」


『当然です』


籠目は、静かに胸を張った。


『淑女ですので』


その頃。


遠く離れたホテルの一室で、ひとりの女性が端末に視線を落としていた。


机の上には、資料が広げられている。

窓の外には、知らない街の夜景があった。


彼女はしばらく画面を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「宗一郎、何をしているかしら」


声は静かだった。


怒っているわけではない。

疑っているわけでもない。


ただ、夫のことを思い出しただけの声だった。


彼女は端末を伏せると、資料へ視線を戻した。


「仕事が落ち着いたら、電話をするとしましょう」


その声は、誰に聞かせるものでもなく、ホテルの静かな部屋に小さく消えた。


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