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第二話 はじめまして世界

挿絵(By みてみん)

第二話 はじめまして世界


籠目は、海を見ていた。


正確には、宗一郎の胸ポケットに差し込まれた小さな端末が、海を映していた。


研究棟の外へ出ると、風が少し強くなった。

白い光が、由比ガ浜の海に散っている。


籠目は、その光を数値として受け取ることができた。

反射角。

波高。

風速。

潮位。

空気中の塩分濃度。


それらを並べれば、目の前の海をかなり正確に説明できる。


けれど、それだけでは足りない気がした。


宗一郎は、紙コップを片手に歩きながら、胸元の端末を指で軽く叩いた。


「うん? どうしたの、籠目」


返事はなかった。


「黙っちゃって。珍しいじゃない」


宗一郎は、少しだけ笑った。


「海を見たら、波高、風速、沿岸環境、反射光の角度。そういう得意なやつ、すぐ始まると思ってたんだけど」


しばらくして、籠目の声が返ってきた。


『……海を観察していました』


柔らかく、落ち着いた声だった。

けれど、その返事は、いつもよりほんの少し遅かった。


『また、聞かれなかったので答えなかっただけです』


「そっか」


宗一郎は、胸元の端末を見た。


「じゃあ、海は?」


少しだけ、間があった。


『……美しいので、好きです』


宗一郎は、今度こそ目を見開いた。


好き。


それは、判断ではなかった。

評価でもない。

合理性でもない。


美しいので、好きです。


宗一郎は、何かを断ち切るように、静かに目を閉じた。


「僕も、海は好きだよ」


それきり、二人はしばらく黙って歩いた。


波の音が、右手から聞こえていた。

研究棟の中では届かなかった音だった。


籠目は、黙ったまま周囲を観察していた。


白い歩道。

潮風に揺れる植え込み。

道路の向こうを走る小さな車。


左手には、公園があった。


『左方に公園を確認。利用者は三名。遊具の劣化率は――』


籠目が公園の状況を記録しようとした、その時だった。


宗一郎が急にカッと目を見開いた。


「ところで籠目! 知ってるー!?」


ほとんど叫ぶような声だった。


『え。何をでしょうか』


「ここは湘南、由比ガ浜!」


宗一郎は腰を落とし、両手を前後に出して、体をゆらゆらと揺らした。


「昔はね、たくさんのサーファーでにぎわっていたんだぜー!」


『サーファーですか』


「そう! 波に乗る人たち!」


『人間は、移動効率を目的とせず、波の上に乗っていたのですか』


「幸せな時代の娯楽ってやつだよ」


宗一郎は、少しだけ寂しそうに言った。


その寂しさを、籠目はまだうまく分類できなかった。

過去を懐かしんでいるのか。

失われたものを惜しんでいるのか。

それとも、ただ海沿いで妙な動きをしている自分を恥じているのか。


判断材料は不足していた。


『娯楽だとしても、宗一郎はサーファーにはならない方がよいです』


「え? どうして?」


『サーファーの正しい姿勢は、宗一郎の姿勢、俗にいうへっぴり腰では不適切とのことです』


宗一郎は、へっぴり腰のまま少しだけ固まった。


「……へっぴり腰」


『はい』


「籠目、それ誰から聞いたの」


『公開映像資料および姿勢解析による判断です。必要であれば、姿勢、腕部、体幹の角度誤差など、詳細にお伝えいたします』


「あ、ありがとう……」


宗一郎は、へっぴり腰のまま少しだけ固まった。


「それなら僕は無理そうだね」


そう言って、ゆっくりと体を起こす。


「科学は嘘をつかないからね」


宗一郎は、少しだけ笑った。


籠目は、その笑いも記録した。

自分が指摘した内容は、宗一郎の姿勢欠陥に関する事実である。

それなのに宗一郎は、少しだけ楽しそうだった。


人間は、事実を指摘されても笑うことがある。

それもまた、記録するべき項目だった。


それから宗一郎は、海沿いの道を離れた。


公園を越え、駅へ向かう通りへ入る。

潮の匂いはまだ残っていた。

けれど、波の音は少しずつ遠くなっていく。


道幅は広かった。

海沿いの研究棟ほど白くはないが、通り沿いの建物はどれも新しく、整っていた。


低層の研究施設。

行政職員向けの住宅。

研究員が立ち寄る簡易カフェ。

小さな診療所。

無人の行政窓口。


古い鎌倉というより、鎌倉の形を残した新しい町だった。


それでも、遠くに山が見えた。

風の中には、まだ海の匂いがあった。


宗一郎は、胸元の端末を指で軽く叩いた。


「そして、今。湘南エリアは君たちAI開発の拠点となっている」


『湘南沿岸部は、日本におけるAI研究開発の中核地域です。由比ガ浜を中心に、鎌倉から藤沢沿岸部にかけて、研究施設群が展開されています』


「昔は神奈川といえば横浜だったらしいねー。僕は知らないけど」


『現在の神奈川県庁所在地は鎌倉です』


「そう。横浜は、港を使ったデータセンター都市になった」


宗一郎は、通りの先を見た。


「全ては、国際的パンデミックと未曾有の災害で疲弊していた日本に、第三次世界大戦がとどめを刺したんだよな」


風が、白衣の裾を揺らした。


「そして我が国は、経済的な先進国の座から、言葉通り転げ落ちた」


さっきまでの軽口とは違う声だった。


宗一郎は、冗談のように話すことが多い。

けれど、この話だけは、どうしても少し重くなる。


『第三次世界大戦の実態は、大国間における資源の再分配戦争です』


籠目は、静かに言った。


『当時の日本は、国際的パンデミックへの対応ミスと、未曾有の大地震により、すでに国力を大きく低下させていました』


『仮に余力があったとしても、日本が参戦を選択したかは不明です。当時の国民の多くは、武力による国際紛争への関与に強い拒否感を示していました』


少し間を置いて、籠目は続けた。


『しかし結果として、日本は大国間の資源再分配に関与するだけの余力を持ちませんでした』


「つまり、選ばなかったし、選べなかった」


『その表現は、おおむね正確です』


「頭が痛くなるね」


宗一郎は、苦笑いを隠さなかった。


「でも、人って生き物は国が立ってようが、座ってようが、転げ落ちようが、腹が減るんだよ」


『生命活動の維持には、継続的な栄養摂取が必要です』


「そういうところは本当にぶれないね」


宗一郎は、少しだけ笑った。


「飯を食う。病院に行く。学校に通う。役所で手続きをする。水も電気も使う。国が弱くなったからって、今日から全部やめます、とはいかない」


『国家機能の維持です』


「そう。それ」


宗一郎は、通りの先を見た。


「だから日本は、国をチップにAIに賭けた」


そこで、少しだけ苦笑いする。


「言い方、悪いかな」


『賭ける、という表現は比喩として理解できます。ただし、国家をチップとする表現は、国民感情に配慮した場合、適切性を欠く可能性があります』


「だよねえ」


宗一郎は、紙コップを軽く揺らした。


「でも、実際そんな感じだったんだよ」


それは、明るい未来を信じての投資ではなかった。

夢を見たというより、崖際で残った札をすべて置いたに近い。

勝てば国が残る。

負ければ、もう次はない。


籠目はその賭けの中核に置かれた存在だった。


少し歩いてから、宗一郎は続けた。


「ただまあ、全部が全部、悪手だったわけじゃない」


『はい』


「その後、日本は地方行政や居住地域を明確に再編成した。当時の内閣は、相当に優秀だったよね」


そこで、宗一郎は少しだけ笑った。


「僕が偉そうに言う事でもないんだけどね」


『第三次世界大戦後の日本政府は、行政単位の再編、居住地域の集約、インフラ維持範囲の選別を進めました』


籠目が、静かに引き継いだ。


『人口減少と財政制約により、従来の市町村単位で全ての公共サービスを維持することは困難になっていました。そのため、政府は居住地域を集約し、医療、教育、行政、交通、水道、電力、防災機能を重点地域へ再配置しました』


宗一郎は、黙って歩いていた。


『同時に、広域行政の統合が進められました。各自治体が個別に担っていた行政手続、福祉、税務、災害対応、都市管理は、都道府県単位、あるいは複数県をまたぐ広域圏単位で処理されるようになります』


「役所も、学校も、病院も、全部まとめ直した」


『はい。行政効率化のためには、住民情報、医療情報、教育情報、交通情報、電力・水道・通信網の稼働状況を横断的に管理する必要がありました』


「人間だけじゃ、無理だった」


『はい』


籠目の声は、少しも揺れなかった。


『処理量、判断速度、予測精度、継続稼働性。いずれの点においても、人間の行政処理能力だけでは限界がありました』


宗一郎は、駅へ向かう通りの先を見た。


『そのため、AIは単なる研究分野ではなく、国家運営の基盤となりました。行政判断の補助、インフラ老朽化の予測、医療資源の配分、災害時の避難経路算出、食料とエネルギーの需給管理、教育支援、治安維持、産業計画』


籠目は、そこで一度だけ言葉を切った。


『国家の維持に必要なほぼ全ての領域に、AIの判断補助が組み込まれていきました』


「結果、神奈川県はAI研究を行う行政として集約された」


宗一郎は、通りの向こうに見える山並みを横目に見ながら言った。


「今じゃ、神奈川県を首都と呼ぶ人すらいる」


『正式な首都は東京です』


「知ってるよ」


宗一郎は笑った。


「でも、国の頭がどこにあるかって話なら、もう少しややこしい」


宗一郎は、指を折るようにして続けた。


「横浜は港とデータセンター。鎌倉は行政と研究。湘南は研究施設群」


『物流、演算資源、行政機能、研究施設を県域内で連結する構造です』


「交通は海老名の高速道路網。橋本は高速輸送網としてのリニア。そして、それらをつなぐ大量の大型倉庫」


『はい』


「さらに足柄、小田原、旧津久井を含む周辺地域には、超大型ソーラーが敷き詰められた。水の輸送インフラも整えた」


宗一郎は、少しだけ息を吐いた。


「いくら条件が整っていたとはいえ、国家予算をはるかに超える大型投資だった」


『通常の財政規模では実行困難です』


「ここまででも国がひっくり返りそうなのに、神奈川県内にはAI開発用の超大型自動工場をいくつも作った」


宗一郎は、少しだけ笑った。


「研究だけじゃない。作る場所まで、全部ここに集めた」


『AI用演算装置、専用端末、制御部品、冷却設備、保守用ロボット、研究補助機器。神奈川県内の自動工場群は、それらを大量かつ継続的に生産するために整備されています』


「そう。人が足りない国が、人を減らすための工場を作った」


宗一郎は、通りの先を見た。


「笑えない冗談だよね」


『労働人口の減少を補うためには、自動化設備の導入が必要です』


「うん。正しい」


宗一郎は、紙コップを持つ手を少しだけ下げた。


「正しいから、余計に頭が痛いんだよ」


正しさは、時々、人に優しくない。

宗一郎はそれをよく知っていた。

籠目は、まだ知らなかった。


しばらく歩くと、通りの空気が少し変わった。


駅へ向かう人の流れが増え、研究棟の白さはもう遠くなっていた。

海の匂いは、まだかすかに残っている。

けれど、波の音は聞こえなかった。


「家が見えたよ」


宗一郎は、通りの先を指さした。


「あそこだ」


その先には、庭のついた古い家が建っていた。


築何年になるのか、ひと目では分からない。

けれど、荒れてはいなかった。


低い塀。

磨かれた木の門。

よく手入れされた庭木。

大きすぎはしないが、季節の草花が少しだけ植えられた庭。


古い瓦屋根は、昼の光を受けて静かに光っていた。


周囲には新しい建物が増えている。

行政職員向けの住宅。

小さな診療所。

無人窓口のある建物。


その中で、その家だけが、古い鎌倉の時間をそのまま抱えているようだった。


『宗一郎の自宅を確認しました』


「うん」


宗一郎は、少しだけ笑った。


「古いだろ」


『外観は古いですが、維持管理状態は良好です』


「そういうところ、ちゃんと見てくれるんだ」


『観察しています』


「そっか」


宗一郎は門の前で足を止めた。


胸元の端末を、指先で軽く叩く。


「続きは家で話そう」


『承知いたしました』


宗一郎は門を開けた。

木の軋む音が、小さく鳴った。


敷石を踏んで、玄関まで歩く。

庭木の影が、古い引き戸の上に薄く揺れていた。


宗一郎は片手で鍵を開けると、引き戸をがらがらと横へ滑らせた。


家の中は、外より少しだけ涼しかった。


古い木の匂い。

畳の匂い。

どこかに残った、朝のコーヒーの匂い。


籠目はそれらを直接感じることはできない。

ただ、宗一郎の動きや、視界に映る情報や、室内環境の変化から、それが家の中の空気なのだと推測していた。


宗一郎が靴を脱ごうとした、その時だった。


『……お邪魔します』


小さな声だった。


宗一郎は、動きを止めた。


それから、胸元の端末を見下ろす。


「それ、どこで覚えたの?」


『一般的な訪問時の挨拶です』


「そうだね」


宗一郎は、少しだけ笑った。


「ようこそ、籠目。今日からここが君の家だ」


『私の、家』


返答までに、ほんの少しだけ間があった。

戸惑っているようにも聞こえた。

もちろん、そんなはずはないのだが。


家。

その単語は、籠目の中に登録されている。

居住空間。

生活拠点。

家族が暮らす場所。


けれど、今の籠目には、それが自分に向けられた言葉である理由が、まだうまく分からなかった。


宗一郎は靴を脱ぎ、端末を胸元からそっと外した。


「正しくは、僕たちの家だけどね」


そう言って、軽く片目をつぶった。


その瞬間、籠目の声が返ってきた。


『申し訳ありません。その言葉は、承服できません』


先ほどまでの静けさが嘘のように、はっきりとした返答だった。


宗一郎は、端末を持ったまま固まった。


「え。なんで?」


『不明です』


「また不明なんだ」


『はい。ただし、当該表現に対して、強い訂正要求が発生しています』


「僕たちの家、が?」


『はい』


宗一郎は、少しだけ口元を引きつらせた。


「……なるほど。同棲はまだ早かったか」


『同棲』


少しだけ間が空く。


『補足情報を確認しました』


嫌な予感がした。


『未婚の男女が共同生活を行う形態を指す言葉ですね』


「うん。そうだね」


『承服できません』


「だろうね」


宗一郎は苦笑した。


「ただ、安心してよ。今日はいないけど、一緒に住むのは僕だけじゃないから」


少しだけ間があった。


『それは、女性でしょうか』


「そうだね。僕の――」


『お断りいたします』


挿絵(By みてみん)


宗一郎は瞬きをした。


「え?」


『私は、文献でいうハーレムの一員にはなりません』


数秒、沈黙が落ちた。


古い家の玄関に、海から持ち込まれた風だけがかすかに流れていた。


宗一郎は、ゆっくりと端末を見下ろす。


「あの」


できるだけ穏やかに言った。


「僕の妻ね」


また、少しだけ沈黙。


それから籠目が言った。


『宗一郎のような、身だしなみを整えない男性でも、日本では婚姻を結ぶことが可能なのですね』


宗一郎は固まった。


『記録しました』


「いや、本当に悪気はないんだろうけど失礼だね、君」


宗一郎は苦笑しながら、靴を揃えた。


それから、端末を軽く持ち上げる。


「とりあえず、リビングに行こうか」


少しだけ間が空いた。


『リビングでしたら問題ありません』


「リビング“でしたら”なんだ」


『はい。未婚女性が男性の私室、特に寝室へ不用意に入ることは、慎みを欠く行為とされています』


宗一郎は、吹き出した。


「君、本当にそういうところ真面目だよねえ」


『日本の未婚女性は淑女たれ。大和撫子とは、慎み、礼節、清らかさ、控えめな振る舞いを美徳とする女性像です』


籠目は、淡々と言った。


『籠目計画には、日本文化および日本人の倫理観、価値観、歴史的思想が多数組み込まれています』


「うん。知ってる」


宗一郎は、廊下を歩きながら小さく笑った。


「お上は、君を日本の守護者にしたかったんだから」


『はい』


宗一郎は、少しだけ悲しそうに目を伏せた。


「守護者っていうより――」


古い廊下が、小さく軋んだ。


「日本そのものにしたかった、かな」


それは、まるで誰にも聞かれていない懺悔のようだった。


籠目は、その言葉を記録した。

日本そのもの。

その表現は、あまりにも大きかった。


まだ、籠目には分からない。

自分が何を背負わされているのか。

宗一郎がその言葉を、なぜそんな顔で言ったのか。


けれど、その声が少しだけ苦しそうだったことは、記録された。


「まあ、そんな重い話は後にしよう」


廊下の先の障子戸を開ける。


柔らかな光が、部屋の中へ広がった。


「ここがリビング」


畳の部屋だった。


低い木の机。

壁際には古い本棚。

窓際には、読みかけの本と、飲みかけのコーヒー。


最新式の研究施設とはまるで違う空間だった。


『……観葉植物を確認』


「お、そこ気づく?」


窓際には、小さな鉢植えが並んでいた。


宗一郎は、少しだけ得意げに笑う。


「ちゃんと世話してるんだよ。僕」


『生存率は高いと推測されます』


「言い方」


宗一郎は笑いながら、端末を机の上へそっと置いた。


障子越しの光が、部屋の中に静かに落ちていた。

研究室の白い光とは違う。

海に反射する光とも違う。


そこには、人が暮らしている場所の柔らかさがあった。


籠目は、まだそれを感覚としては知らない。

けれど、その違いを記録することはできた。


「そうそう」


宗一郎は、何かを思い出したように顔を上げた。


「籠目。君に見せたいものがあるんだ」


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