9話 「侵食」
最初は、ただの優しさだと思っていた。
否定する理由もなくて、
むしろ“正しいこと”ばかりで。
だから、疑わなかった。
——その言葉が、少しずつ自分を変えていることに。
後日。
⸻
いつもの職場。
⸻
同僚の声が飛んでくる。
⸻
「澪〜、浦部さんとどうだったのよ〜」
⸻
澪は手を止めずに返す。
⸻
「どうってなにがどう?」
⸻
軽く笑う。
⸻
「はぐらかさないでよ〜」
⸻
「この前の食事!」
⸻
澪は少しだけ考えるふりをして。
⸻
「あぁ、あれね」
⸻
「普通にご飯食べただけだよ」
⸻
同僚が少し身を乗り出す。
⸻
「え〜絶対それだけじゃないでしょ」
⸻
少し間。
⸻
「あの人、いいよね」
⸻
「なんか、澪に合いそう」
⸻
澪は何も言わない。
⸻
ただ、小さく笑うだけ。
⸻
⸻
「あ、ほら」
⸻
同僚が入口を見る。
⸻
「噂をすれば来たよ」
⸻
少し声を潜めて。
⸻
「白馬の王子様」
⸻
⸻
ドアが開く。
⸻
正利が書類を持って入ってくる。
⸻
いつも通りの表情。
⸻
柔らかくて、落ち着いてる。
⸻
⸻
澪は立ち上がる。
⸻
「あの、浦部さん」
⸻
少し頭を下げる。
⸻
「この前はごちそうさまでした」
⸻
正利がすぐに笑う。
⸻
「こちらこそ」
⸻
「楽しかったよ」
⸻
その言い方が、自然だった。
⸻
⸻
やっぱり。
⸻
この前のことも。
⸻
ただ、私のために言ってくれただけなんだ。
⸻
⸻
そう思えば、全部しっくりくる。
⸻
⸻
正利が続ける。
⸻
「一ノ瀬さん」
⸻
少しだけ間。
⸻
「もしよかったらなんだけど」
⸻
「お昼、一緒にどう?」
⸻
「すぐ近くに美味しいハンバーガー屋あるんだよね」
⸻
⸻
同僚がすぐに反応する。
⸻
「あ、そこ美味しいですよね!」
⸻
「澪、行ってきなよ!」
⸻
少し強めに。
⸻
「ほんと美味しいから!」
⸻
⸻
その言葉の裏にあるものも、分かる。
⸻
⸻
でも。
⸻
嫌じゃなかった。
⸻
⸻
澪は少しだけ迷うふりをして。
⸻
「あぁ…」
⸻
小さく笑う。
⸻
「じゃあ、ぜひ」
⸻
⸻
正利が頷く。
⸻
「決まりだね」
⸻
⸻
また、距離が少し縮まる。
⸻
⸻
あの時の違和感は。
⸻
もう、ほとんど残ってなかった。
⸻
昼休み。
⸻
店は小さなハンバーガー屋。
⸻
外の光が少し差し込んで、落ち着いた空気。
⸻
「ここ、結構好きなんだよね」
⸻
正利がメニューを見ながら言う。
⸻
「たまに来るんですか?」
⸻
澪が聞く。
⸻
「うん、仕事の合間とかにね」
⸻
自然な会話。
⸻
特に違和感はない。
⸻
⸻
「一ノ瀬さんってさ」
⸻
ふと、正利が言う。
⸻
「結構、誰とでも仲良くできるタイプだよね」
⸻
澪は少し笑う。
⸻
「まぁ…そうかもしれないですね」
⸻
⸻
正利は軽く頷く。
⸻
「いいことだと思うよ」
⸻
少し間。
⸻
「たださ」
⸻
澪が顔を上げる。
⸻
⸻
「変なやつもいるから、気をつけた方がいいよ」
⸻
⸻
言い方は、柔らかい。
⸻
責めてる感じもない。
⸻
⸻
澪は少しだけ考える。
⸻
「変なやつ、ですか?」
⸻
正利は笑う。
⸻
「いや、ほら」
⸻
「人って見た目じゃ分かんないじゃん」
⸻
「優しそうに見えて、実は…とか」
⸻
⸻
軽く言ってるだけ。
⸻
でも。
⸻
どこか、引っかかる。
⸻
⸻
「まぁ、一ノ瀬さんは大丈夫そうだけど」
⸻
すぐにフォローする。
⸻
「ちゃんとしてるし」
⸻
⸻
澪は小さく笑う。
⸻
「ありがとうございます」
⸻
⸻
少し間。
⸻
ハンバーガーが運ばれてくる。
⸻
「いただきます」
⸻
普通の空気に戻る。
⸻
⸻
食べながら、正利がふと続ける。
⸻
「さっきの同僚の人さ」
⸻
澪が顔を上げる。
⸻
「え?」
⸻
正利は軽く笑う。
⸻
「悪い意味じゃないんだけど」
⸻
少し間。
⸻
「ちょっと無神経なとこあるよね」
⸻
⸻
澪は一瞬だけ止まる。
⸻
思い当たる節が、ないわけじゃない。
⸻
⸻
「そうですか?」
⸻
正利は肩をすくめる。
⸻
「まぁ、ああいうタイプってさ」
⸻
「悪気ないから厄介なんだよね」
⸻
⸻
否定しきれない。
⸻
でも、強くもない。
⸻
⸻
「一ノ瀬さんがどうこうじゃなくて」
⸻
「周りはちゃんと見た方がいいよって話」
⸻
⸻
また、“正しさ”で包む。
⸻
⸻
澪は小さく頷く。
⸻
「そっか…」
⸻
⸻
その時は。
⸻
ただ、それだけだった。
⸻
⸻
優しい人。
⸻
ちゃんと考えてくれる人。
⸻
⸻
そう思っていた。
店を出ると、昼の光が少し強くなっていた。
⸻
「美味しかったですね」
⸻
澪が言う。
⸻
正利が頷く。
⸻
「でしょ」
⸻
そのまま、並んで歩く。
⸻
少しだけ距離が近い。
⸻
⸻
「一ノ瀬さんってさ」
⸻
また、自然に会話が始まる。
⸻
「さっきの同僚の人とも、結構仲いいの?」
⸻
澪は軽く頷く。
⸻
「まぁ普通に仲いいですよ」
⸻
正利は少しだけ考える。
⸻
「そっか」
⸻
少し間。
⸻
「悪い人じゃないとは思うけどさ」
⸻
歩く速度はそのまま。
⸻
「一ノ瀬さん、ちょっと優しすぎるとこあるよね」
⸻
⸻
澪は少しだけ笑う。
⸻
「そうですか?」
⸻
⸻
正利は軽く笑う。
⸻
「うん」
⸻
「だから、利用されやすいタイプだと思う」
⸻
⸻
強くない言い方。
⸻
でも、言葉ははっきりしてる。
⸻
⸻
澪は少しだけ黙る。
⸻
⸻
「俺はさ」
⸻
正利が続ける。
⸻
「一ノ瀬さんには、そうなってほしくないんだよね」
⸻
⸻
その言葉。
⸻
優しさに聞こえる。
⸻
⸻
「ちゃんと自分のこと、大事にしてほしい」
⸻
⸻
澪は小さく頷く。
⸻
「…ありがとうございます」
⸻
⸻
正利が少しだけ笑う。
⸻
「うん」
⸻
⸻
少し歩いてから。
⸻
ふと、足を止める。
⸻
「例えばさ」
⸻
澪を見る。
⸻
「さっきみたいな軽いノリで茶化されるのも」
⸻
少し間。
⸻
「本当は嫌な時もあるでしょ?」
⸻
⸻
澪は一瞬、言葉に詰まる。
⸻
⸻
「…まぁ、たまには」
⸻
⸻
正利はすぐに頷く。
⸻
「だよね」
⸻
⸻
「そういうのってさ」
⸻
少しだけトーンが落ちる。
⸻
「無理してるってことだから」
⸻
⸻
「良くないと思うんだよね」
⸻
⸻
⸻
正しいことを言ってる。
⸻
⸻
否定できない。
⸻
⸻
「一ノ瀬さんはさ」
⸻
少しだけ優しく。
⸻
「もっと、自分の気持ち優先していいと思うよ」
⸻
⸻
澪は何も言えない。
⸻
⸻
ただ、小さく頷く。
⸻⸻
その言葉は、
優しさみたいに、すっと入ってきた。
⸻
⸻
気づかないうちに。
⸻
少しずつ、基準が変わっていく。
気づいた時には、もう遅い。
変わったのは、周りじゃない。
“自分の基準”の方だった。




