10話「浸透」
最初は、変わったつもりなんてなかった。
ただ、少しだけ考えるようになっただけ。
少しだけ、気をつけるようになっただけ。
——でも、その“少し”が、
どこから始まっていたのかは、もう分からなくなっていた。
それから。
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正利と会う回数は、少しずつ増えていった。
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仕事終わり。
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週末。
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特別な理由はない。
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でも、自然と一緒にいる時間が増えていく。
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ある日の夜。
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帰り道。
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「送るよ」
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正利が言う。
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澪は少しだけ首を振る。
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「大丈夫ですよ、近いですし」
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正利はすぐに引かない。
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「いや、危ないから」
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少しだけ笑う。
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「何かあってからじゃ遅いでしょ」
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その言い方に、強さはない。
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でも、断りづらい。
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「…じゃあ、お願いします」
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それが当たり前になっていく。
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また別の日。
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スマホが鳴る。
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正利からのメッセージ。
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『帰れた?』
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『今どこ?』
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『ちゃんとご飯食べた?』
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最初は、嬉しかった。
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気にかけてくれてる。
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そう思えた。
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でも。
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少しずつ、増えていく。
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『誰といるの?』
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『まだ一緒?』
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違和感。
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でも、強くはない。
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「心配してくれてるだけ」
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そう思えば、納得できる。
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ある日。
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同僚とご飯に行く約束をしていた。
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その話を何気なくすると。
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正利が少しだけ黙る。
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「…その人と、よく行くの?」
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トーンは変わらない。
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でも、少しだけ温度が下がる。
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「まぁ、たまにですけど」
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正利は軽く頷く。
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「そっか」
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それだけ。
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でも、そのあと。
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少しだけ、会話が減る。
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帰り際。
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ぽつりと。
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「無理しなくていいからね」
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澪
「え?」
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「付き合いで行ってるならさ」
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少しだけ視線を逸らす。
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「断ってもいいと思うよ」
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優しい言葉。
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でも。
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選択肢が、少しだけ変わる。
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次に誘われたとき。
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澪は少しだけ考える。
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「断った方がいいのかな」
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理由は、はっきりしない。
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でも。
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そう思ってしまう。
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気づかないうちに。
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ある日の夜。
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同僚に誘われた。
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迷ったが、断らなかった。
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「たまにはいいかな」
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そんな気分だった。
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店の中。
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いつも通りの会話。
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笑って。
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食べて。
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でも、どこかで気になってる。
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スマホ。
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画面を開く。
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正利からメッセージ。
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『どこいるの?』
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少し前の時間。
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気づかなかった。
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『誰と?』
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その下に、もう一つ。
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『なんで言ってくれなかったの?』
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一瞬、止まる。
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急いで返信する。
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「ごめん、同僚とご飯来てる」
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既読がつく。
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でも。
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返ってこない。
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数分。
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何も来ない。
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さっきまで楽しかった空気が、
少しだけ遠くなる。
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また画面を見る。
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既読のまま。
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その時間が、やけに長く感じる。
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「…ごめん、ちょっと早めに帰るね」
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気づいたら、そう言っていた。
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理由はない。
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でも、そうしなきゃいけない気がした。
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店を出る。
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夜の空気。
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少し冷たい。
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スマホが震える。
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『もう帰るの?』
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短い一文。
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さっきまでの無視が、なかったみたいに。
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「うん、今帰ってる」
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すぐに返信が来る。
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『そっか』
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少し間。
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『ならよかった』
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それだけ。
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怒ってない。
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責めてもこない。
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でも。
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さっきの“空白”だけが、
はっきり残ってる。
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「なんだったんだろう」
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そう思いながら。
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次からは。
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自然と、先に連絡するようになっていた。
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それから。
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連絡は、欠かさなくなった。
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朝。
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『おはよう』
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仕事前。
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『今日なにするの?』
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帰り。
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『今どこ?』
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最初は、ただのやり取りだった。
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でも。
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返すのが遅れると。
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少しだけ、間が空く。
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既読はつく。
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でも、返ってこない。
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その“空白”が、
前よりも気になるようになっていた。
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だから。
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先に送る。
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ちゃんと返す。
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そうしているうちに。
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“考える前に動く”ようになっていた。
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ある日。
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クローゼットの前。
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服を選んでいる。
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スマホが鳴る。
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『今日昨日言ってた新作の服?』
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写真を送ったわけじゃない。
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昨日、何気なく話しただけ。
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「うん、そうだよ」
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『そっか』
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少し間。
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『それ、あんまり似合ってないと思う』
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一瞬、手が止まる。
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『一ノ瀬さんは、もっとシンプルな方がいいよ』
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否定じゃない。
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“提案”。
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でも。
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クローゼットに戻す。
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別の服を手に取る。
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「こっちにしよ」
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誰に言われたわけでもないのに。
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また別の日。
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同僚から連絡が来る。
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『今日ご飯どう?』
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一瞬、迷う。
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スマホを見る。
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——言った方がいいかな
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『今日、同僚とご飯行くかも』
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送る。
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既読。
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少しして。
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『そっか』
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それだけ。
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でも。
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もう分かる。
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行かない方がいい。
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「ごめん、今日やっぱ無理かも」
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自然と、断っている。
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ある日の夜。
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部屋。
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静か。
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正利と一緒にいる。
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「一ノ瀬さんってさ」
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ゆっくりした声。
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「最近、変わったよね」
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澪は少しだけ笑う。
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「そうですか?」
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正利は頷く。
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「うん」
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少し間。
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「前より、ちゃんとしてる」
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“褒められてる”
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はずなのに。
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胸の奥が、少しだけ重い。
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「良かった」
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そう言われる。
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その言葉で。
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自分が、正しくなった気がした。
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間違ってなかったって、
思ってしまった。
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気づけば。
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誰と会うかも。
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何を着るかも。
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どう過ごすかも。
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全部、
一度“頭の中で確認する”ようになっていた。
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正利の基準で。
選んでいるつもりだった。
自分で決めているつもりだった。
でも気づけば、
その基準はもう、自分のものじゃなかった。




