11話 「解放」
優しさだと思っていた。
守られていると思っていた。
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でもそれは、
少しずつ、自分を失っていくことだった。
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気づかないまま、
当たり前になっていく。
ある日の夜。
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帰り道。
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少しだけ疲れていた。
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仕事。
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人間関係。
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全部が、少しずつ重なっていた。
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正利が隣を歩く。
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何も言わない。
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ただ、歩幅を合わせてくる。
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「大丈夫?」
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ぽつりと。
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澪は少しだけ笑う。
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「なにがですか?」
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正利は少しだけ視線を落とす。
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「無理してる顔してる」
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その一言で。
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少しだけ、崩れる。
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「…してないですよ」
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そう言いながらも、
声は少し弱い。
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正利はそれ以上聞かない。
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ただ。
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軽く、肩を引き寄せる。
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「頑張らなくていいよ」
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その言葉。
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今まで言われたことがなかった。
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「一ノ瀬さんはさ」
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少し間。
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「そのままでいいんだから」
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涙は出なかった。
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でも。
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何かが、ほどけた気がした。
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別の日。
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正利の部屋。
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静かな空間。
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「ここ、落ち着くでしょ」
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澪は小さく頷く。
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「うん」
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「ここにいるとさ」
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正利が言う。
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「余計なこと考えなくて済むでしょ」
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確かに、そうだった。
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誰にも気を使わなくていい。
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何も考えなくていい。
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楽だった。
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「一ノ瀬さん」
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名前を呼ばれる。
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「俺が守るから」
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その言葉は、
すごく真っ直ぐに聞こえた。
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「だからさ」
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少し間。
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「一緒にいよう」
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澪は、少しだけ目を閉じる。
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——この人となら
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そう思ってしまった。
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「…はい」
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それが、
決定的だった。
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結婚を決めた日。
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あの時は。
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救われたと思っていた。
結婚してから。
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最初は、何も変わらなかった。
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むしろ。
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安心感があった。
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「おかえり」
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家に帰ると、正利がいる。
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その一言で、
少しだけ肩の力が抜ける。
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「今日どうだった?」
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「普通だよ」
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そんな会話。
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穏やかだった。
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「無理してない?」
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変わらない言葉。
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変わらない優しさ。
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でも。
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「今日、誰と話したの?」
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何気ない聞き方。
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最初は、気にならなかった。
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「会社の人と」
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普通に答える。
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正利は軽く頷く。
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「そっか」
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それだけ。
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でも。
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少し間を置いて。
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「一緒にいるならさ」
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穏やかな声のまま。
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「ちゃんと、応えないとダメだよ」
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澪
「……え?」
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正利は少しだけ笑う。
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「守るって言ってるんだからさ」
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「それなりのこと、返してくれないと」
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強くはない。
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でも。
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軽くもない。
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「そういうのって、大事でしょ」
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責めてるわけじゃない。
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ただ。
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“当たり前”みたいに言う。
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「……うん」
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その時は。
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深く考えなかった。
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でも。
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その言葉は、
静かに残った。
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次の日から。
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「その人、どんな人?」
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「仕事でどこまで関わるの?」
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質問が増えていく。
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責められてるわけじゃない。
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でも。
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答えなきゃいけない気がする。
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気づかないうちに。
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“返さなきゃいけない”になっていた。
ある日の夜。
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特別な日でもなんでもない。
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ただの平日。
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食卓。
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いつも通りの時間。
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いつも通りの空気。
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「今日さ」
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正利が言う。
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「会社で何してたの?」
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澪は少し考えて答える。
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「普通に仕事して」
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「資料まとめて」
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正利は頷く。
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「で?」
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澪「え?」
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「それだけ?」
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一瞬、止まる。
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「…うん」
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正利は少しだけ笑う。
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「ほんとに?」
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その言い方。
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優しいまま。
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でも。
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逃げ場がない。
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「…どういう意味?」
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正利はフォークを置く。
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「今日さ」
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少し間。
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「男と話してたよね?」
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心臓が、少しだけ強く鳴る。
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「仕事の話だよ」
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正利はすぐに返さない。
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少しの沈黙。
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「一ノ瀬さんさ」
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その呼び方。
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久しぶりだった。
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「ちゃんとしようよ」
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“ちゃんと”
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その言葉が、重くのしかかる。
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「俺はさ」
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「一ノ瀬さんのこと考えて言ってるんだよ?」
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また、それだ。
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正しい言葉。
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逃げられない言葉。
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「なんで分かんないかな」
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その瞬間。
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何かが、切れた。
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澪は立ち上がる。
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「……なにが?」
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声が少し震える。
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「なにが“ちゃんと”なの?」
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正利が少しだけ驚く。
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「え?」
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「私、ちゃんとしてるよ」
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言葉が止まらない。
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「仕事もしてるし」
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「家のこともやってるし」
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「全部、ちゃんとしてる」
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呼吸が浅くなる。
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「それでも足りないの?」
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沈黙。
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正利は何も言わない。
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ただ、見ている。
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その目。
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評価する目。
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その瞬間。
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気づく。
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——私、ずっと試されてたんだ
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何をしても。
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正しくても。
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“合格”は、ない。
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澪の目から、涙が落ちる。
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「……もう無理」
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その一言で。
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全部が崩れた。
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あの日。
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私は、初めて
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“自分のために”
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逃げた。
壊れたわけじゃない。
最初から、歪んでいただけ。
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ただ、それに気づいた瞬間に
もう戻れなくなる。
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それでも——
あの一歩は、
間違いじゃなかった。




