8話 「微歪」
言葉は、いつも優しいとは限らない。
でも、
優しさに見えるものが、
本当にそうかどうかは分からない。
これは、
少しだけ違和感に気づき始める話。
「車では吸わないんだね」
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後ろから、澪の声。
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蒼は煙を吐く。
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「臭いつくし」
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少し間。
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「窓も汚れるから」
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それだけ。
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澪は少しだけ下を向く。
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——こういうとこだよ
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車に灰皿はあった。
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でも、使わない。
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分かってる。
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言わないだけで。
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「そっか…」
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小さく呟く。
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少しの沈黙。
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風の音だけが通る。
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「ねぇ、蒼」
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蒼
「ん?」
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澪は少しだけ間を置く。
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「私ってさ」
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言葉を探すみたいに。
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「これから、どうすればいいと思う?」
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蒼はすぐには答えない。
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煙草を見て、少しだけ考える。
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「……それは」
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短く息を吐く。
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「澪の人生だから、澪が決めることだろ」
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一度、視線を向ける。
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「でも」
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少しだけ間。
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「自分のために生きるっての、忘れなきゃそれでいいと思う」
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飾ってない。
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でも、真っ直ぐな言葉。
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澪は少しだけ笑う。
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でも、その笑い方は少し弱い。
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「蒼ってさ」
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少し間。
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「真っ直ぐだよね」
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視線を外す。
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夕焼けの方を見る。
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「……もしさ」
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小さく。
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「蒼みたいな人とだったら」
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言葉が少し止まる。
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「今の私も」
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「これからの私も」
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「違ったのかな」
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風が吹く。
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その言葉だけが、残る。
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蒼は何も言わない。
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言えない。
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その沈黙の中で。
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澪の視線が、少し遠くなる。
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夕焼けの色が、少しだけ滲む。
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——最初は
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普通だった
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最初は、普通の人だった。
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取引先の引き継ぎ。
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いつも通りの業務の中で、
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新しい担当が紹介された。
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「浦部です」
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落ち着いた声。
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視線をちゃんと合わせてくる。
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「よろしくお願いします」
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それが、最初だった。
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浦部正利。
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その名前が、後からこんな意味を持つなんて
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この時は思ってもなかった。
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仕事で話すようになって、
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距離が縮まるのは早かった。
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よく笑う。
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人の話をちゃんと聞く。
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細かいことも覚えてる。
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「あれ、この前言ってたやつどうなりました?」
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そんな一言が、自然に出てくる人だった。
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自分にはないものを、持ってる気がした。
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五つ上。
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その差も、ちょうどよく感じた。
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ある日、食事に誘われた。
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断る理由は、なかった。
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店はよくあるイタリアン。
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落ち着いた照明。
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少しだけ洒落た空気。
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「一ノ瀬さんってさ」
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グラスを持ちながら。
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「場の空気、明るくするの上手いよね」
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澪は少し笑う。
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「そんなことないですよ」
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「よく“アホみたいに元気”とは言われますけど」
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正利が笑う。
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「ひどいな、それ」
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「浦部さんこそ、モテたんじゃないですか?」
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軽く返す。
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「身長高いし、スポーツもできそうだし」
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正利は少しだけ肩をすくめる。
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「正利でいいよ」
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間。
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「まぁ、モテたね。それなりに」
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澪が笑う。
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「やっぱり」
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正利がすぐに返す。
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「いや、そこ突っ込んでよ」
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「ただのナルシストみたいじゃん」
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笑いが続く。
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空気も、悪くない。
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そのとき。
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澪の皿に、違和感がある。
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細い、一本の髪。
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「あ…」
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小さく声が出る。
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正利が気づく。
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表情が変わる。
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一瞬で。
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「すみません」
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店員を呼ぶ。
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来たのは、若い女性だった。
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正利が皿を指す。
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「これ、どうなってるの?」
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低い声。
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「髪の毛入ってるけど」
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店員が慌てて頭を下げる。
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「申し訳ございません。すぐに新しいものを——」
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正利が被せる。
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「それだけ?」
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指先でテーブルを軽く叩く。
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コツ、コツ、と一定のリズム。
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「不快な思いさせて、それで終わり?」
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空気が、少し変わる。
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澪が口を開く。
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「あの、私大丈夫です」
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少しだけ強めに。
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「気にしてないので」
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正利が一瞬だけ澪を見る。
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それから、ふっと力を抜く。
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「ああ、そう?」
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「一ノ瀬さんがいいならいいけど」
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店員に向かって。
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「もういいよ」
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店員は何度も頭を下げる。
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「申し訳ございませんでした」
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その背中に、小さく。
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「……だから女は」
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澪が顔を上げる。
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「え?」
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正利はすぐに笑う。
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「ああ、ごめんごめん」
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「なんでもない」
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軽く手を振る。
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「俺さ、ああいうの無理なんだよね」
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少しだけ真面目な顔で。
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「仕事なんだから、ちゃんとしてほしいって思うだけ」
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澪は小さく頷く。
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「そっか」
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やり方は、少し強引。
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でも。
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正義感がある人。
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責任感も強い。
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そのときは、そう思った。
最初は、違和感なんてない。
むしろ、
ちゃんとしてる人だと思う。
でも、
小さな言葉や態度は、
ちゃんと残る。
そしてそれは、
あとになって形になる。
次は、
その違和感が少しずつ積み重なっていきます。




