83話 「結婚」
人生は、
失くしたものを数える時間より、
誰かと未来を作る時間の方が、
ずっと長いのかもしれない。
朝。
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まだ人通りも少ない港町に、
潮風だけが静かに流れていた。
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REHARBORの前で、
蒼は立ち止まる。
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ガラス越しに見える店内。
昨日まで何度も見た景色なのに、
今日は少し違って見えた。
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“準備中”じゃない。
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今日からここは、
誰かが来る場所になる。
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蒼は、
静かに鍵を開けた。
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カラン。
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扉の音が、
静かな店内へ響く。
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まだ照明も点いてない店。
コーヒー豆の匂い。
新しい木の匂い。
朝の冷たい空気。
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全部が混ざっていた。
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蒼は、
カウンターへ手を置く。
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ここまで来るのに、
本当に色んな事があった。
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夢とか、
そんな綺麗な言葉だけじゃなかった。
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離婚して。
蓮と離れて。
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何やってんだろうなって、
思った夜もあった。
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それでも海だけは、
変わらずそこにあった。
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そして、
澪と再会した。
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「……早いね」
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振り返る。
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澪だった。
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マフラーを巻いて、
少し眠そうに笑ってる。
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「俺寝れなかった」
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「子供じゃん」
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「そっちもだろ」
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「まぁね」
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二人で笑う。
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澪は、
店内をゆっくり見渡した。
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「……始まるね」
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蒼は、
小さく頷く。
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「だな」
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しばらくして。
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二人で、
OPENの札を裏返した。
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その瞬間。
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REHARBORが、
本当に始まった。
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最初の客は、
近所に住む年配の夫婦だった。
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「おはようございます」
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「おはようございます」
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少しだけ緊張した声。
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でも、
ちゃんと店員の声だった。
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昼前には、
店内も少し賑わってくる。
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テイクアウトを待つ人。
サーフボード抱えた客。
カウンターで話す常連気質のおじさん。
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「蒼!アイスコーヒーひとつ!」
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「おう!」
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「あとカフェラテ!」
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「今やる!」
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澪と蒼の声が、
店内を行き交う。
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忙しかった。
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でも、
嫌な忙しさじゃなかった。
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“自分達の場所”
が動いてる感覚だった。
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昼過ぎ。
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ようやく少し客足が落ち着く。
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「蒼、今のうち休憩行ってきなよ」
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「んー」
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「銀行とかもあるんでしょ?」
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「まぁちょっと」
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「行っといで」
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蒼は、
少しだけポケットを触った。
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まだそこには何も無い。
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でも、
あと少しで入る。
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「じゃあ行ってくる」
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「はーい」
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向かった先は、
ジュエリーショップだった。
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扉を開ける。
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以前対応してくれた店員が、
蒼を見る。
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「萩原様」
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「完成しております」
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小さなケースが、
静かに置かれる。
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蒼は、
ゆっくり開けた。
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綺麗だと思った。
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でもそれより先に、
妙な重さを感じた。
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覚悟みたいなものだった。
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店員が微笑む。
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「きっと喜ばれますよ」
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蒼は、
少し照れ臭そうに笑った。
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「……だといいです」
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店へ戻る。
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澪が、
カウンターから顔を出す。
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「遅かったねー」
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「道混んでた」
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「港町なのに?」
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「知らねぇよ」
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澪が笑う。
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蒼も少し笑った。
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そのあとも、
店はずっと動き続けた。
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「また来ますね」
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その一言が、
二人には嬉しかった。
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夕方頃。
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扉が開く。
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「おー繁盛してるな!」
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すだけいの社長だった。
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「社長!ありがとうございます!」
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「いやぁ、倅がどうしてもって言うんでな」
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後ろから、
ひょこっと顔が出る。
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「あれ?」
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蒼が止まる。
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澪も目を丸くした。
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いつかの海で会った小学生の男の子。
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「あれ!?」
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「蒼君と澪ちゃん!」
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「え、まじ!?」
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「オーナーの息子だったのか!?」
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社長が豪快に笑う。
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「なんだお前ら知り合いだったのかぁ!?」
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中学生になったその子は、
店内を見回しながら言った。
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「ここめっちゃカッコいい!」
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「やば、俺こういう店やりてぇ!」
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「お前すぐ影響されんなぁ」
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社長が笑う。
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男の子は、
カウンターを見ながら続けた。
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「俺、高校生になったら絶対ここでバイトする!」
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澪が吹き出す。
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「え、もう予約?」
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「する!」
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「皿洗いでも何でもやるし!」
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蒼は、
少し笑った。
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「んじゃ、それまで店潰れないように頑張んなきゃな」
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すると社長がすぐ乗っかる。
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「おう、頼むぞほんと」
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「こいつ働かせる場所無くなるからな」
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店に笑い声が広がる。
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その瞬間。
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蒼は、
ふと思った。
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“未来の話をしてる”
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昔の自分なら、
想像も出来なかった。
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でも今は。
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この店が続いてる未来を、
自然に想像出来ていた。
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夜。
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営業が終わる。
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シャッターを半分閉めると、
店の中は急に静かになった。
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「……終わったね」
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澪が、
カウンターへ突っ伏す。
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「つっかれたぁ……」
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蒼は笑いながら、
レジを閉める。
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「お疲れさん」
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「でもなんか、あっという間だったね今日」
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「だな」
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店内を見渡す。
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椅子。
照明。
カウンター。
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全部、
二人で考えた場所だった。
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ここまで来るのに、
本当に色んな事があった。
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痛い事も。
苦しい事も。
忘れられない事も。
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でも。
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全部無かった事にせず、
ここまで来た。
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蒼は、
ポケットへ手を入れる。
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小さなケース。
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少しだけ、
手が震えた。
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「……澪」
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声のトーンが違った。
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澪が顔を上げる。
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「ん?」
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蒼は、
少し笑った。
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でもその顔は、
どこか真剣だった。
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「今日さ」
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「この店開いて思ったんだよ」
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「俺、この先もこんな感じで生きていきたいって」
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澪は、
静かに聞いていた。
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「忙しくて」
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「疲れて」
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「くだらない事で笑って」
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「たまに喧嘩して」
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「でも帰る場所は、ここで」
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蒼は、
ゆっくり澪を見る。
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「……隣にいるのは澪がいい」
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静かな店だった。
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でもその言葉だけ、
ちゃんと響いた。
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蒼は、
ケースを開く。
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「俺と結婚してください」
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澪は、
少しだけ俯いた。
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肩が小さく震えている。
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泣いてるんだって、
蒼はすぐ分かった。
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しばらくして。
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澪が、
涙を拭きながら笑う。
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「……遅い」
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蒼も笑った。
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「悪ぃ」
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澪は、
泣きながら頷く。
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「……こちらこそ」
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その返事は、
特別な言葉じゃなかった。
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でも。
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二人には、
それで十分だった。
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店の外では、
夜の海の音が静かに聞こえていた。
“帰る場所”
海でもなく、
家でもなく。
気付けば、
隣に居る人の事だった。




