76話 「航路」
誰かと生きていくという事は、
きっと、
幸せを信じ直す事なんだと思う。
四月。
⸻
⸻
昼過ぎの海沿いは、
春の匂いがしていた。
⸻
⸻
少し暖かい風。
⸻
⸻
空も高い。
⸻
⸻
店の前には、
業者の車が何台か停まっている。
⸻
⸻
内装工事は、
もうほとんど終盤だった。
⸻
⸻
「うわ」
⸻
⸻
「めっちゃ店じゃん」
⸻
⸻
楓が入口の前で立ち止まる。
⸻
⸻
見上げた先。
⸻
⸻
入口の上には、
新しい看板。
⸻
⸻
“REHARBOR”
⸻
⸻
楓は少し目を細めた。
⸻
⸻
「いいじゃん」
⸻
⸻
「2人にめちゃくちゃ合ってる」
⸻
⸻
蒼は少し照れくさそうに笑う。
⸻
⸻
「そうか?」
⸻
⸻
「うん」
⸻
⸻
楓は看板を見たまま言った。
⸻
⸻
「名前も深いし」
⸻
⸻
「……本当に兄貴が考えた?」
⸻
⸻
蒼が眉を寄せる。
⸻
⸻
「失礼だな」
⸻
⸻
「いやもっとこう、
“SEA CAFE”みたいなの想像してた」
⸻
⸻
「俺そんな浅くねぇよ」
⸻
⸻
「どうだか」
⸻
⸻
楓が笑う。
⸻
⸻
その顔を見ながら、
蒼も少し笑った。
⸻
⸻
昔は、
こんな風に笑う事も少なかった。
⸻
⸻
父親が死んでから。
離婚してから。
⸻
⸻
家族の会話は、
どこか気を遣うものになっていた。
⸻
⸻
でも最近は違う。
⸻
⸻
少しずつ、
ちゃんと家族に戻れている気がした。
⸻
⸻
店の中へ入る。
⸻
⸻
木の匂い。
ペンキの匂い。
コーヒー豆の香り。
⸻
⸻
全部がまだ新しい。
⸻
⸻
「うわぁ……」
⸻
⸻
楓が店内を見回す。
⸻
⸻
「めっちゃ落ち着くじゃん」
⸻
⸻
「ここ絶対長居する人いるよ」
⸻
⸻
「だといいけどな」
⸻
⸻
蒼が言う。
⸻
⸻
カウンターの位置。
テーブルの配置。
照明。
⸻
⸻
全部、
二人で考えた。
⸻
⸻
サーファーだけじゃなく。
地元の人も。
仕事帰りの人も。
⸻
⸻
ふらっと来て、
少し息を抜けるような場所。
⸻
⸻
そんな店にしたかった。
⸻
⸻
楓はカウンターに肘をつきながら、
蒼を見る。
⸻
⸻
「てかさ」
⸻
⸻
「結婚すんの?」
⸻
⸻
蒼の動きが少し止まる。
⸻
⸻
「……急だな」
⸻
⸻
「いや普通に気になるでしょ」
⸻
⸻
「一緒に住んで、一緒に店始めるんだよ?」
⸻
⸻
「それってもう、人生一緒って事じゃん」
⸻
⸻
蒼は少し黙った。
⸻
⸻
確かに、
そうだった。
⸻
⸻
もうただの恋人ではない。
⸻
⸻
仕事も。
生活も。
未来も。
⸻
⸻
全部、
一緒になり始めている。
⸻
⸻
「……でも俺ら、そんな付き合い長い訳でもないし」
⸻
⸻
楓は即答した。
⸻
⸻
「この歳になったら期間とかじゃないでしょ」
⸻
⸻
「大事なのって、覚悟あるかどうかじゃん」
⸻
⸻
蒼は何も言わない。
⸻
⸻
楓は続けた。
⸻
⸻
「兄貴さ」
⸻
⸻
「一回失敗してるから、慎重なのは分かるよ」
⸻
⸻
「でも澪ちゃん、多分覚悟決めてると思う」
⸻
⸻
その言葉に、
蒼は少しだけ目を伏せた。
⸻
⸻
分かっている。
⸻
⸻
澪が、
どれだけ本気か。
⸻
⸻
どれだけ自分を信じて、
隣に居てくれているか。
⸻
⸻
だからこそ、
怖い。
⸻
⸻
また失う事が。
⸻
⸻
また壊す事が。
⸻
⸻
家族って、
簡単じゃないと知っているから。
⸻
⸻
楓はそんな蒼を見ながら、
少し笑った。
⸻
⸻
「まぁでも」
⸻
⸻
「今の兄貴見てると、前より全然良い顔してるよ」
⸻
⸻
「ちゃんと前向いてるっていうか」
⸻
⸻
蒼は少し照れくさそうに笑う。
⸻
⸻
「お前、最近やたら上からだな」
⸻
⸻
「ま、大人になったんで」
⸻
⸻
「自分で言うな」
⸻
⸻
店の窓から、
海が見える。
⸻
⸻
春の光が、
店の床へ差し込んでいた。
⸻
⸻
楓はその景色を見ながら、
ぽつりと言う。
⸻
⸻
「でもさ」
⸻
⸻
「親父、絶対喜んでると思う」
⸻
⸻
蒼は少しだけ止まった。
⸻
⸻
父親。
⸻
⸻
最近、
よく思い出す。
⸻
⸻
工場で働いていた背中。
不器用な会話。
煙草の匂い。
⸻
⸻
もっと色々、
話せば良かったと思う。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
今の自分を見たら、
少しは安心してくれるだろうか。
⸻
⸻
そんな事を思う。
⸻
⸻
夕方。
⸻
⸻
楓が帰る準備をする。
⸻
⸻
入口まで見送る蒼。
⸻
⸻
楓は店を見上げた。
⸻
⸻
入口の上。
⸻
⸻
“REHARBOR”
⸻
⸻
潮風の中、
静かに揺れている。
⸻
⸻
「店オープンしたらさ」
⸻
⸻
楓が言う。
⸻
⸻
「ちゃんと腹括れよ」
⸻
⸻
蒼が苦笑する。
⸻
⸻
「何だよそれ」
⸻
⸻
楓は少し笑った。
⸻
⸻
「兄貴、幸せになるの下手だから」
⸻
⸻
その言葉に、
蒼は何も返せなかった。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
心のどこかで、
もう分かっていた。
⸻
⸻
多分自分は、
これから先も澪と生きていく。
⸻
⸻
この店で。
この海で。
⸻
⸻
笑いながら、
歳を取っていくんだろうなと。
楓だからこそ、
蒼に言えた言葉があった。




