75話 「帰港」
人はきっと、
帰る場所があるから前へ進める。
朝の海は静かだった。
⸻
⸻
波も小さい。
⸻
⸻
風も、
今日はそこまで強くない。
⸻
⸻
店の前に停めた車から降りる。
⸻
⸻
蒼は缶コーヒーを二本持っていた。
⸻
⸻
「はい」
⸻
⸻
「ありがと」
⸻
⸻
澪が受け取る。
⸻
⸻
二人で店を見上げた。
⸻
⸻
入口の上。
⸻
⸻
昨日取り付けた看板が、
朝日に照らされている。
⸻
⸻
まだ少しだけ、
ペンキの匂いが残っていた。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
そこに名前があるだけで、
もう“ただの空きテナント”には見えなかった。
⸻
⸻
澪が小さく笑う。
⸻
⸻
「なんかさ」
⸻
⸻
「急に本物っぽくなったね」
⸻
⸻
蒼も看板を見る。
⸻
⸻
「やっぱり、名前付くと違うよな」
⸻
⸻
少し照れくさい。
⸻
⸻
でも、
嬉しかった。
⸻
⸻
自分達で描いた文字。
⸻
⸻
線も少し曲がってるし、
近くで見れば不格好な所もある。
⸻
⸻
けれど、
それが妙に自分達らしかった。
⸻
⸻
その時。
⸻
⸻
「おはよう」
⸻
⸻
振り向く。
⸻
⸻
澪の父親だった。
⸻
⸻
手にはコンビニの袋。
⸻
⸻
「差し入れ」
⸻
⸻
「ありがとうございます」
⸻
⸻
父親は軽く手を上げる。
⸻
⸻
それから、
ゆっくり店を見上げた。
⸻
⸻
入口の上。
⸻
⸻
新しい看板。
⸻
⸻
父親は少し黙る。
⸻
⸻
朝の光の中、
目を細めた。
⸻
⸻
「……いいじゃないか」
⸻
⸻
澪が嬉しそうに笑う。
⸻
⸻
「でしょ?」
⸻
⸻
父親は看板を見たまま聞いた。
⸻
⸻
「REHARBOR……か」
⸻
⸻
「これはどういう意味なんだ?」
⸻
⸻
蒼は少し頭を掻いた。
⸻
⸻
改めて説明するのは、
少し気恥ずかしい。
⸻
⸻
「造語なんですけど」
⸻
⸻
「“再び”って意味の“RE”と、
“港”って意味の“HARBOR”を合わせてて」
⸻
⸻
父親は静かに聞いている。
⸻
⸻
蒼はもう一度、
看板を見る。
⸻
⸻
それから、
ゆっくり言葉を続けた。
⸻
⸻
「人生って、上手くいかない事あるじゃないですか」
⸻
⸻
「遠回りしたり」
⸻
⸻
「居場所無くしたり」
⸻
⸻
「一回全部駄目になった気がしたり」
⸻
⸻
澪は黙って蒼を見る。
⸻
⸻
蒼の横顔は、
少しだけ遠くを見ていた。
⸻
⸻
「でも」
⸻
⸻
「また帰って来れる場所があれば、
もう一回前向けるのかなって」
⸻
⸻
「そういう場所にしたくて」
⸻
⸻
静かな朝だった。
⸻
⸻
波の音だけが聞こえる。
⸻
⸻
父親は、
看板を見る。
⸻
⸻
二人を見る。
⸻
⸻
そしてもう一度、
看板へ視線を戻した。
⸻
⸻
少し笑う。
⸻
⸻
誇らしそうに。
⸻
⸻
「……うん」
⸻
⸻
「すごく良い名前だな」
⸻
⸻
その言葉を聞いて、
澪が少しだけ笑った。
⸻
⸻
嬉しかった。
⸻
⸻
自分が好きになった人。
⸻
⸻
その人が作ろうとしている場所。
⸻
⸻
その想いを、
父親がちゃんと理解してくれている。
⸻
⸻
それが、
嬉しかった。
⸻
⸻
父親は店の中へ入っていく。
⸻
⸻
「お、かなり変わったな」
⸻
⸻
店内には、
少しずつ家具も入っていた。
⸻
⸻
木のテーブル。
カウンター。
照明。
⸻
⸻
まだ完成じゃない。
⸻
⸻
でも、
ちゃんと“店”になり始めている。
⸻
⸻
「ここ絶対落ち着く店になるよ」
⸻
⸻
澪が言う。
⸻
⸻
父親も頷いた。
⸻
⸻
「店って結局、人が作るからな」
⸻
⸻
「オシャレなだけじゃ、長くは残らない」
⸻
⸻
「ここは多分、ちゃんと人が残る店になるよ」
⸻
⸻
蒼は少し黙った。
⸻
⸻
最近、
本当に思う。
⸻
⸻
自分は、
人に恵まれている。
⸻
⸻
父親が死んだ時。
離婚した時。
⸻
⸻
あの頃は、
もう何も無いと思っていた。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
人生って、
本当に分からない。
⸻
⸻
また誰かと笑える日が来るなんて、
思っていなかった。
⸻
⸻
昼過ぎ。
⸻
⸻
父親は仕事へ戻っていった。
⸻
⸻
店の中には、
蒼と澪だけが残る。
⸻
⸻
静かだった。
⸻
⸻
まだ営業前だから、
音楽も流れていない。
⸻
⸻
けれど、
不思議と落ち着く。
⸻
⸻
「コーヒー飲む?」
⸻
⸻
澪がエプロンを付けながら言った。
⸻
⸻
「まだ練習中だけど」
⸻
⸻
蒼は少し笑う。
⸻
⸻
「店主っぽいな」
⸻
⸻
「何それ」
⸻
⸻
澪が笑いながら豆を挽く。
⸻
⸻
ガリガリという音が、
静かな店内に響いた。
⸻
⸻
その音を聞きながら、
蒼はカウンターへ座る。
⸻
⸻
少し前まで、
人生を諦めかけていた自分が。
⸻
⸻
今は、
好きな人が淹れるコーヒーを、
自分達の店で待っている。
⸻
⸻
人生って、
本当に分からない。
⸻
⸻
澪が、
丁寧にお湯を注ぐ。
⸻
⸻
店の中に、
少しずつコーヒーの香りが広がっていく。
⸻
⸻
「はい」
⸻
⸻
カップが置かれる。
⸻
⸻
蒼は一口飲んだ。
⸻
⸻
少し熱い。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
「……うまい」
⸻
⸻
澪が少し前のめりになる。
⸻
⸻
「本当?」
⸻
⸻
「うん」
⸻
⸻
蒼はもう一口飲む。
⸻
⸻
それから静かに言った。
⸻
⸻
「なんか安心する味」
⸻
⸻
澪は少し照れくさそうに笑った。
⸻
⸻
窓の外では、
海が静かに揺れている。
⸻
⸻
まだ誰も知らない店。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
ここにはもう、
帰って来れる場所があった。
“REHARBOR”
その名前には、
二人のこれまでと、
これからが詰まっている。




