73話 「息吹」
何も無かった場所に、
少しずつ自分達の時間が増えていく。
三月。
⸻
⸻
朝の空気はまだ少し冷たい。
⸻
⸻
でも、
冬の匂いだけじゃなかった。
⸻
⸻
窓の外から入る風に、
少しだけ春が混ざっている。
⸻
⸻
「んー……」
⸻
⸻
澪が布団の中で丸くなる。
⸻
⸻
隣では、
蒼がもう起きていた。
⸻
⸻
キッチンから、
コーヒーを淹れる音が聞こえる。
⸻
⸻
「澪」
⸻
⸻
「そろそろ起きろー」
⸻
⸻
「はーい……」
⸻
⸻
そう返事をしながらも、
なかなか布団から出られない。
⸻
⸻
仕事を辞めて数日。
⸻
⸻
不思議な感覚だった。
⸻
⸻
朝なのに、
職場へ向かわなくていい。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
休みとも少し違う。
⸻
⸻
むしろ、
今までよりやる事は多かった。
⸻
⸻
「今日って何からだっけ?」
⸻
⸻
洗面所で顔を洗いながら澪が聞く。
⸻
⸻
「午前テナント」
⸻
⸻
「昼から買い出し」
⸻
⸻
「夕方またテナント戻る」
⸻
⸻
「おぉー……」
⸻
⸻
「普通に忙しいね」
⸻
⸻
蒼が笑う。
⸻
⸻
「休みの方が忙しい現象な」
⸻
⸻
二人で簡単に朝飯を食べる。
⸻
⸻
テレビでは朝のニュース。
⸻
⸻
どこかの桜開花予想が流れていた。
⸻
⸻
「もう春かぁ」
⸻
⸻
澪が呟く。
⸻
⸻
「早ぇな」
⸻
⸻
蒼も窓の外を見る。
⸻
⸻
本当に、
あっという間だった。
⸻
⸻
店をやりたい。
⸻
⸻
そう話した焼肉屋の夜から、
まだ数ヶ月しか経っていない。
⸻
⸻
なのに。
⸻
⸻
人生は、
もう動き始めていた。
⸻
⸻
海沿い。
⸻
⸻
テナント前。
⸻
⸻
工事車両が停まっている。
⸻
⸻
「おはようございますー」
⸻
⸻
蒼が頭を下げる。
⸻
⸻
中では職人達が作業していた。
⸻
⸻
木材を切る音。
工具の音。
塗料の匂い。
⸻
⸻
前来た時より、
かなり店っぽくなっていた。
⸻
⸻
「うわ……」
⸻
⸻
澪が小さく声を漏らす。
⸻
⸻
カウンターの形が出来ている。
照明も付いていた。
壁の色も変わっている。
⸻
⸻
「すご……」
⸻
⸻
「めっちゃ店じゃん」
⸻
⸻
蒼も少し笑った。
⸻
⸻
「な」
⸻
⸻
まだ途中。
⸻
⸻
それでも、
空きテナントだった頃とはもう違う。
⸻
⸻
職人の一人が近付いてくる。
⸻
⸻
「カウンター、
この高さで大丈夫ですか?」
⸻
⸻
「あ、はい」
⸻
⸻
蒼が真剣な顔で確認する。
⸻
⸻
澪は少し離れた場所から、
その姿を見ていた。
⸻
⸻
工場で働いていた時とも違う。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
何かを作っている時の蒼は、
やっぱり少し格好良かった。
⸻
⸻
「澪?」
⸻
⸻
「ん?」
⸻
⸻
「コンセント位置こっちでいい?」
⸻
⸻
「あ、うん!」
⸻
⸻
慌てて近寄る。
⸻
⸻
「ここにさ」
⸻
⸻
「コーヒーミルとか置くんだろ?」
⸻
⸻
「うん」
⸻
⸻
「じゃあこっちの方が使いやすいかも」
⸻
⸻
二人で図面を見る。
⸻
⸻
少し前まで、
こんな話をする未来なんて想像してなかった。
⸻
⸻
昼。
⸻
⸻
ホームセンター。
⸻
⸻
「広っ」
⸻
⸻
澪が辺りを見回す。
⸻
⸻
「何でもあるじゃん」
⸻
⸻
「まぁ何でもある店だからな」
⸻
⸻
カートを押しながら歩く。
⸻
⸻
棚。
収納。
照明。
工具。
観葉植物。
⸻
⸻
見る物全部が、
今は店に繋がっていた。
⸻
⸻
「これ可愛くない?」
⸻
⸻
澪がカップを持ち上げる。
⸻
⸻
白地に青のライン。
⸻
⸻
少しレトロなデザイン。
⸻
⸻
蒼が値札を見る。
⸻
⸻
「高っ」
⸻
⸻
「いやでも可愛いよ?」
⸻
⸻
「お前その理由だけで全部選んでない?」
⸻
⸻
「だって大事じゃん」
⸻
⸻
澪が笑う。
⸻
⸻
「お店の雰囲気って」
⸻
⸻
蒼もカップを見る。
⸻
⸻
「まぁ……」
⸻
⸻
「確かにこれはお前っぽい」
⸻
⸻
「え?」
⸻
⸻
「柔らかい感じ」
⸻
⸻
澪は少し照れたように笑った。
⸻
⸻
「なにそれ」
⸻
⸻
「分かんないけど」
⸻
⸻
「なんかそう思った」
⸻
⸻
観葉植物コーナー。
⸻
⸻
「これとか良くない?」
⸻
⸻
「お前絶対枯らすだろ」
⸻
⸻
「失礼だなぁ」
⸻
⸻
「前サボテン枯らしてたじゃん」
⸻
⸻
「……あれは事故」
⸻
⸻
「サボテンで事故起きる?」
⸻
⸻
二人で笑う。
⸻
⸻
買い物カゴは、
少しずつ埋まっていった。
⸻
⸻
細かい物ばかり。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
そういう小さい物達が、
店を作っていく。
⸻
⸻
夕方。
⸻
⸻
再びテナントへ戻る。
⸻
⸻
西日が差し込んでいた。
⸻
⸻
店の中に、
オレンジ色の光が広がる。
⸻
⸻
買ってきた物を置いていく。
⸻
⸻
カップ。
雑貨。
小物。
⸻
⸻
少しずつ。
⸻
⸻
本当に少しずつ。
⸻
⸻
この場所に、
色が付いていく。
⸻
⸻
澪は店の真ん中に立った。
⸻
⸻
まだ完成じゃない。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
ここはもう、
ただの空きテナントじゃなかった。
⸻
⸻
蒼も静かに店内を見る。
⸻
⸻
工場を辞めて。
澪も仕事を辞めて。
⸻
⸻
不安が無かった訳じゃない。
⸻
⸻
正直、
今でも少し怖い。
⸻
⸻
でも。
⸻
⸻
「……なんかさ」
⸻
⸻
蒼が呟く。
⸻
⸻
「やっと始まった感じするな」
⸻
⸻
澪は静かに頷いた。
⸻
⸻
店の外では、
波の音が聞こえていた。
夢だったはずなのに、
気付けば生活になり始めていた。




