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波待ち。  作者: 阿部兄弟
4章 愛と代償

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46話 「父親」

父として、親として、男として


最後に何を伝えればいいのか。



土曜日。


朝から雨だった。



空は重く濁り、フロントガラスを叩く雨粒が一定のリズムを刻んでいる。


蒼は運転席で煙草を咥えたまま、ずっと無言だった。



今日は、蓮と最後に会う日だった。



本当は一人で行くつもりだった。


だけど――。


「……澪、今日来てほしい」



珍しく弱さを隠さない声だった。


電話越しの沈黙のあと、澪は短く答えた。


「うん」



夕方。


早番を終えた澪が店から出てくる。


雨で少し湿った髪を耳に掛けながら、蒼の車を見つけた。



助手席に乗り込む。


「お疲れ」


「ん」



蒼は前を向いたまま、小さく頷いた。


いつもみたいな軽口はなかった。



澪は何も聞かない。


ただ、その横顔を見ていた。



ワイパーだけが静かに動く。


車内には、湿った雨の匂いと微かなコーヒーの香りが混ざっていた。



立体駐車場へ向かう道中。


蒼はほとんど喋らなかった。



赤信号で止まる。


ハンドルを握る手に、少しだけ力が入っている。



澪は気付いていた。


蒼が今、どれだけ無理して平静を保っているのか。



立体駐車場へ到着する。


コンクリートに雨音が反響していた。



蒼はエンジンを切ると、ゆっくり息を吐いた。


「……澪」


「ん?」


「悪いけど、車で待っててくれるか」



澪は少しだけ間を置く。


「うん」



それ以上、何も聞かなかった。


聞かない優しさを、澪は知っていた。



蒼はドアを開ける。


冷たい雨の空気が車内に流れ込んだ。



遠くから、小さな声が聞こえる。


「あ、パパ!どうしたの?」



久しぶりに聞く声だった。


車から降りてきた蓮は、何も知らない顔で笑っている。



蒼は、その笑顔を見るだけで胸が締め付けられた。


「久しぶりだな、蓮」



「遠いお仕事まだやってるの?

早くパパと住みたいよ」



その言葉に、蒼の喉が止まる。


覚悟してきたはずだった。


何度も頭の中で練習した。

何度も、自分に言い聞かせた。


だけど――。


「あのな、蓮」


「なに?」


「蓮に謝らなきゃない事あるんだ」


「なに?」



蒼は唇を噛み、視線を落とした。


「俺、ずっと蓮に嘘ついてた」


「嘘?どんな嘘?」



一度息を吸う。


それだけで胸が痛かった。


「俺は……蓮のパパじゃないんだ」



蓮の表情が止まる。


「え……どういうこと?」


「本当の蓮のパパは、最近ママと仲良くしてる人居るだろ?

その人なんだ」



蒼は笑おうとした。


だけど、うまく笑えなかった。


「だから俺は、ただの嘘つきなおじさんなんだ」


「いやだ!そんな事ない!」



蓮の声が震える。


蒼は首を横に振った。


「そんな事あるんだよ。

蓮のパパは、よく家に来るだろ?」



「俺は?

全然会ってないだろ?」



蓮は何も言えない。


まだ幼い頭で、必死に理解しようとしていた。


「だから違うんだ。

これはママも知ってる事なんだよ」


「……そーなの?」


「そう」



沈黙が落ちる。


風の音だけが、静かに耳を抜けていった。


「……んじゃあ、おじさんとはもう会えないの?」



その言葉で、蒼の中に押し込めていた感情が一気に込み上げた。


喉が熱くなる。


視界が滲む。


それでも蒼は、笑った。


「……あぁ、会えない」



蓮が俯く。


蒼はしゃがみ込み、目線を合わせた。


「でもな。

おじさんは、どんな時でも蓮の味方だ」



涙を堪えながら続ける。


「どんな時でも、蓮の事を思ってる。

それだけは分かってくれるか?」


「……うん」



後ろで見守っていた義母が、堪えきれず涙を流していた。


蒼はもう一度、蓮の顔を見る。


焼き付けるように。


「あと、おじさんと約束してほしい事、一個だけある」


「なに?」



「ママを……大事にしてやれよ」



蓮が顔を上げる。


「蓮は男の子だから、女の人を守らなきゃないんだ。

ママにとってのヒーローになるんだ」



蒼は涙を隠すように笑った。


「なれるか?

ヒーローに」


「なれるよ!!

ママのこと守る!」



「よし!!良い子だ!!」



蒼は蓮の頭を強く撫でた。


震える手で。


「……んじゃあな、蓮」


「おじさん元気でね」



蓮は少し笑った。


「僕、おじさんが嘘つきだった事、怒ってないから安心してね」



その瞬間。


蒼の中で、何かが崩れた。


「……っ」


「おじさんも良い子」



小さな手が、蒼の頭を撫でる。


蒼は顔を伏せた。


「大丈夫?」



声が震える。


「おじさん、ちょっとだけお腹痛くなってきた……。

あと夜ご飯の時間だから、早く行きな」


「うん!分かった!」


「バイバイ!」


「……バイバイ」



蓮が車に乗り込む。


義母は深く一礼し、そのまま車を発進させた。


離れていく。


もう戻れない距離へ。



蒼は叫んだ。


「蓮!!!!!!」



車が少し遠ざかる。


「頑張れよ!!!!

元気でな!!!!!!!!

強くなるんだぞ!!!!!」



後部座席の窓から、蓮が無邪気に手を振っている。


その姿を見た瞬間。


蒼の脳裏に、全部が蘇った。



産まれてきた日のこと。


小さな産声。


夜泣き。


ミルクの匂い。



離婚後、一緒に公園へ行ったこと。


一緒にご飯を食べたこと。


一緒に風呂に入ったこと。


狭い布団で、並んで眠った夜。



全部。


全部、本物だった。



蒼はその場に膝をついた。


覚悟はしていた。


だけど――無理だった。



後ろから、そっと抱きしめられる。


見なくても分かった。


澪の匂いだった。



ハンカチが差し出される。


「蒼、立派なお父さんだよ」



蒼は何も言えない。


「蓮くんはきっと、蒼に似て強くて優しい人になるよ」


「……ありがとう」



「落ち着くまでこうしてる?」


「澪」


「なに?」


「……ちょっと重い」



「はぁー……。

ほんっと人の善意をなんだと思ってんの?」


「わりぃ、わりぃ」



2人で笑う。


泣きながら。



夕暮れの海風が、静かに吹いていた。


2人の目には、確かに光るものがあった。

覚悟はしていた。

頭の中では何回も出来た。


でも無理だった。


1人だったら。

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