30話 「余痕」
なくなったものは、
戻らない。
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でも、
そこにあった時間までは、
消えない。
部屋は、
静かだった。
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テレビも、
泣き声も、
何もない。
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ただ、
空気だけがある。
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「……」
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ソファに座ったまま、
動かない。
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「お兄ちゃん」
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楓の声。
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振り向く。
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「……なんだよ」
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「また2人になったね」
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少しだけ、
笑っている。
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無理してるのは、
すぐ分かる。
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「……だな」
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短く返す。
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「ほら」
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楓が軽く肩を叩く。
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「元気出せって」
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「死んだ魚みたいな目してるよ」
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「……してねぇよ」
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少しだけ、
間。
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「……ありがとな」
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ぽつりと漏れる。
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「いいって」
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「家族でしょ」
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笑う。
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でも、
その目は少しだけ揺れていた。
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蒼は何も言えない。
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応えなきゃいけないのは、
分かっている。
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でも。
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浮かぶのは、
あの小さな顔。
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蓮。
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言葉が、
出てこない。
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数日後。
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玄関。
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「……本当にすみませんでした」
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沙耶香の両親が、
頭を下げる。
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「……」
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蒼は何も言わない。
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「また……会う話は」
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「こちらから連絡させていただきますので」
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その言葉が、
妙に遠く感じる。
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「……お願いします」
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それだけ、
やっと返す。
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ドアが閉まる。
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静かになる。
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駐車場。
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一台の車。
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後部座席には、
チャイルドシート。
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それを外す。
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ゆっくりと持ち上げる。
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軽い。
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車の外へ運ぶ。
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トランクの横を抜けようとしたとき——
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ガリッ
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鈍い音が鳴る。
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角が、
トランクドアに当たっていた。
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一瞬、
手が止まる。
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何も言わない。
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そのまま、
運ぶ。
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チャイルドシートは、
向こうの車へと移される。
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カチ、と音がする。
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固定される。
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蒼の車の後部座席は、
空になった。
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外側。
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トランクドアに、
細い線が残っている。
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それは、
そのままそこに残る。
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消えることはない。
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ただ、
そんなのはどうでもよかった。
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現在
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コーヒーショップにて
車が走り出す。
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「砂糖いる?」
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「いらない」
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コーヒーを受け取る。
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「にが」
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澪が少し顔をしかめて、
すぐに笑う。
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「まぁいっか」
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車は、
静かに流れていく。
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「ねぇ」
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「ん?」
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「過去ってさ、無かったことには、出来ないよね」
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「……」
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蒼は何も言わない。
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「でもさ」
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「人って生きてるから」
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「進むしかないっていうか」
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「……そんな感じだよね」
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「……なんだお前、急に」
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「はぁ!?何その言い方!!」
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「いや、いきなり哲学的な事言い出すからさ」
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「別にいいじゃん!」
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「うるせぇな」
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少しだけ、
間。
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ふっと、
笑いが漏れる。
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澪も、
つられて笑う。
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信号待ち。
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ブルーグレーの車体
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トランクドア
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そこには、
二つの傷が並んでいた。
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新しいものと、
古いもの。
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どちらも、
消えない。
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けれど、
その意味は——
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まったく違っていた。
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信号が変わる。
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車は、
また前に進む。
埋まらないまま、
進んでいく。
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それでも、
止まることはできない。




