29話 「時化」
荒れるときは、
一気に来る。
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止めようとしても、
もう遅い。
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これは、
全部が崩れる日の話。
夕方。
リビングには、
静かな時間が流れていた。
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テレビの音。
蓮の小さな寝息。
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楓がソファに座っている。
沙耶香はキッチン。
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蒼は、
その二人を見ていた。
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「楓」
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「ん?」
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「悪いけど、ちょっと買い物行ってきてくれねぇ?」
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「え?今?」
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「すぐ終わるやつでいいから」
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楓は一瞬だけ、
蒼の目を見る。
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「……分かった」
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立ち上がる。
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——バタン
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ドアが閉まる。
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静かになる。
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「……で」
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蒼が口を開く。
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「大事な話あるんだけど、大体分かってるよな?」
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沙耶香は振り向かない。
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「知らないふりか?」
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空気が変わる。
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「……何のことか分かんないんだけど」
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「そうか」
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蒼は一歩だけ近づく。
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「じゃあ聞くけどさ」
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「なんで最近、スマホ隠すんだよ」
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「別に隠してないけど」
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「視線も合わないし」
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「気のせいじゃない?」
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「色々、変わった」
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一つずつ、
静かに詰めていく。
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「……」
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沙耶香の手が止まる。
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「……何が言いたいの」
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「言わせんなよ」
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沈黙。
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「……違う」
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小さく漏れる。
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「……違わねぇだろ」
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その一言で、
何かが崩れる。
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「……ごめん」
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「……認めんのか」
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「……うん」
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空気が、
変わる。
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「……なんでだよ」
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「寂しかった...」
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「は?」
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「蒼、全然変わんないじゃん!」
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「クールで、ぶっきらぼうで」
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「優しいのは分かるけど」
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「それってさ、分かる人にしか分かんない優しさじゃん!」
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涙が落ちる。
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「もっとちゃんと出してほしかった」
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「新婚なのに、全然キラキラしてなかった」
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「周りの友達はさ」
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「ちゃんと“好き”って言われてて」
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「ちゃんと見られてて」
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「私だけ、置いてかれてる気がした」
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「それに……」
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「楓との方が距離も近いじゃん」
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「兄妹なのは分かってるんだけどさ…」
——プツン
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「……ふざけんなよ」
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声が落ちる。
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「お前のそのくだらないエゴに」
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「周りを巻き込むなよ!!」
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「ふざけんなよ!!」
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初めて、
声を荒げた。
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「寂しい?」
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「キラキラしてない?」
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「だからって浮気していい理由になるかよ」
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呼吸が荒れる。
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「楓まで巻き込んで」
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「何やってんだよお前……!」
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——でも。
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その言葉が、
自分に返ってくる。
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蓮が生まれた日。
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守ると決めた瞬間。
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そこから、
やっと頑張ろうとした自分。
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全部、
遅い。
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いつかこうなると、分かっていた。
見ないふりをしていただけ。
「……は」
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力が抜ける。
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「……俺か」
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「……全部、俺が原因か」
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怒りが、
冷めていく。
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「……でも」
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顔を上げる。
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「蓮は関係ねぇだろ」
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「どーすんだよ」
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沈黙。
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「……離婚しよ」
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あまりにも、
あっさりと。
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蒼は何も言わない。
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ただ、
横目で見る。
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数日後。
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部屋は少しずつ、
片付いていく。
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電話が鳴る。
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——沙耶香の母
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「……はい」
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「蒼君、本当にごめんなさいね」
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「今回のことは、うちの娘が全部悪い」
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「それは分かってるの」
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「蒼君が悪くないのも、分かってる」
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「……でもね」
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空気が変わる。
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「親権のことなんだけど」
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「やっぱり母親の方が強いのよ」
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「それに蒼くん……」
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「中卒だし」
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「ご両親も……ほら」
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言葉を濁す。
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「裁判になったら、厳しいと思うの」
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「蓮くんのためにもね」
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通話が切れる。
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何もかも、
持っていかれる気がした。
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まるで、
全部さらわれるみたいに。
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時化みたいに。
守るつもりだった。
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全部、
守れると思っていた。
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——でも、
何も残らなかった。




