26話 「産声」
守ると決めたものが、
そこにあった。
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それだけで、
十分なはずだった。
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気づかないまま、
すれ違っていくものがあっても。
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あの頃。
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蒼は、
ちゃんとやろうとしていた。
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帰る時間を早くして、
家のこともやって。
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当たり前のことを、
ちゃんと積み重ねる。
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「おかえり」
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「ただいま」
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それだけの会話でも、
少しずつ、
戻っていく気がしていた。
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でも。
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沙耶香は、
それに気づいていた。
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だからこそ、
苦しくなっていた。
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終わらせなきゃいけない。
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そう分かっているのに、
終わらせられない自分に。
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その空気を、
楓は感じていた。
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言葉にしなくても、
分かってしまう。
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「……」
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スマホを握る。
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——プルルル
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「もしもし?」
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「どうした楓」
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「……あのさ」
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言いかけて、
止まる。
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「いま大掃除してるからあとでいいか?赤ちゃんって埃とか食べるってなんかで見たからさw」
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その一言で、
全部飲み込んだ。
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「……ううん!やっぱなんでもない!ちゃんとお父さんやってんじゃん!」
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「うるせぇなw」
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電話を切る。
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言えなかった。
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いつもより少しだけ、
明るい声
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あんな声した兄に、言えるわけない。
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「サーフィン疲れるよね」
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現在。
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「お腹空いたー」
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「ラーメン屋!そこ!入って!」
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澪の声に、
蒼は小さくハンドルを切る。
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店内。
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油とスープの匂い。
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「うわ、最高」
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澪が嬉しそうに笑う。
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「何にする?」
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「チャーシュー多いやつ」
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「太るぞ」
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「サーフィンしてるから大丈夫ですー」
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軽く笑う。
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ラーメンが運ばれてくる。
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「いただきます!」
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勢いよく箸をつける。
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「うまっ」
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「声でかい」
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「だって美味しいんだもん」
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蒼も一口。
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「……うまいな」
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しばらく、
無言で食べる。
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スープをすする音だけが、
静かに流れる。
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「ねぇ」
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「ん?」
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「さっきさ」
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「波待ち」
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少し笑う。
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「なんか、あってるでしょ」
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蒼は答えない。
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ただ、
箸を止める。
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「まぁでも」
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澪が続ける。
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「待つのも大事だけどね」
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「波見極める時間っていうか」
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「ずっと待つのは、違うけど」
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その言葉に、
ほんの少しだけ、
視線が動く。
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食べ終わる。
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店を出る。
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蒼は、
外でタバコに火をつける。
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煙が、
ゆっくりと流れる。
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「おいしかったね」
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「腹いっぱいだな」
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プップー
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軽トラが止まる。
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「おい蒼!!」
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「……すだけい?」
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「と……いっちゃん!?」
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「なんだこの組み合わせ!!」
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「何してんだよ!」
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「みりゃわかんだろ飯食ってたんだよ」
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「相変わらずだねーすだけいはw」
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「いっちゃんもな!蒼は〜相変わらず無愛想だなww」
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「ね?でしょでしょーw」
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「んで?なんで2人が一緒に?まさかお付き合い!??」
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「ちがうちがう!たまたま海で会ってサーフィン教えてもらってんの!」
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「いっちゃんがサーフィンかぁ〜俺の方が上手いけど俺に教わる??」
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「お前何回俺の前で死にかけてんだよ」
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「離岸流ハマったとき泣きそうになってたじゃねぇかw」
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「まぁまぁ君たちは海で遊んでなさい。僕は海が職場だからな」
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「魚欲しかったら言えや!」
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軽トラが走り出す。
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「蒼!!いっちゃん泣かせんなよぉ!!」
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「誰が泣くか!!」
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車に戻る。
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「いっちゃんってww」
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「なにー?小学生の頃からだよw」
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「蒼も呼んでいいよ」
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「いや遠慮しとくわ」
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「泣かせんなよだって〜」
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「なんで泣くんだよ」
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「蒼は?」
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「泣かせたりするタイプだった?」
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急に、
トーンが落ちる。
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「んなわけねーだろ」
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少しだけ間。
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「……いや、そんな感じかもな」
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着信。
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「沙耶香?」
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「破水した」
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「……え?」
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「産まれるかも」
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「すぐ行く」
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「行ってこい!!」
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工場長の声。
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車を走らせる。
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心臓がうるさい。
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不安と、
期待と、
焦りと。
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全部が混ざる。
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病院。
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——おぎゃああ!!
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産声。
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「元気な男の子です!」
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呼ばれる。
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部屋に入る。
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沙耶香の隣。
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小さな命。
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「……ありがとう」
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抱く。
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軽い。
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でも、
確かにそこにいる。
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「蓮」
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「え?」
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「この子、蓮でもいいか?」
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沙耶香が微笑む。
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「いい名前」
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「この子にぴったり」
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その光景を、
見つめる。
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守らなきゃいけない。
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俺の子。
生まれた瞬間から、
守る理由はできる。
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でも。
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守れるかどうかは、
また別の話だ。
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——全部、守れると思っていた。




