23話 「流転」
特別なことなんて、
なかったと思う。
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ただ、
気がつけば隣にいて。
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それが、
当たり前になっていっただけ。
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そんな時間が、
一番静かで、
一番壊れやすい。
それから、
沙耶香と顔を合わせる回数は自然と増えていった。
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楓の練習を見に行くたびに、
言葉を交わすようになって。
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気づけば、
帰りに少し立ち話をするのが当たり前になっていた。
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「お兄さん今日の楓、どうでした?」
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「いつも通りっすね」
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「いやいや、あれで“いつも通り”は普通にすごいですってw」
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そんなやり取りを、
何度も繰り返していた。
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楓も、すぐに懐いた。
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「沙耶香さんさ、めっちゃ教え方うまいんだよ」
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家で、嬉しそうに話す。
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「へぇ」
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「あと普通に面白い」
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「それは分かる」
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少しだけ笑う。
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ある日。
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仕事から帰ると、
台所に明かりがついていた。
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「……ただいま」
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扉を開ける。
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「おかえりー」
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楓の声。
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その奥から、
もう一つ。
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「お邪魔してます」
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振り向くと、
エプロン姿の沙耶香がいた。
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「勝手に上がっちゃいました」
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少しだけ申し訳なさそうに笑う。
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「楓が“ご飯作ろう”ってうるさくて」
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「いや、俺いないのに来るなよ」
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「いいじゃん別に〜」
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楓が笑う。
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テーブルの上には、
ちゃんとした夕飯が並んでいた。
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「食べていいですか」
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「どうぞ」
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席に座る。
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「いただきます」
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一口。
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「……うま」
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思わず漏れる。
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「でしょ?」
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楓が得意げに言う。
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「いやお前作ってねぇだろ」
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「半分は私です〜」
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沙耶香が笑う。
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その空気が、
妙にしっくりきた。
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父親に会わせたときも、
同じだった。
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「しっかりしてる子だな」
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そう言って、
珍しく機嫌が良かった。
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逆に、
沙耶香の両親に会ったときは。
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「蒼くん、いい子ね」
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やたらと褒められて、
少しだけ居心地が悪かった。
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それでも、
嫌じゃなかった。
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それからも、
そんな時間が増えていった。
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三人でご飯を食べたり。
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楓抜きで話したり。
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特別なことは、
何もなかった。
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ただ、
自然と距離が近づいていっただけ。
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ある帰り道。
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「なんかさ」
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沙耶香が歩きながら言う。
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「こういうの、いいよね」
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「こういうのって?」
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「普通のやつ」
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少しだけ笑う。
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「特別じゃないけど、ちゃんと続いてる感じ」
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蒼は少しだけ考える。
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「まぁ、悪くはないな」
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「なにそれ?w」
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「褒めてんだよ」
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二人で少し笑う。
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そのまま、少しだけ沈黙。
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「蒼君ってさ」
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「ん?」
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「優しいよね」
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「は?」
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「いや、なんとなく」
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「そんなことねぇよ」
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「ううん、優しい」
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断言するみたいに言う。
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その言い方に、
少しだけ引っかかる。
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でも。
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嫌じゃなかった。
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それから。
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付き合うことになったのも、
特別なきっかけがあったわけじゃない。
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気づけば、
そうなっていた。
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そして。
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結婚も、
同じだった。
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流れるように、
自然に。
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それが、
当たり前みたいに。
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蒼は、
海の方を見ていた。
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少しだけ、
遠くを見る目。
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その表情は、
ひどく静かで。
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ひどく、
哀しかった。
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「ちょ!鍵開けて!車の!」
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横から声が飛ぶ。
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振り向く。
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澪が、
ボードとウェットスーツの入ったカゴを抱えて、
トランクを引っ張っている。
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ガチャガチャと、
無理やり開けようとしている。
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もちろん、
開くはずもない。
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蒼は、
一瞬きょとんとした顔をする。
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(……何やってんだあいつ)
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その瞬間。
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ギギッ
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嫌な音。
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澪の持っているサーフボードが、
車体に擦れている。
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「おい!バカ!やめろ!!」
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思わず声が出る。
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「だって!早く開けてよ!」
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「傷ついたらどうすんだよ!!」
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「え〜!蒼が開けないからでしょ!」
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言い合いになる。
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その様子を、
少し離れたところで見ていた小学生。
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ぽつりと一言。
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「あーあ!おばさん悪いんだー!!
お兄ちゃん可哀想〜〜!!」
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一瞬、
空気が止まる。
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「……は?」
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澪が固まる。
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「おばさぁん!?今おばさんって言ったぁ!?」
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小学生が慌てる。
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「ごめんなさぁぁい!!」
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自転車で逃げていく。
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澪はその背中を睨む。
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「ちょっとぉぉ!!」
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蒼はそれを見て、
ふっと息を吐く。
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「……ほら」
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振り向くと、
トランクが開いている。
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「……あ」
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澪が我に返る。
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「あーごめんごめん、ありがと」
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荷物を積む。
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さっきまでの騒がしさが、
少し落ち着く。
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「車大丈夫だった?ごめんね。」
「あぁ、大丈夫」
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蒼は、
ふと視線を落とす。
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車体。
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うっすらとついた、
細い傷。
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「……」
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何も言わない。
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でも。
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そのすぐ脇に、
もうひとつ。
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少し古い、擦れた傷跡。
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——ガチャ
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ドアを開ける音。
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小さな手。
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抱き上げた時の重さ。
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泣き声
一瞬だけ、
呼吸が止まる。
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「……蓮」
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小さく、呟く。
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すぐに、
何もなかったように視線を戻す。
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澪は気づかない。
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いつも通りの顔で、
助手席に乗り込む。
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「さ、行こっかコーチ」
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明るい声。
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蒼は一瞬だけ、
その顔を見る。
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そして、
エンジンをかける。
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車が走り出す。
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賑やかな空気。
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でも。
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さっきまでの“何か”は、
まだ、そこにあった。
当たり前だったものは、
気づいたときには、
もう当たり前じゃなくなっている。
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残るのは、
ほんの少しの違和感と、
消えない記憶だけ。
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それが何なのか、
まだ誰も分かっていない。




