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波待ち。  作者: 阿部兄弟
2章 波紋と余温

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23/84

23話 「流転」


特別なことなんて、


なかったと思う。


⸻


ただ、


気がつけば隣にいて。


⸻


それが、


当たり前になっていっただけ。


⸻


そんな時間が、


一番静かで、


一番壊れやすい。


それから、


沙耶香と顔を合わせる回数は自然と増えていった。


⸻


楓の練習を見に行くたびに、


言葉を交わすようになって。


⸻


気づけば、


帰りに少し立ち話をするのが当たり前になっていた。


⸻


「お兄さん今日の楓、どうでした?」


⸻


「いつも通りっすね」


⸻


「いやいや、あれで“いつも通り”は普通にすごいですってw」


⸻


そんなやり取りを、


何度も繰り返していた。


⸻


⸻


楓も、すぐに懐いた。


⸻


「沙耶香さんさ、めっちゃ教え方うまいんだよ」


⸻


家で、嬉しそうに話す。


⸻


「へぇ」


⸻


「あと普通に面白い」


⸻


「それは分かる」


⸻


少しだけ笑う。


⸻


⸻


ある日。


⸻


仕事から帰ると、


台所に明かりがついていた。


⸻


⸻


「……ただいま」


⸻


扉を開ける。


⸻


⸻


「おかえりー」


⸻


楓の声。


⸻


⸻


その奥から、


もう一つ。


⸻


⸻


「お邪魔してます」


⸻


⸻


振り向くと、


エプロン姿の沙耶香がいた。


⸻


⸻


「勝手に上がっちゃいました」


⸻


少しだけ申し訳なさそうに笑う。


⸻


⸻


「楓が“ご飯作ろう”ってうるさくて」


⸻


⸻


「いや、俺いないのに来るなよ」


⸻


⸻


「いいじゃん別に〜」


⸻


楓が笑う。


⸻


⸻


テーブルの上には、


ちゃんとした夕飯が並んでいた。


⸻


⸻


「食べていいですか」


⸻


「どうぞ」


⸻


⸻


席に座る。


⸻


⸻


「いただきます」


⸻


⸻


一口。


⸻


⸻


「……うま」


⸻


⸻


思わず漏れる。


⸻


⸻


「でしょ?」


⸻


楓が得意げに言う。


⸻


⸻


「いやお前作ってねぇだろ」


⸻


⸻


「半分は私です〜」


⸻


⸻


沙耶香が笑う。


⸻


⸻


その空気が、


妙にしっくりきた。


⸻


⸻


⸻


父親に会わせたときも、


同じだった。


⸻


⸻


「しっかりしてる子だな」


⸻


そう言って、


珍しく機嫌が良かった。


⸻


⸻


逆に、


沙耶香の両親に会ったときは。


⸻


⸻


「蒼くん、いい子ね」


⸻


⸻


やたらと褒められて、


少しだけ居心地が悪かった。


⸻


⸻


それでも、


嫌じゃなかった。


⸻


⸻


⸻


それからも、


そんな時間が増えていった。


⸻


⸻


三人でご飯を食べたり。


⸻


楓抜きで話したり。


⸻


⸻


特別なことは、


何もなかった。


⸻


⸻


ただ、


自然と距離が近づいていっただけ。


⸻


⸻


ある帰り道。


⸻


⸻


「なんかさ」


⸻


沙耶香が歩きながら言う。


⸻


⸻


「こういうの、いいよね」


⸻


⸻


「こういうのって?」


⸻


⸻


「普通のやつ」


⸻


⸻


少しだけ笑う。


⸻


⸻


「特別じゃないけど、ちゃんと続いてる感じ」


⸻


⸻


蒼は少しだけ考える。


⸻


⸻


「まぁ、悪くはないな」


⸻


⸻


「なにそれ?w」


⸻


⸻


「褒めてんだよ」


⸻


⸻


二人で少し笑う。


⸻


⸻


そのまま、少しだけ沈黙。


⸻


⸻


「蒼君ってさ」


⸻


⸻


「ん?」


⸻


⸻


「優しいよね」


⸻


⸻


「は?」


⸻


⸻


「いや、なんとなく」


⸻


⸻


「そんなことねぇよ」


⸻


⸻


「ううん、優しい」


⸻


⸻


断言するみたいに言う。


⸻


⸻


その言い方に、


少しだけ引っかかる。


⸻


⸻


でも。


⸻


⸻


嫌じゃなかった。


⸻


⸻


⸻


それから。


⸻


⸻


付き合うことになったのも、


特別なきっかけがあったわけじゃない。


⸻


⸻


気づけば、


そうなっていた。


⸻


⸻


そして。


⸻


⸻


結婚も、


同じだった。


⸻


⸻


流れるように、


自然に。


⸻


それが、


当たり前みたいに。


_____


_____


_____


_____



蒼は、


海の方を見ていた。


⸻


⸻


少しだけ、


遠くを見る目。


⸻


⸻


その表情は、


ひどく静かで。


⸻


⸻


ひどく、


哀しかった。


⸻


⸻


「ちょ!鍵開けて!車の!」


⸻


⸻


横から声が飛ぶ。


⸻


⸻


振り向く。


⸻


⸻


澪が、


ボードとウェットスーツの入ったカゴを抱えて、


トランクを引っ張っている。


⸻


⸻


ガチャガチャと、


無理やり開けようとしている。


⸻


⸻


もちろん、


開くはずもない。


⸻


⸻


蒼は、


一瞬きょとんとした顔をする。


⸻


⸻


(……何やってんだあいつ)


⸻


⸻


その瞬間。


⸻


⸻


ギギッ


⸻


⸻


嫌な音。


⸻


⸻


澪の持っているサーフボードが、


車体に擦れている。


⸻


⸻


「おい!バカ!やめろ!!」


⸻


⸻


思わず声が出る。


⸻


⸻


「だって!早く開けてよ!」


⸻


⸻


「傷ついたらどうすんだよ!!」


⸻


⸻


「え〜!蒼が開けないからでしょ!」


⸻


⸻


言い合いになる。


⸻


⸻


その様子を、


少し離れたところで見ていた小学生。


⸻


⸻


ぽつりと一言。


⸻


⸻


「あーあ!おばさん悪いんだー!!


お兄ちゃん可哀想〜〜!!」


⸻


⸻


一瞬、


空気が止まる。


⸻


⸻


「……は?」


⸻


⸻


澪が固まる。


⸻


⸻


「おばさぁん!?今おばさんって言ったぁ!?」


⸻


⸻


小学生が慌てる。


⸻


⸻


「ごめんなさぁぁい!!」


⸻


⸻


自転車で逃げていく。


⸻


⸻


澪はその背中を睨む。


⸻


⸻


「ちょっとぉぉ!!」


⸻


⸻


蒼はそれを見て、


ふっと息を吐く。


⸻


⸻


「……ほら」


⸻


⸻


振り向くと、


トランクが開いている。


⸻


⸻


「……あ」


⸻


⸻


澪が我に返る。


⸻


⸻


「あーごめんごめん、ありがと」


⸻


⸻


荷物を積む。


⸻


⸻


さっきまでの騒がしさが、


少し落ち着く。


⸻



「車大丈夫だった?ごめんね。」





「あぁ、大丈夫」



⸻





蒼は、


ふと視線を落とす。


⸻


⸻


車体。


⸻


⸻


うっすらとついた、


細い傷。


⸻


⸻


「……」


⸻


⸻


何も言わない。


⸻


⸻


でも。


⸻




そのすぐ脇に、


もうひとつ。


⸻


少し古い、擦れた傷跡。


⸻


⸻


——ガチャ


⸻


ドアを開ける音。


⸻


小さな手。


⸻


抱き上げた時の重さ。


⸻



泣き声




一瞬だけ、


呼吸が止まる。


⸻


⸻


「……蓮」


⸻


⸻


小さく、呟く。


⸻


⸻


すぐに、


何もなかったように視線を戻す。


⸻


⸻


澪は気づかない。


⸻


⸻


いつも通りの顔で、


助手席に乗り込む。


⸻


⸻


「さ、行こっかコーチ」


⸻


⸻


明るい声。


⸻


⸻


蒼は一瞬だけ、


その顔を見る。


⸻


⸻


そして、


エンジンをかける。


⸻


⸻


車が走り出す。


⸻


⸻


賑やかな空気。


⸻


⸻


でも。


⸻


⸻


さっきまでの“何か”は、


まだ、そこにあった。



当たり前だったものは、


気づいたときには、


もう当たり前じゃなくなっている。


⸻


残るのは、


ほんの少しの違和感と、


消えない記憶だけ。


⸻


それが何なのか、


まだ誰も分かっていない。

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