第89話 高校時代の日野くん
「綾辻、頼み事がある。聞いてくれるか?」
放課後、部活が終わったところで、私は顧問の先生に呼び止められた。
顧問は珍しく真面目な顔をしている。
「なんですか?」
「実はな。ウチの一年に、中学の全国大会の出場者がいるって分かってな」
ウチの学校は府内では五本の指に入るほどの強豪だ。
全国から有望な中学生をスポーツ推薦で集めている。
だから全国大会クラスの選手自体は珍しくないけど、普通科にいるのは少し引っかかった。
つまり、中学で剣道を辞めたってことになる。
「へぇ……珍しいですね。そこまで強いのに、剣道辞めちゃったんですね?怪我ですか?」
顧問は首を振った。
あまり説明してくれなかったが、どうやら事情は複雑らしい。
「で、私に勧誘してこいと?」
顧問は当然のようにうなづいた。
顧問には交渉ごとを全部私に任せようとする悪い癖がある。
本来は顧問の仕事のはずの練習場所の調整まで、なぜか私の担当だ。
自分でも調整が得意なのは自覚しているけど……。
「1-Bの日野くんって子だから、頼むよ」
1-Bには同じ剣道部の竹本さんがいたはずだ。
見知らぬ上級生が行くより、同級生から誘ったほうがいいんじゃないだろうか。
「竹本さんに勧誘してもらったらどうですか?」
「いや、この情報は竹本が教えてくれたんだけど……恥ずかしくて声がかけられないらしいんだよ」
竹本さんは一年生で練習熱心な女の子だ。
明るくて礼儀正しい。
彼女、そんなに内気じゃないと思うけど……。
理由を聞こうとしたが、顧問はどこかに逃げていってしまった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「1-B……この教室ね」
翌日の昼休み、私は1-Bの教室を覗いた。
日野くんの席は、事前に竹本さんから聞いていた。
近づいて、まずは世間話から入って警戒心を解く。
初対面の日野くんの感想は『変わった子だなぁ』という感じだった。
目が合っているようで合わない。
会話が成立しているようで、どこか噛み合わない。
彼は笑顔を作ってはいるが、根本的に他人に心を開いていないように感じた。
剣道をやめたのも、そのへんに原因があるのだろう。
勧誘してみたが、予想より手応えが薄かった。
初めて話した時に長期戦になることを確信した。
竹本さんとしっかり打ち合わせをして方針を決めてから、何度もチャレンジした。
それから私は、会うたびに短く声をかけ続けた。
放課後の廊下、昇降口、図書室の前。
そして手が空いた昼休みには、一年生の教室に通った。
「綾辻先輩、また来たんですか」
竹本さんの話だと、彼は基本的に人の顔を覚えられないらしい。
だけど、十回くらい顔を出す頃には、名乗る前から名前を呼んでくれるようになった。
自分でもしつこいと思う。
意地になって、何度も足を運んだ。
竹本さんからお願いされたのもある。
どうも竹本さんは日野くんのことが好きらしい。
……彼、イケメンだからね。
何回行っただろうか。
もう自分でも覚えていない。
半月ほど通ってようやく前向きな返事をもらえた。
「まぁ、見学に行くだけならいいですよ」
私はその勢いのまま、今日の放課後の練習に誘った。
返事を引き延ばされたら、また振り出しに戻る気がしたからだ。
そして、彼はうなづいてくれた。
「やった! じゃあ、五限終わったら迎えに来るからね!」
「いや、わざわざ来なくても逃げませんって……」
その返事を聞いた瞬間、私は心の中で勝利を確信した。
見学の時に、なんだかんだ理由をつけて竹刀を握らせればこっちのものだ。
剣士という生き物は、『勝負』の魅力から逃れられないのだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇
昼休み中にその足で職員室に報告に行くと、顧問は分かりやすく嬉しそうにしていた。
私の作戦は採用され、とりあえず実戦形式で勝負してもらうことになった。
顧問が嬉々として掃除していた予備の防具をつけてもらい、竹刀を握ってもらった。
私は武道場の壁に寄りかかりながら竹本さんと話をしていた。
話題は『見学』という建前で連れてきた日野くんの活躍だ。
一合目から、空気が違った。
踏み込みの音と、間合いの詰め方が、明らかに一年生のものじゃない。
「えぇ……ちょっと強すぎない?」
目の前では、三年生の先輩が日野くんに一方的にやられていた。
この先輩は決して弱い選手ではない。
スポーツ特待生で団体戦では次鋒を務める主力の一人だ。
――それが、一年生相手に勝負にならない。
竹本さんも私と同じように唖然としている。
「日野くんは一年半くらいブランクがあるって聞いたんですが……」
三年生の先輩は何もできず、二本を先取されて負けてしまった。
剣道では二段の差があると練習にもならないというけど……それ以上の差がある気がする。
私の横で見ていた顧問は、最初こそ声を失うほど驚いていたが、今は見たことがないほど上機嫌だ。
試合が終わるや否や、日野くんの元に駆けつけた。
「すごい!日野くん!次は大月と勝負だ!」
部長の大月先輩を練習試合の相手として指名している。
さすがに無茶じゃないかしら。
大月部長は大阪府の二位。部内でも飛び抜けた実力者。
個人戦でインターハイに出場するような実力者だ。
――そう思ったが、試合はきちんと成立していた。
最初こそは長い膠着の末に一本取られたが、二戦目はいい勝負になっていた。
長く続くせめぎ合いを見ていると、竹本さんが話しかけてきた。
「試合が高度すぎて、全然何やってるか分からないです」
「日野くん、返し技を狙ってるのね。自分からは全然動いてないわ」
私は先輩としての威厳を守るためにちょっとだけ解説した。
でも、本音としては竹本さんと同じ気分だった。
二人が何をやっているのか分からない。
試合が進むにつれて、最初は劣勢だった日野くんが盛り返しているように見える。
戦いの中でパワーアップしているような、忘れていた技を思い出すみたいに、戦っている。
長い拮抗状態が終わるのは突然だった。
「胴ッ――」
突然日野くんの胴が決まり、審判役が旗を上げた。
何が起こったのか、理解できなかった。
大月部長に隙があったようには、まったく見えなかった。
試合は三本目が行われることがなかった。
顧問が飛び込んできて日野くんに熱烈な勧誘をし始めたからだ。
面を外して戻ってくる大月先輩の呼吸が、いつもより荒い。
私は思わず横から小声で聞いた。
「大月先輩、日野くんはどうでした?」
正直、私には高度すぎて試合内容が分からなかった。
「強すぎる……。彼は目が良すぎる。何もできないね」
竹刀の鋭さ、それ自体は特筆すべきものはなかったという。
府大会の上位層レベルだ。
一年生にしては凄いけど、主将的には対応は簡単だったらしい。
「最初の方は隙も多くて、指導に徹していたんだけど」
「あぁ、アレは指導だったんですね」
一本目は、日野くんが明らかに劣勢だったんだけど、それでも主将的には手を抜いていたらしい。
だが、彼の技が多彩になっていく。
長い間使っていなかった技を、思い出すように。
指導のつもりが、いつの間にか勝負になっていた。
それが一試合目の硬直状態。
「最終的には、力で吹っ飛ばして怯んだ隙に小手を決めさせてもらったよ」
大月部長は少し恥ずかしそうにしていた。
体格差で間合いを潰して、無理やり終わらせた。
高校生の二年間の体格差は大きい。
「二戦目は抜き胴が早すぎて防げなかったんだよね」
抜き胴。
日野くんのそれは起こりの速さが異常だったという。
「あれは抜き胴だったんですか? 無防備な大月先輩に決まっただけに見えました」
「あれは実は次に面を打とうとしてたんだよ。その瞬間に飛び込んできたんだ」
もはや、『面を打とう』という思考に反応して返し胴を決められたような状態。
そう語る部長は試合を思い出しながら首をひねっていた。
そして、部長は続ける。
「新人戦で彼と当たる子は気の毒だね」
秋に開催される大阪府の新人戦。
今入部すればその申込みはギリギリ間に合うはずだ。
……でも。
「今年の新人戦は『十年に一度の天才』の丹下君と当たりますよね」
新人戦は、始まる前から優勝者が決まっていると見られていた。
既に夏の大会で、目の前にいる主将を決勝で破って優勝した脅威の一年生がいる。
私の言葉に大月部長は首を振る。
「いや、彼は丹下君とも戦えると思うよ」
「そんなに強いんですか?日野くんは」
頷く部長。
「三戦目は正直顧問が止めてくれてホッとしたよ。国体の前に士気を下げるわけにはいかないからね」
この部で傑出した実力を持つ部長は精神的な支柱だ。
一年生に負けたら士気は下がるだろう。
ということは顧問のファインプレーだったんだろうか。
チラリと顧問の方を見る。
顧問は大興奮して日野くんにじり寄っていた。
あの理性を吹き飛ばしたようなテンション。
そんな難しいことを考えて試合を止めたようには見えなかった。
顧問は手をワキワキさせながら、日野くんににじり寄っている。
「キミがいればウチは全盛期を迎えられる!今すぐ入部しよう!」
日野くんは顧問の迫力の前に後退りしながら、最終的に壁際まで追い詰められていた。
「僕、今日は見学しにきただけなんですけど」
必死で詰め寄る顧問に、日野くんは首を振った。
――でも、私は日野くんが剣道部に入ると確信していた。
だって、ずっと何に対しても興味なさそうな目をしていた彼の目。
それが、竹刀を握った瞬間から急にキラキラし始めたんだから。




