第86話 中間管理職の悲哀
舞洲にあるプロ野球球団ブルーラプターズの二軍本拠地。
投手コーチの斉藤は、小さくため息をついた。
理由はいくつかある。
まず一つ目は、斉藤がチームのグループチャットに投稿した告知への返信だ。
『今週の日野トレーナーの診療日は日曜10時〜15時です。咲洲の医務室。予約フォームはこちら↓ https〜』
日野トレーナーには今日の10時から来てもらう段取りになっていた。
これについた返信がこれだ。
『土曜は一軍は福岡遠征中じゃないすか』『俺達が行ける日に来てもらってください』
福岡に遠征中の一軍選手から文句が何件も飛んできていた。
日野トレーナーとは、二軍の予算で契約している。
二軍を優先するのは当たり前だ。
ただでさえ潤沢とは言えない二軍予算から工面しているのだから。
さらに斉藤の頭を悩ませているのが、上層部からの割り込み依頼だ。
パソコンにはGMから来たメールが開かれている。
『昨日の仙台が雨天中止やったから、早川のローテを後ろに一日ずらすって岡本が言っとるわ。調整よろしく』
斉藤は小さく毒づいた。
「ぶっ殺すぞ、あのハゲ」
怒りの矛先はGMではない。彼は伝書鳩をしているだけだ。
諸悪の根源は一軍首脳陣だ。特に岡本一軍監督。
どうせローテを組み直すのが面倒で、単純に一日後ろへずらしたんだろう。
本来なら、来週の火曜日が早川選手の登板予定だった。
ブルーラプターズの新たなエースとなった早川選手。
彼のフォームは未完成で、登板の2日前に日野トレーナーに筋肉を矯正してもらう必要がある。
彼はトレーナーと一心同体なのだ。
早川は一人では一軍レベルの活躍を残せない。斉藤はそう確信していた。
「今日の施術、キャンセルはできないよなぁ……」
現在の時刻は9時20分。
彼は今ごろ、大型バイクでご機嫌な通勤をしているに違いない。斉藤はそう想像した。
今さらキャンセルしておいて「明日来てくれ」なんて言ったら、怒るに決まってる。
それに、彼のスケジュールはみっちり詰まっている。
斉藤は日野トレーナーの予定を一週間前から必死に調整したのだ。
それなのに直前になって「明日も出勤してくれ」と頼むのは、さすがに厳しい。
雑務から逃げ続ける犬飼ヘッドコーチの尻拭いをしているうちに、斉藤は日野トレーナーの窓口みたいな役回りになっていた。
早川選手はトレーナーと二人一組という特殊な事情上、一軍所属ながら基本的には二軍指導陣の管轄だ。
一軍チームには基本帯同しない。遠征先で登板するときだけ、単発で送り出している。
「つーか、岡本さんは俺に直接言ってこいよ」
岡本一軍監督の采配は認めるが、コミュニケーションが苦手で人望が薄い。
今回も、二軍への調整を面倒に思ってGMからの命令という形にしたのだ。
一軍と二軍の首脳陣に、世間が思うほどの上下関係はない。だから一方的に命令はできない。
そんなことを考えていると、建物の裏からエンジンの爆音が聞こえてきた。
『ブォォブォォブォォーン』
日野トレーナーがご自慢の大型バイクで通勤してきたようだ。
素直にうるさい。
「さて……日野くんのご機嫌を取らなきゃな……」
彼の機嫌は早川選手のパフォーマンス、ひいては首位争いをしている一軍の成績に直結している。
斉藤は玄関にまで小走りで出迎えに行った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「えぇ……明日出勤ですか」
馬鹿みたいに背が高いバイクの横で、頭をポリポリ掻いている細マッチョな青年。
彼が、うちのチームのキーマンである日野トレーナーだ。
斉藤は彼に向かって頭を下げながらお願いする。
「雨の影響で早川選手のローテがずれてしまって……本当に申し訳ない。どうかお願いできないか」
斉藤は一瞬、今日のうちに早川を施術してもらう手もあると思った。
三日前の治療になるが、そこまで医学的な影響はないかもしれない。
だけどピッチャーは、ルーティンを何より重視する。
施術タイミングを変えて負けでもしたら大変なことになってしまう。
「明日の夜は鍼灸院のお客さんが二人いるんですよね……。困ったなぁ。ちょっと予定、確認します」
彼は非常勤で月4日来てもらっている。
契約には追加出動を依頼するオプションがある。
それに従って、所定日数外の勤務には毎回5万円を渡している。
出張などで早川選手の治療をしてもらっているぶん、追加で既に300万は払っている。
早川選手が活躍するのは好ましいことだが、二軍の支出がどんどん増える。
斉藤は来季は絶対にチーム全体の財布で払わせると、内心で舌打ちしながら強く決意していた。
日野トレーナーはしばらくスマホをいじっていたが、
「12時20分なら、なんとか行けると思います。どうですか? 十三まで来てもらうことになりますけど」
斉藤は少しだけ考えて、すぐに頷いた。
流石に大スターとなった早川選手を電車で移動はさせられない。球団スタッフに送迎させればいい。
二人で建物の中に入る。
日野トレーナーには今日は6人の治療をやってもらう予定だ。
早川選手の枠は空いたが、グループチャットで募集をかけると一瞬で埋まった。
彼の施術は大人気すぎて、予約が取れないと評判だからな。
今日一人目の施術は一軍から落ちてきた投手だ。
シーズンの最初から敗戦処理専門の中継ぎ投手として頑張ってくれていたが、最近は疲れからか投球が定まらなくなり下に落とされた。
施術ベッドの横に立った日野トレーナーは、驚くほどの速さで状態を確認していく。
中継ぎ投手には一回の質問もしない。
まるで見るだけで症状がわかっているようだ。
「屈筋群の炎症かもですね。かなり慢性化してそう。どんだけ連投したら、こんなことになるんですか」
鍼を刺して、さらに一言。
「腰も悪そうですね。直しましょう」
斉藤は彼の施術を見ながら感心する。
主訴は事前に伝えてあるからこんなにスピーディーなんだろうけど、これで効果抜群だからすごいよなぁ。
「というわけで、一週間はボール握るの禁止です。酷使しすぎですよ」
治療が終わり、不思議そうな顔で去っていく中継ぎ投手。
多分、日野トレーナーが言うなら、本当に来週には疲労回復しているんだろう。
このスピーディーな治療で、疲労困憊で抹消された中継ぎ陣の一人も、すぐ一軍に戻っていった。
そのおかげで今日の彼も休息をさせることができているのだ。
まるで再生工場のようだと斉藤は思う。
彼のおかげで投手陣はかなり改善した。
「今回は早く終わっちゃいましたね。ついでに斉藤コーチの寝違えも、直しときましょうか?」
「……頼もうかな」
二日前にやらかした寝違え。
言ってもいないのに、プロの目には分かるものなのか。
そんなことを考えながら、斉藤は施術ベッドに横たわった。




