第82話 仕事拒否マン
ファシアが空の段ボールで遊んでいる。
中に潜って、俺の動きをうかがっている。
段ボールの内側から、丸い目だけが覗く。次の一撃のタイミングを測っているらしい。
「ニャッ!」
俺がわざと腕を差し出すと、ファシアは『今だ』と言わんばかりに飛び出してきた。
ヒットアンドアウェイで腕を狙っては、また中へ隠れる。謎の遊びだ。かわいい。
この子は三歳の、立派な成猫だ。
なのに、こんな幼稚な遊びが好きだったりする。
段ボールの縁にガリッと爪を立てて、また中に引っ込む。何がそんなに楽しいのか。
何の変哲もない段ボールなのに、そんなに気に入ったんだろうか。
何がいいのか、よく分からないけど、俺の部屋に置いてやろう。
「それにしても、段ボールが多すぎるよなぁ」
実を言うと、今のリビングは段ボール箱で埋め尽くされていた。壁際に、同じような箱が何個も積み上がっている。
一方、綾辻先輩は、テーブルの上の段ボールの前で唸っていた。
俺が猫と遊んでいる間、先輩は別の戦いをしていたらしい。
「このみかん、どうしよっか……」
「それ、美味しいですけど5kgは消費できないですよね」
箱のフタが少し開いていて、柑橘の匂いが部屋に広がっていた。
段ボールの側面に『5kg』の文字がある。先輩が唸るのも分かる。
リビングに積まれた段ボールは、ウチに届いた大量のギフトだ。
差出人欄には、見覚えのある名字があった。
キャンプ場で出会った老人の奥さんから届いたものだ。
俺が肺がんを見つけたあの老人は、先輩が説得した結果、病院に行くと約束してくれた。
それで週明け、さっそく内科に行ってくれたらしい。
キャンプから戻って数日後、週明けの昼休みに先輩のスマホが鳴った。
電話口の奥さんの声は、ひどく動揺していたらしい。
レントゲンで影が見つかり、大病院に紹介され、そのまま緊急入院になった。
奥さんの話だと、検査の結果はステージⅠだったらしい。
ステージというのは、がんの進行度だ。
他の部位への転移の具合に応じて、0〜Ⅳまである。
ステージⅠは、比較的転移のない状態、完治が目指せる状態だ。
肺は全身の血管が集まる場所だから、肺がんは非常に転移しやすい。
そう考えると、ステージⅠで発見できたのはかなり早い方だと言えるだろう。
そういうわけで、命の恩人である綾辻先輩に大量のギフトが届いたわけだな。
早期発見できた感謝が、この大量のギフトに込められているわけだ。
「箱、何個あるんすかね?」
「六個ね、まだ玄関にも一個あるの」
段ボールを開けるたびに、いろいろなものが出てきた。
百貨店の和菓子詰め合わせが段ボール一箱分、高級ペットフード、みかんが段ボール一箱分、その他諸々だ。
ほとんどのギフトは常温で持つからコツコツ消費すればいい。
だけど、みかんはそうもいかないよなぁ。
常温で置いておくと、気づいた頃には一気に傷むんだ。一日二個三個じゃ追いつかない量だ。
ちなみに香川は実はみかんの名産地らしい。
これは老人の弟さんが育てたものらしい。
スーパーには並ばないような高級みかんらしくとても甘くて美味しい。
先輩が珍しく困った顔をしている。
「これ、どうしようかしら」
「知り合いに配ればいいんじゃないですか?」
みかんは、ちゃんとネットで小分けされていた。
ご丁寧に、一つずつ取り出しやすい。
俺はともかく、先輩は友達が多い。5kgのみかんなんて一瞬で配れるだろう。
「まぁ、そうなんだけどね」
そう言いながらみかんを食べている先輩。
先輩の手元には、いつの間にか剥き終わった房が並んでいた。
定期的に俺の方に皮を剥いたみかんをプレゼントしてくれる。優しい。
『はい』と差し出されて、反射で受け取ってしまう。
「でも、あのおじいちゃんは早期発見できてよかったですね」
「そうね、ちゃんと病院に行ってくれて嬉しかったわ」
ステージⅠは、基本的には外科手術でがんを切除し、完治を目指せる。
肺がんは摘出後も転移しやすい。だから、予断は禁物なんだけど。
それでも、早期に治療を開始できるに越したことはない。
「でも、こういうギフトって田舎のおじいちゃんって感じでいいですよね」
「そうかなぁ……?」
俺の周りの同世代だと、せいぜいLINEで『ありがとう』が来て終わる。
こういう『物量』で返す感じ、久しぶりに見た。
若者だと、こういう形で好意を表すことはあまりない気がする。
田舎の親戚のギフトって、こんな感じだよなぁ。
俺は箱の一つからペットフードを取り出した。
「ほら、ファシアちゃん。君が大好きなごはんだよ」
「ニャ」
ファシアは遊びを中断して、鼻をひくひくさせた。『ごはん』への反応は、いつも早い。
愛猫に沼津産の国産マグロを使った贅沢なペットフードをあげる。
これ、前にもまったく同じものが患者さんの誰かから送られてきた気がする。愛猫家相手のギフト界隈で流行っているのかもしれない。
ペットフードを皿に出してあげると、少しだけ匂いを嗅ぎ、ペロペロ舐め始めた。
めちゃくちゃ美味しいらしい。無言で最後まで食べて、皿まで舐めている。
このフードは、ファシアのお気に入りなんだけど、欠点としては、しばらくこれ以外の餌を食わなくなるんだよな。
「ニャッ!」
皿を舐め終えた瞬間、次の要求が始まった。
飯を食った後なのに『オヤツ寄越せや』とカツアゲしてくる。
それを適当にあしらっていると先輩から話しかけられた。
「犬飼コーチから秋季キャンプに来いって催促のメールがいっぱい来てるけど行かなくていいの?」
先輩は俺の仕事用メールの管理までしてくれている。
俺はすぐにメールの処理を忘れてしまうからな。
新着メールには、似た件名が十件近く並んでる。
全てあまり関わりたくないプロ野球の秋季キャンプの話だった。
「だって、契約書にそこまで書いてないですし」
俺が治療に行く義務があるのは春季キャンプとシーズン中だけ。
いくら金を積まれても俺はシーズンオフの仕事はしないことにしたのだ。
「早川選手のフォームの改造について、相談したいってメールも来てるけど……行かなくていいの?」
「それはコーチの仕事なんです!」
既に斎藤コーチの中では具体的なフォーム矯正の訓練内容が決まっているようだ。俺が見て何がわかるというのだろうか。
「大和田さんから冬休みにフロリダでキャンプやるから来ない?って連絡も来てるけど……」
「いやです!行きません!」
秋や冬に行われる選手個人の自主キャンプは、完全に義務じゃない。
フロリダになんて俺は絶対に行かない。例え、尊敬する大和田選手の誘いでもだ。
俺は段ボールの中から俺を狙い続けているファシアちゃんを抱き上げた。
俺が行きたくない一番の理由は、この子だ。
「だって、ファシアちゃん連れていけないじゃないですか」
「ニャン!」
一週間もファシアから離れるなんて信じられない。
来週末に一泊二日で東京に行くだけでも辛いのに……。剣道の全国大会が東京で行われるので、家を留守にしなければならないのだ。
「そういや、全日本選手権の予定は大丈夫そうですか?」
「うん、土曜日はちょっと後から合流するけどそれ以外は大丈夫」
二人で行く予定だったんだけど、病院実習の都合で、先輩は遅れて合流することになった。
先輩が剥いたみかんの房を口に運びながら、俺は来週のライバル達との戦いに思いを馳せるのであった。




