第76話 早川選手 覚醒
筋肉を緩めること。それは鍼治療の数少ない得意分野だ。というか、それ以外だと痛みを取るくらいしかできることはない。
俺は早川選手と斉藤投手コーチと一緒に、併設の医務室へ来ていた。
早川選手をベッドに乗せ、極細の鍼を取り出す。
一号鍼。細すぎて、普段はほとんど使わない鍼だ。
鍼治療の効果は、筋肉に与える刺激の強さで決まる。
細ければ細いほど、治療効果は小さい。
じゃあ、なぜそんな鍼を使うのか。理由は単純で、大きな変化を出したくないからだ。
早川選手の右腕の円回内筋。そこへ慎重に鍼を打つ。
緩めれば緩めるほどいい、というものでもない。
ちょうどいい緩み具合が必要なんだ。
「こんな感じで治療しようと思います。質問ありますか」
「日野さんにお任せします」
鍼は筋肉の緊張を解くことはできる。だが基本的に、筋肉を緊張させることはできない。
短いスパンで見ると、不可逆に近い。
もちろん外力で介入している以上、放っておけば元に戻る可能性はある。
ただ、早川選手は二軍での登板も控えている。
慎重にやるに越したことはない。
「じゃあ、行きますよ」
少しだけ筋肉を刺激して、シャドウピッチングをしてもらう。
「あまり変化を感じないですね」
そう言う早川選手。
斉藤コーチも同意見のようだ。
思ったより、もう少し踏み込んでもいいのかな。
鍼を少しだけ太くして、様子を見る。
三回ほど試したところで、早川選手が「少し違和感がある」と言ったので切り上げた。
シャドウピッチングを見る限り、あんまり変化はないように見えるが、まあ俺は究極的には野球の素人だからな。
「じゃあ、室内練習場で変化球を試してみましょうか。疲れは大丈夫ですか」
今回は疲労回復目的の施術はしていない。
いっぺんに何か所も触ると、どれが効いたのか分からなくなるからだ。
「うーん、一昨日は軽めでしたし、大丈夫ですよ」
軽く投げて七回完全試合か……。
対戦相手からしたら、はよ一軍に帰れよって思ってるだろうなぁ。
「じゃあ、練習場で投球を試してみましょうか」
◇◇◇◇◇◇◇◇
早川選手はユニフォームに着替えてから投げたいらしく、更衣室へ向かった。
その間、俺は先に室内練習場へ戻ることにした。
戻ると、さっきまでいなかった選手がいた。
しかも、俺の憧れの一軍選手。ショートの大和田選手だ。
この時間は一軍はグラウンドで合同で練習しているはずだから、ここにいるのは変だな。
なぜかユニフォーム姿のフル装備で、素振りをしていた。
素振りなら別にここじゃなくてもいい気がする。外、晴れてるのに。
俺が不思議そうに見ていると、大和田選手の方から声をかけてきた。
「おぉ、日野くん。探してたんや。犬飼さんから、ここにいるって聞いてな」
「大和田選手、どうしたんですか」
俺の高校時代のヒーローとこんな近い距離で話せるって、役得だよなぁ。
「昨日の夜、死球がふくらはぎに当たってな。青あざができて痛いんや。明日の試合までに見てもらおうと思って」
そういや、なんかぶつけられてたな。
平気そうな顔をしていたけど、結構重めの死球だったんだろうか。
ちなみに一軍は今日は休養日だ。
というか、チームドクターに行けばいいのにと思うのは俺だけだろうか。
さっき医務室の隣でチームドクターが待機していたけど、誰も来ないから暇すぎてマインスイーパーしてたぞ。
「了解です。ただ、今は早川選手を見てるので、本格的に診るのはあとでいいですか」
「お、犬飼さんが言ってたやつか。スライダーの変化量を上げるツボを治療してくれるらしいな」
謎の噂が広まっている……。
そんな便利なツボがあれば教えてもらいたいくらいだ。
でも、大和田選手の顔を見ると冗談半分で、そんなツボがあるとは微塵も思っていない様子なのが救いだな。
大和田選手と話していると、早川選手が戻ってきた。
斉藤投手コーチとブルペンキャッチャーを連れている。
早川選手は、さっきまでのスポーツウェアとは違い、ユニフォーム姿でビシッと決めている。
うーん、かっこいい。
やっぱ、ウチのユニが12球団で一番かっこいいな。
早川選手のアップを見守りながら、その間に大和田選手のふくらはぎを見ていく。
内出血は激しかったようだが、筋肉に損傷はないな。
あとでちゃんと医務室でドクターと一緒に見ようと思うが、気休めに湿布でも貼っとけば十分な気がする。
そんなことをしていると、早川選手から声がかかった。
「日野さん、準備できました」
大和田選手も、覚醒(?)した早川選手に興味津々なようだ。
「日野くん、俺もバッターボックスで早川の球を見てみたいんやけど、いいか」
俺は斉藤コーチの方を見て、彼が頷いているのを確認する。
「お好きにどうぞ。防具はちゃんとつけてくださいね」
大和田選手が防具を取りに行っている間、早川選手は何球かアップをしているようだ。しきりに何か頷いている。
ちゃんとコントロールされた球だ。
少しして、大和田選手が右打席に入りバットを構えた。
迫力がすごい。
早川選手は斉藤コーチと、ブルペンキャッチャーに向かって軽く手を上げた。
「じゃあ、スライダーを三球行きます」
その言葉とともに猛スピードの球が手元から放たれる。
うーん、素人の俺だとスライダーだったのかどうかもわからなかったな。
だけど、コーチとブルペンキャッチャー、そして大和田選手にとっては違ったようだ。
驚きを隠す様子もなく、三人で何かを話している。
その後も早川選手はスライダーを投げる。
三球投げた後に斉藤コーチは早川選手に駆け寄って何かを話し始めた。
俺の方にも大和田選手が近づいていた。
「おいおい、日野くん。マジでスライダーの変化量を上げるツボを突いたんか」
大和田選手は大興奮している様子。俺の肩を掴まんばかりに近づいてきた。
「早川選手のスライダー、そんなに良くなってましたか」
「急に別物になっとるんやけど。紅白戦の時はカーブと区別つかんかったのに、なんやあのキレ」
俺から見ると施術前と何も変わらなかったが、なんか効果はあったらしい。
なら今の状態を維持するやり方を考えないといけないな。
「次、シュート行きます」
早川選手の声で大和田選手はバッターボックスに戻る。
今回依頼されたのはスライダーとシュートのコントロールの改善だ。
回内運動を改善することで、スライダーの方は一定の効果があったようだ。
シュートはどうだろうか。
ブルペンキャッチャーが低めのアウトコースに構える。
早川選手が振りかぶり、投げた。
俺はその瞬間、視界がスローモーションになったように感じた。
球の出どころが見えにくいオーバースローから放たれる豪速球。
それはブルペンキャッチャーが構えたところから大幅にズレて、大和田選手に向かう。
慌てて大和田選手は腰を後ろに反らせて避けようとする。
だが、ボールは大和田選手を追尾するように曲がり……大和田選手の股間に突き刺さった。
「――――ッ!」
大和田選手の声にならない叫びが室内練習場に木霊する。
慌てて駆け寄る俺。
大和田選手は股間を押さえて転げ回っている。
俺は大和田選手の股間の辺りを触り、ファウルカップと呼ばれる股間を保護する防具をちゃんとつけていることを確認して一息ついた。
内野手は付けている人も多いけど、付けてない人も同じくらい多いからな。
「ファウルカップ付けてるから、まあ痛いとは思いますけど大丈夫です」
俺の言葉に周囲の深刻な雰囲気は少し和らいだ気がした。
いや、大和田選手はまだ痛みで転げ回っているけど。
そして、斉藤コーチは早川選手に向かって一言だけ発した。
「まだ、シュートを本番投入するのはやめておくか」
うん、僕もそれがいいと思います。
ちなみに場を和ませるために「バットに当たったからファール扱いですかね」というジョークが頭に浮かんだが、口にした瞬間、大和田選手に本気で殴られそうだったので飲み込んだ。




