第75話 科学ノ発展ニ犠牲ハツキモノデース
室内練習場に着くと、早川選手がストレッチをしていた。
「日野さん。剣道の全国大会、優勝したそうですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
早川選手はスポーツウェア姿で、ただの運動好きの好青年に見える。
だけど、この人は化け物みたいな投手なんだよなぁ。
160km/hを投げる人間を化け物と言わずして、何と言うんだろう。
というか、この前の試合では164km/hまで出してたし。
普段は先発だから、出力を抑えて投げている印象がある。
「早川選手、一昨日は見事な投球でしたね」
「ありがとうございます」
一昨日先発で投げたばかりで、全身の筋肉はお疲れ気味だ。あとで鍼で血流だけ整えてやろう。
今日は軽くアップするだけらしい。
変化球のフォームを見たいので、投球練習も少しだけ入れてもらうことにした。
早川選手に投げてもらい、真横から能力をフル活用して観察した。
それを見ながら、俺は唸った。
「うーん……全然分からん」
ゆっくり投げてもらっているから、目が追えていないわけではない。
正しいフォームを知らないから、何が原因なのかさっぱり分からん。
練習場の壁際で暇そうにしている斉藤コーチのところへ戻り、「分かりませんでした」と言うと爆笑された。
「まぁ、そりゃそうだろうな。野球未経験者に原因が分かられたら俺の仕事ねぇから」
そう言いながら、斉藤コーチはカバンからパソコンを取り出した。
そして見覚えのある画面を開いた。前に依頼したモーションキャプチャ会社のソフトだ。
まだ取引が続いているのか。
それについて聞いてみると、斉藤コーチはこのモーションキャプチャを気に入って、便利に使っているらしい。
「こういうデータで示した方が、上層部にはウケがいいんだよ」
これは最近計測したデータらしい。
登板間隔が空いた投手は、全員計測してるんだとか。
「これが、フォームが結構似てる投手のスライダーね」
ファイル名からすると、一軍の中継ぎ選手だな。
言われてみれば、確かに早川選手とフォームが似ている……気がする。
その投手のモーションを再生したあと、早川選手のモーションを再生してくれた。
それを数回繰り返したあと、俺に向かって聞いてきた。
「で、これは早川選手のスライダーってわけ。二つのフォームの違いが分かった?」
「いや、分かんないですね」
素直に答える。
俺にとっては、どっちも野球選手のフォームだなぁ、くらいの感想しか湧かない。
俺の答えは予想していたようで、斉藤コーチは早川選手のデータを指差しながら答えを教えてくれた。
「早川選手はこの回内って動作が早すぎるんよね」
回内とは、前腕をひねって手のひらを下向きにする動きだ。
どんなフォームでも、投げ終わりには手のひらが下を向く。だけど、早川選手はその状態になるタイミングが早すぎるらしい。
それでスライダーの軸がズレて、シュートも抜けるらしい。
話を聞いてて俺は思う。
「なら、それを直せばいいんじゃないですか?」
俺の言葉に、斉藤コーチは軽く笑った。
言われてすぐ直せたら苦労はしない、って感じだろうか。
「いや、意識してフォームをすぐ変えられたら、投手コーチは苦労せんのやけどなぁ」
こういった症状は、体幹の弱い投手や、アマで独自のフォームを固めている投手に出やすいらしい。
だけど、早川選手は体幹については全く問題がない。なので他に原因があると睨んでいるんだとか。
今はフォーム改造を通じて、その辺りを微調整している最中だという。
犬飼コーチには回内の話を伝えているはずなのに、俺に依頼が回ってきたことに、斉藤コーチは少し呆れているようだった。
「あの人は良く言えば感覚派、悪く言えば脳筋やからなぁ」
……その悪口は聞かなかったことにした。
ちなみに斉藤コーチの方が入団年数は四つ下だが、大卒なので同い年だ。
この二人は結構仲がいい。
「ちょっと、スマホで調べ物しますね」
俺はネットを使って前腕の回内動作に関係する筋肉を調べ始めた。
実は俺も、人間の無数にある動作がどの筋肉に関連しているのか、全部を暗記しているわけじゃない。
代表的な動作は覚えないと仕事にならないけど、それでも限界はある。
スポーツ医学の解説ページが出てきたので読み込む。
この記事、外科専門医が書いてるから信頼性が高そうだな。
一通りサイトの信頼性を確かめてから、記事の内容を読み始めた。
なるほどなぁ。
肩外旋か前腕に視点を絞れば、見えるかもしれない。もう一回見てみるか。
「斉藤コーチ、もう一回だけ早川選手を見てもいいですか?」
「お、おう」
いきなりスマホに熱中し出した俺に、斉藤コーチは少し呆気に取られていたようだ。
だが、声をかけると少し驚いたように返事をしてくれた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
よく分からないものを観察するときに一番大事なのは何か。
答えは『観点』だ。
観点なしに眺めても、何も得られない。
「では、もう一度スライダーを投げてもらえますか」
俺の言葉に怪訝な顔をしつつも、早川選手は投げてくれた。
そのあとも同じように、シュートとスライダーを投げ分けてくれる。
なるほど。
観点を決めてちゃんと見れば、野球未経験の俺でも掴めそうな気がする。
変化量やコントロールみたいな漠然とした観点で見ていたから、何も分からなかったんだな。
回内動作の筋肉の動きに絞ると、見えてくるものがある。
「円回内筋が原因な気がするなぁ」
「円回内筋、ですか」
俺の呟きに、早川選手が首を傾げた。
俺はそれに頷いた。
実を言うと、この『円回内筋』は一般人ならなくても日常生活でそこまで困らない。あまり重要ではない筋肉だ。
同じ役割を担う別の筋肉があって、ある程度は代用できるからだ。
だがアスリート、特に野球選手みたいに肘の靭帯へ大きな負荷がかかる競技では、かなり重要な筋肉だろう。
位置の関係で、靭帯の負荷を一部肩代わりしてくれる筋肉でもある。
「多分、早川選手の円回内筋は太くて、しかも硬いですね」
回内動作に関係するところだけに絞って見ると、右腕だけ円回内筋が太い気がする。
原因は何だろう。トミージョンのリハビリで鍛えすぎたとかそんなところだろうか。
「この筋肉、緩めてみますか。変化球が良くなるか悪くなるかは分かりませんけど」
俺はあえて軽い口調で言った。
いずれにせよ、何らかの変化は出るはずだ。ここまで特異的に太い筋肉なんだから。
それが変化球の変化量や精度に対して、いい変化になるかどうかは全く分からないが。
俺の提案に、早川選手と斉藤コーチは困惑したように顔を見合わせた。
二人が困惑するのも分かる。
自分で言っておいてなんだけど、某野球ゲームのサクセスモードに出てくる博士みたいなセリフ、吐いてるよな。
二人はしばらく密談していた。
十分ほどして、早川選手が近づいてきた。
「日野さん、じゃあその治療、試してみてもいいですか」
えぇ……。
自分で提案しておいて何だけど、判断が早すぎて困惑した。
俺は早川選手と斉藤コーチの顔を交互に見た。




