第70話 ヒノくん大ピンチ!
コンサートが終わったあと、綾辻先輩は興奮が冷めやらぬ様子で、熱く感想を語ってくれた。
「バッハ系なのに、音の立ち上がりが硬すぎないのが好みなの!」
へぇ、そうなのか。
正直、俺にはよく分からない。けど、先輩が嬉しそうなのは伝わってくる。
俺も柔らかめの麺が好みだから、なんとなく分かる気がした。
「ノンレガートでも角が立たないのよねぇ」
確かに角が立ってるのは嫌だと思う。とりあえず頷く。
先輩の声が弾むたび、ホールの残響がまだ耳に残っている気がした。
興奮気味でよく分からないことを言っている先輩に相槌を打ちながら、レッドカーペットの敷かれた階段を降りていく。
このコンサートホール、本当に豪華だよなぁ。
福島区にあるホールも音響は良かったけど、どうしても古さが出ていた。
このビルは、やはり築年数の浅さが効いているんだろう。
人の流れはゆっくりで、皆どこか浮き足立っていた。
ドンッ!
後ろから突然大きな音がした。
振り返ると、階段の踊り場でドレス姿の高齢の女性が膝から崩れ落ちていた。
手すりを掴んでいたので、膝を床に打っただけに見えた。
旦那さんはオロオロしながら、老婦人の名前を呼んでいる。
一瞬、周囲の足が止まる。
俺も反射的に駆け寄ろうとしたが、先輩のほうが速かった。
先輩が素早く向かい、肩を叩いて反応を確かめた。
その後、胸の上下を確認して、少し安心した表情になった。
俺は旦那さんに「大丈夫です、今見てます」と声をかけ、落ち着かせた。
「大丈夫ですか?」
老婦人は少しだけしんどそうだったが、口を開いた。
「少し、貧血気味になっちゃったみたい。長く座っていたからかもしれないね」
言葉は鮮明で、意識にも問題はなさそうだった。
良かった。意識があるのは大きい。
女性のスタッフが駆けつけてきた。
老婦人は自力で立ち上がり、歩けそうな雰囲気。
スタッフに支えられながら、案内された近くの椅子まで歩き始めた。
椅子に座った老婦人に、先輩が瞳孔と脈拍をチェックしていた。
「脈拍はちょっと遅めかな?」
少し顔色が悪い。
だけど、スタッフが持ってきた水を飲んでいるうちに、少し落ち着いてきたようだ。
念のため、俺たちはもう少しだけ経過を見ることにした。
その間に先輩と老婦人は楽しそうに話し始めた。
「バッハも良かったけど、スカルラッティのソナタで対比させてるのがオシャレですよね!」
「ええ、そうよね」
二人が何か難しそうなことを話している。
あれだけ元気そうなら、大丈夫そうだな。
それを察したのか、スタッフも一礼して去っていった。
スタッフが離れたのを見て、俺は一歩近づいた。
結構大きな音で崩れ落ちていたから、骨折していないか念のため見ておくか。
高齢者にとって骨折というのは今後のQoLを左右する非常に大事な問題だ。
左膝は問題なし。
右膝も……問題ない。
だけど、違和感が残った。
膝というより、右足全体が変だ。
俺はさらに目を凝らした。
違和感の正体を探る。
そして視界の端で、拍動の主張がないことに気づいた。
「あぁ、血管か……」
普段なら元気に脈動して視界を邪魔してくる太ももの太い血管『大腿動脈』が、異様に弱く、ゆっくりとしか脈動していない。
血流がほぼ止まっている。
左足の脈は問題なし。血流がほぼ止まっていることより、この左右差が不味いかもしれない。
左右差がここまで出るなら、原因は末梢じゃない。上流だ。
予想が正しければ……心臓付近に問題があるはずだ。
俺は彼女の上半身に目を向け、心臓を見た。
そしてその瞬間、叫んでいた。
「スタッフさん、今すぐ戻ってきてください!」
去ろうとしていた女性スタッフを呼び止めた。
近づいてきたスタッフに、俺は叫ぶように告げた。
「今すぐ救急車を手配してください」
このまま帰られるのが、一番まずい。
戸惑った様子の老婦人と先輩。周りの通行人も足を止め、ざわつきだした。
老婦人は手をひらひらさせながら、少し笑って言った。
「私は大丈夫ですよ。もう少し休めば歩いて帰れます」
先輩も怪訝そうな顔で俺を見ている。
俺は老婦人の言葉はいったん脇に置き、先輩に言った。
「右足で脈を取ってください。そのあと左と比較してください」
先輩は怪訝そうな顔のまま、老婦人の靴を脱がせる。
そして親指の横あたりに手を当てた。
足背動脈。下肢の脈を取るときに使う場所の一つだ。
右足に指を当てて十秒ほどで、先輩の表情が一変した。
左足でも脈を取る。
そしてもう一度、右足で脈を取る。
「……」
先輩は無言のまま、急に立ち上がって老婦人のほうを見た。
老婦人は先ほどまでとは楽しく会話していた先輩が急に変貌したことに驚いている様子だ。
老婦人はおどおどした様子で声をかけた。
「どうしたの? なにか問題があったの?」
先輩は一度だけ息を整えるように口を閉じ、それから、先ほどまでとは違う背筋が凍るような硬い口調で告げた。
「今すぐ緊急搬送が必要です。非常に緊急性の高い疾患の可能性があります」
俺も見たことがないほど、真剣な先輩の表情。
俺たちの雰囲気に飲まれるように、スタッフが消防に電話をかけ始めた。
先輩は病名を口にしなかった。
彼女は医学生で、診断を断言できないからだ。
だが、両脚の脈拍の左右差、右の脈拍の消失。
ここまで聞いて、とある病名が浮かばない医療関係者はいない。
それほどまでに緊急性の高い疾患だ。
――大動脈解離。
時間との勝負だ。
先輩はその症状から可能性があると判断したのだろう。
だが、可能性ではない。俺には見えていた。
老婦人の大動脈壁が破れているのを。
それによって新たな血管の通り道ができ、それが周囲の組織を圧迫しているのを。
右足の状態は、対応する血管が圧迫されているせいだろう。
先輩が問診を始めたところで、俺はスタッフに声をかけられた。
「すみません、症状の方を救急に伝えてもらえませんか?」
どうやら、救急隊との会話の中で症状を伝えられずに困っているらしい。
スタッフから電話を渡されたので代わる。
電話の向こうからは冷静さを保った男性の声がした。
「既に救急車はそちらに向かっています。どんな症状ですか?」
「意識はあります。急な前失神に加えて、下肢の脈拍に左右差があります。右側は触知不能です」
「……了解しました。医療関係者の方ですか?」
「医学生です。到着まで観察を続けます」
その後もいくつか質問をされる。
右脚の色は左脚と大きく変わらない。
重症度はわからないが、少なくとも虚血はまだ進んでいないだろう。
早期なら助かる可能性は高い――そう信じたい。
電話をスタッフに返す。
間もなくして救急隊がやってきた。
思ったより早い。数分で救急車が到着した。
館内の誘導が入ったのだろう。入口の人の流れが一気に割れて、担架がすっと通った。
救急隊は基本的な確認を行いつつ、右足の脈を重点的に確認した。
そして、老婦人をストレッチャーに乗せた。
救急隊に促され、旦那さんも外の救急車に向かっていく。
嵐のように救急隊が去ったあと、周囲の張り詰めた雰囲気がほどけ、ざわめきに包まれた。
「いや〜、良かったですね。先輩、さっきの判断、見事でしたよ。まるで……」
そう言いながら振り返った俺は、言葉を途中で止めた。
先輩の顔が、まだ硬いままだった。
見たことがないほどの真剣な目をした先輩が、俺の顔をじっと見ている。
瞳には、明確な猜疑の色が浮かんでいた。
「ヒノくん、なんで触らずに判断できたの? その秘訣、私にも教えてほしいな!?」
笑みひとつない顔だが、口調だけはいつもの先輩。
そのギャップが逆に怖かった。
俺は思わず息を飲んだ。




