第66話 意地
俺は愛猫のファシアを抱えたままソファに沈み込み、テレビを見ていた。音量を少し上げる。
画面では早川選手が素晴らしい投球を続けている。
テレビに微塵も興味がないのか、ファシアは俺の腹に頭を擦り付け続けていた。
頭を擦り付けるのは、猫にとって所有権を主張する行動らしい。彼女にとって俺は下僕なんだろう。
「ファシアちゃん、それくすぐったいから、やめてくれないかな?」
「ニャッ!」
短い返事をしたあとも、愛猫は行動をやめない。全然、人の話を聞いてねぇ。
背後で足音がして、俺は振り返った。
「ヒノくん、早川選手、どんな感じ?」
キッチンから出てきたのは恋人の綾辻先輩だ。
俺を両親に引き合わせたことで満足したのか、最近は結婚情報誌を使った攻撃がかなり減った。
お茶を淹れてきてくれたらしい。軽くお礼を言い、一口啜った。
「いい感じですよ! そういえば先輩のお父さん、サインボール喜んでましたか?」
実は、早川選手の治療を行うときに、サインボールを何個か書いてもらった。
それを先輩パパに、郵送で送ったのだ。
「うん、この前電話が来て、お礼を言ってたよ。」
先輩パパは、早川選手と同じ大学の出身だ。かなりのファンらしく、喜んでたらしい。
先輩は俺から自然にファシアを取り上げつつ、横に座った。
愛猫もまんざらでもなさそうに、先輩の膝の上で寝転がり始めた。
俺の猫なのに……。
ファシアが落ち着いたのを見て、先輩はテレビで野球を見始めた。
「私、ようやく野球のルールが理解できるようになったんだよ」
確かに先輩は最近、野球についてかなり勉強している。
俺の好きな選手の名前も、ほぼ完全に覚えている。
でも、理解できたのは本当だろうか。野球のルールはかなり奥深い。
先輩の言い方が妙に自信満々で、俺はつい意地悪をしたくなった。
ちょうどテレビの中では、早川選手の投げた球が高々と打ち上がった。
ノーアウトでランナーは一塁、二塁。とある特別なルールが適用される条件を満たしている。
「じゃあ、そんな先輩にクイズです。今の打球、セカンドが捕球する前に審判がアウトを宣告しました。なんででしょう?」
「えぇ……そうだったの? なんだろう。取れそうだったから?」
先輩は分からない様子だ。
インフィールドフライを知らないようでは、理解したとは言えないな。
「惜しいけど違います。今のは故意落球したらダブルプレーになってしまうからです」
俺の説明に、先輩は笑顔を浮かべながら相槌を打った。
野球のルールは、とても奥が深い。
軽々しく、野球を『完全に理解した』なんて言っちゃ駄目だな。
先輩は何も言わず、ファシアを撫でている。
笑顔だけど、目が笑ってない。
何か俺に言いたいことがありそうだ。反撃される前に話を変えることにした。
「お、早川選手。このピンチ、切り抜けましたね」
「ね、すごいよね」
画面では早川選手が小さくガッツポーズして、マウンドから降りていた。
実際、直前はヒヤヒヤした。初球でデッドボールを与えて、次の打者にもデッドボールを与えたときは、どうなるものかと思った。特に二人目は担架で運ばれていたから、早川選手のメンタルが心配だった。
CMをぽけーっと見ていると、先輩が小さく息を吸った。
そして少し時間を置いてから、先輩がおずおずと話しかけてきた。
「ねぇ、ヒノくん。そろそろ君のご両親にも挨拶したいんだけど」
また、その話かぁ。あんまりしたくないんだよなぁ。
「うーん、この前院長を紹介したし、それで良くないですか?」
前のバイト先の院長は、俺の親戚だ。高校時代から俺の面倒を見てくれている恩人だ。
奨学金の連帯保証人にもなってくれた、親代わりと言ってもいい人だったりする。
「それはそうなんだけどね……」
院長を紹介してくれたのは嬉しい。
だけど、両親は特別――先輩の言いたいことは、多分そういうことなんだろう。
俺は両親とは疎遠だ。もう何年も連絡を取ってない。
緊急時は一応院長を通して連絡できるようにしているけど、俺の電話番号も教えていない。向こうからは連絡の取りようがない。
これ以上掘られる前に、俺は別の理由を持ち出した。
「まぁ、ちょっと剣道の全国大会が近いから、しばらく姫路には行けないですね! 遠いんで」
俺はそう言って、話を終わらせた。
先輩は少し不満そうな顔をしていたが、俺の顔を見て諦めてくれたようだ。
いつかは両親にも会わないといけないんだろうなぁ。
俺は中学の頃のことが気まずくて、連絡ができていないだけだ。
院長からは、両親側から何回かコンタクトがあったと聞いている。
他人から見たらしょうもない理由かもしれない。
でも、俺はなかなか踏ん切りがつかなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
七月の土曜日。俺は大阪府立体育館に来ていた。
剣道個人戦の全国大会は、大阪と東京で交互に行われる。
今年は大阪での開催だ。
ちなみに、関西の剣道のレベルはそこまで高くない。
ホームだけど、多分関東勢にボコボコにされるだろう。
それくらい、大学剣道の東西のレベル差は大きいわけだ。
俺は試合前、なぜか選手用の待機室に潜り込んできた京都府警の丹下くんと雑談していた。
周りの好奇の目が痛い。
「ヒノくんの変態戦術、初見殺しが刺さるかどうかが勝負の決め手やな」
選手以外は立ち入り禁止のはずだが、まぁ警備員が通しちゃったんだろうなぁ。丹下くんは警察官だし。
ちなみに今日も俺の応援というより、リクルートが目的らしい。
「丹下くん、俺の対策って、対戦相手は知ってそうかなぁ?」
「どうやろ。あんま広がってなさそうやな」
彼は開始前に、関東勢のところにもスパイしに行ってくれたらしい。
大抵の大学は、俺の名前を聞いても無反応で、ノーマークって感じだったんだとか。
だが、名門大学の一つは、俺の話をするのをやんわりと断られたらしい。
「あそこは山崎くんが進んだ大学だからね」
あそこの大学には、俺の宿敵のもう一人が行ってたはずだな。もう卒業しているはずだが、OBとして何か吹き込んでいそうだ。
まぁ、多少知られていても問題はない。
俺の戦術は付け焼き刃の対策でなんとかなるものではない。
それに、大阪は俺のホームだ。
綾辻先輩も応援に来てくれているし、普段練習に付き合ってくれる仲間もたくさん来てくれている。
もちろん強敵も多い。
だけど俺は最近、かなり練習に力を入れている。全盛期を超えているんじゃないだろうか。
仕事をかなり絞って練習に打ち込んだ。丹下くんに何回か練習相手になってもらった。
しばらくすると、係員が俺を呼びに来た。
「じゃ、丹下くん、行ってくるね」
「おう、関西勢の力を見せてくれや」
丹下くんに見送られながら、俺は最初の試合に向かった。




