第63話 切り札
福島のコンサート会場から少し歩き、綾辻先輩に連れられるままタクシーに乗った。梅田近くの高級ホテル――その一室の前で、先輩がドアをノックする。
「由梨ちゃん、私だけど、開けてもらえる?」
『……はい』という小さな返事と、ゆっくりした足音が聞こえる。さっき会場でバイオリンを弾いていた若い女性が、ドアの向こうから姿を現した。
「美咲ちゃん。お久しぶり、正月以来だね」
美咲というのは、綾辻先輩の下の名前だ。
この名前で呼ぶように言われてるけど、どうにも慣れない。
由梨さんは舞台用の厚い化粧のせいで、血色だけは良さそうに見える。
だけど、筋肉や血流が見える俺にはわかる――彼女は疲労困憊で、完全に疲れ切っている。
この後には綾辻家?のパーティがあるらしいけど、あれに耐えられるんだろうか。
彼女は俺の視線に気づいたのか、こちらへ顔を向けた。
「初めまして、綾辻由梨です」
「あ、どうも。日野です」
彼女は満身創痍だ。手首だけじゃない。首も肩も、全身の筋肉がバキバキになっている。
パーティまでに、ある程度は動けるようにしておく施術が必要だな。
「綾辻先輩、パーティーまでどれくらい時間あります?」
俺の言葉に、綾辻先輩はなぜかそっぽを向いた。
「二人とも綾辻だから、その呼び方じゃよく分からないなぁ」
謎の主張をしてくる、ウチの彼女。由梨さんも綾辻姓だけど、先輩ではないだろう。
面倒なので、要求どおりに呼ぶことにした。
「もう……美咲ちゃん。あとどれくらい時間ありますか?」
俺の呼びかけに、綾辻先輩は顔を赤くしてモジモジし始めた。惚気モードだ。……目の前に由梨さんがいるのに。
その呼び方が新鮮だったんだろう。かわいい。けど、俺はさっさと答えてほしい。
先輩の返事を待っていると、由梨さんが代わりに答えてくれた。
「あと3時間ありますよ。私は少し遅れて会場に入場することになるので」
「3時間か……ギリギリいけると思います。施術のあと、1時間ほど睡眠を取ってもらいましょう。疲労はなんとかします」
まだクネクネしている先輩に施術着を渡し、由梨さんの着替えを手伝うように言う。
うつ伏せの施術がメインになる。舞台化粧のままだと、うつ伏せになった時に崩れるだろうし、落としてもらったほうがいい。
着替えの間は邪魔になるので、俺はいったん廊下に出た。
少し廊下で待っていると、「準備できたよ」という声とともにドアが開いた。
部屋に入った瞬間、俺は思わず瞬きをした。
そこには――綾辻先輩が二人いた。
いや、片方は施術着を着ていて、少し小柄だ。由梨さんだな。
よく見比べると、髪型は全然違うし、顔の輪郭や小さなホクロにも違いがある。
でも、メイクを落とすとこんなに似ているのか……。
なんだろう、細部というより雰囲気――全体的な印象が似てる気がする。
俺が由梨さんの顔をじっと見ていると、彼女は少し赤らめて下を向いた。ちょっと面白い。
……そして、いつの間にか近づいてきた綾辻先輩に脇腹をつねられた。
「痛い、痛い。何するんですか、先輩」
「いつまで由梨ちゃんを見てるの! 時間がないんだから、施術をさっさとして!」
由梨さんをベッドにうつ伏せで寝かせ、俺は本格的に状態を見始める。
「この腕、ひどいな……。痛み止め、かなり飲んでますよね」
この左手首の腱鞘炎は相当痛いはずだ。
彼女がつけている腱鞘炎サポーターを、いったん外す。
この腱鞘炎はドケルバン病――狭窄性腱鞘炎だ。
英語圏ではマミーサム(母親の親指)と呼ばれる、特に子どもを抱っこする女性に多い症状だ。
腱の周りの腱鞘と呼ばれる組織が肥大化して腱を締め上げる。その激痛は、他のことが何もできないほどだ。
痛み止めを飲んでいるとはいえ、この手首で演奏を続けるプロとは、恐ろしい生き物だ。
そして、ドケルバン病に対して医学は無力だ。
対処は痛み止めと炎症を抑える処置、あとは固定くらいしかない。結局のところ、あとは放置するしかない。
実を言うと、ステロイドの注射で一時的に症状を劇的に抑えることはできる。
だが、まともな整形外科医は行わない。周囲の組織がボロボロになるからだ。
西洋医学が頼りないというなら、東洋医学である鍼でなんとかできるかというと……これもかなり限定的だ。
症状は根本的には治せないが、予後は良くできる。そして痛みは弱められる。
「……という感じです。根本的には治せないですが、痛みは抑えられると思います」
頭の中で整理する。治療のベースはNSAIDsと呼ばれる抗炎症剤が第一選択だ。
ちなみにNSAIDsとしては、ロキソニン(ロキソプロフェン)とかが日本では有名だな。
現場の感覚で言えば、追加でやりたきゃ鍼だ――という感じだ。
彼女は手首を使い続けた直後だ。急性期に近い激痛が走っている。
腱が緊張し、それによって腱鞘の炎症がひどくなり、さらに腱が緊張する。
その悪循環を、まず止める。
細い鍼を二か所だけで十分だ。やりすぎると血流が回り、逆に痛くなる。
数呼吸おいて、由梨さんが眉間の皺をほどいた。
「あれ、手首のズキズキした痛みが……軽くなった」
「ウチのヒノくんの鍼は凄いんだから!」
ワイワイと話し始める綾辻シスターズ。なんか、すごく仲がいいな。少し仲間外れ感がある。
そんな感情は無視して、患部に目を落とした。
今、鍼を刺した手首は施術の入口だ。
さて、次の場所が問題だ。
首から左肩にかけても、かなりひどい。
というより、ここが本丸と言っていいだろう。腱鞘炎の根本原因は、ここだろうな。
ひどい凝りだ。これが手首にも影響したんだと思う。
かなりひどい。――俺の切り札を切るか。
つまり、俺の持ってる鍼の中で一番太い『8番』で、強力な施術をすることを決意した。
この鍼は最終兵器で、普段はまず使わない鍼だ。
この後、少し休息を取ってもらう。強力な副反応が出ても大丈夫なはずだ。
「じゃあ、ちょっと太い鍼、打ちますね。痛かったら言ってください」
とはいえ、痛くないように神経の位置を見ながら慎重に行う。
ただ、皮膚自体に痛覚がある以上、これくらい太い鍼だと痛みが出るのは避けられない。
刺した瞬間、由梨さんの体が小さく跳ねた。
「あっ、痛っ。肩に……凄く響いたかも」
固まっていた筋肉が、一気に緩む。
皮膚の表面からは分からないが、内部ではバネのように力を溜めていた筋肉が暴れ回っている。
さすが、久しぶりの俺の切り札――『8番』の鍼だ。
「鍼ってこんなに効くのね」
と由梨さん。声が少し眠そうだ。
そう、俺の切り札の8番が必要なほどのひどい凝りをほぐすと、急激に眠くなる。副交感神経が一気に優位になるからだ。
それに血が一気に流れ始めるので、低血圧気味になる。痛みの他に、これが嫌で封印しているのもある。
「あと、三本だけ刺します。その間は眠気を我慢してください」
首筋と背中に、あと三本だけ刺す。まず二本で右側の血流も整える。
それから脊椎の近くのツボを使って、左手の痛みを遮断する。
「こんなもんかな……由梨さん、どうですか?」
「……」
返事はなかった。
彼女の方を見る。もう寝てしまったみたいだ。
疲れていたのもあるんだろうが、一気に筋肉をほぐしすぎると、どうしてもこうなるんだよなぁ。
寝ている彼女の左手首に腱鞘炎サポーターをつける。これなら寝返りをしても、激痛で起きることはなくなる。
そして綾辻先輩に手伝ってもらい、呼吸が楽になるよう彼女を仰向けにする。
一通り終わったあと、茶化すように先輩が聞いてきた。
「一瞬で人を爆睡させるって凄い腕だね。そういうツボがあるの?」
「まぁ、そんな感じです。寝させるのは難しくないですね」
そう答えると、先輩は予想外だったのか少し目を見開き、拳を握った。
「ヒノくんが女の子に鍼する時は、付き添わないと……!」
いや、鍼をする時は、いつもお願いしてるでしょ。
寝ている由梨さんの横で、俺たちは小声で話していた。
――俺には、彼女がこの程度では絶対に起きないくらい深い眠りに落ちているのがわかっていたからだ。




