第62話 クラシック完全に理解した
ホールの中に入った俺は絶句した。外観からは想像できないほど内部が広く、とにかく大きい。
チケットを見直すと、席は思ったより舞台に近かった。
なんか、すごく良さそうな席だ。最前列に近い。
とはいえ、近ければいいってものでもないらしい。
けど今日はそれどころじゃない。先輩の両親が来ているはずだし、落ち着かない。
「ここはね、日本で初めてクラシック専用に作られたホールなのよ。すっごく音響にこだわってるの」
先輩が解説してくれる。
だけど、俺の耳には入ってこなかった。周りを見渡してしまう。先輩パパはどの人だろう。
俺の様子を見た先輩は、解説をやめて小さく笑った。
「私の親戚は2階席にいるから気にしなくて大丈夫だよ。私たちはそこから離れた席にしてもらったの」
ちなみに、2階席の方が音は良くて、値段も倍くらいするらしい。
でも俺は近い席の方がいいな。眺めたいのは奏者の筋肉の動きだし。
きっと、俺の彼女はそういうのも考慮して席を選んでくれたんだろう。
先輩パパが近くにいないことに安心した俺は、落ち着こうとして入口で大量にもらったチラシの一つを開いた。
『あのM響が大阪へ!浪速フィルと夢の共演 〜ベートーヴェン…』
公演タイトルらしいが、なんか馬鹿みたいに長い。
どうも、今日の楽団は公共放送のMHKが抱えてるオーケストラらしい。
それにしても、チラシに書いてあるチケット代が高すぎて驚く。
「私の従姉妹はM響でヴィオラをやってるのよ。若いのに天才的な演奏をするんだから」
へー、そうなんだ。
とはいえ、俺には凄さがいまいち分からない。
高校野球で言うと、甲子園出場くらいの感じだろうか。
ヴィオラってのは確かバイオリンの別名だな。音楽の授業で習った気がする。
従姉妹は普段は東京を中心に活動しているらしい。
今回はその彼女が大阪に公演に来たので、親族を集めてちょっとしたパーティをするらしい。
先輩の話を聞き終えて、俺はふと疑問を口にした。
「今日の公演の曲一覧はどこに書いてあるんですか? ベートーヴェンのミサ・ソレムニスってしか書いてないですね」
「その一曲だけで終わりだよ?」
えぇ……?
驚きで、思わずチラシを取り落としてしまった。
話を聞くとミサ・ソレムニスってのはバカみたいに長い曲らしい。一時間半もあるらしい。
「ベートーヴェンの『ダダダダーン』は、今日はやらないんですか?」
「『運命』ね、今日はやらないの! でも今日の曲はとっても公演機会が少ない、珍しい曲なんだよ!」
ベートーヴェンと聞いて期待していたんだけど、ガッカリだ。
それに対して先輩は興奮気味だ。
もしかして、クラシックが結構好きなのかもしれない。
少し呆気に取られている俺をよそに、先輩は続けた。
「M響がこの曲を大阪でやるなんて、合唱がローカルとはいえ奇跡みたいなもんなんだから」
知ってる曲が聞けないのは残念だけど、まぁ、いいか。
先輩が楽しそうなら俺も嬉しい。
楽しそうに語ってる先輩の横顔を眺めていると、ホールにベルの音が鳴り響いた。
「あ、これは着席のサインね。そろそろ始まるわ」
ざわめきが引いて、立っていた客が一斉に腰を下ろす。ほどなく客席の照明が落ちた。
周りを見渡すと、周囲は拍手をし始めた。
先輩に促されて前を見る。
次々と楽器を手にした演奏者たちが入ってくる。
それを眺めていると、耳元で先輩が囁いてきた。
「ほら、いま入ってきたヴィオラの若い女の子が私の従姉妹の由梨ちゃんよ」
最前列のバイオリン軍団の少し内側に座った女の子を指差した。
あぁ、言われてみれば確かに少し先輩に似てる感じがする。
少し小柄で目がパッチリした美人さんだ。
体格からすると少し大きな、バイオリンを持っている。いや、持ってるバイオリン自体が少しデカい気がするな。
腕から手元へ目を落とすと、楽器の支え方が妙に気になった。
俺の座っている席はかなり前の方なので、彼女の筋繊維まではっきり見える。
……なるほどね。確かに聞かされていた通り、左手を痛めているようだ。
重そうなバイオリンを支える左手。手首の腱に炎症がある。かなり痛いはずだ。
他の人には分からないだろうが、筋組織が見える俺には彼女の姿勢が周りと違うのがわかる。
親指でネックを掴まず、添えるだけにして痛点を回避している。
「なかなか痛そうだな……。プロだから欠場はできないのか」
俺の小さな呟きに、聞き取れなかった先輩が小さな声で聞き返してきた。
なんでもないと小さく首を振りながら、俺は彼女から目を離せなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
視線を舞台へ戻すと、舞台はすでに整っていた。弦楽器がずらりと並び、管楽器が光って、奥の少し高くなったところには合唱が壁みたいに立っている。
指揮者が出てきた瞬間、空気が切り替わった。さっきまであちこちに散っていたざわめきが、誰かに手で集められるみたいに小さくなる。
拍手が引いて、最後に沈黙が降りてくる。
横にいる先輩に感想を囁こうとしたが、その真剣な顔を見て辞める。
まだ音は出てないけど、『演奏中』ってことなんだろうな。もう私語を挟む空気じゃない。
指揮者の指揮棒が振られ、音が生まれた。
音楽が始まった。でも、俺はどう聞けばいいのか分からなかった。気分はすっかり迷子だ。
どれが主旋律なのかも分からない。
それでも、奏者たちが一斉に弓を動かすと、音が一本ずつじゃなく、ひとつの大きな塊になって押し寄せてくるのが分かった。
俺は背もたれに預けていたはずの体を、いつの間にか起こしていた。
肩にバイオリンを載せている人達、デカいバイオリンを膝に抱えている人達、見た目は全く違うのに、全員が同じ方向へ呼吸して、舞台全体がひとつの生き物になったみたいだった。
合唱が入った瞬間、胸の内側に何かよく分からない感情が湧いてきた。
歌詞のラテン語なんて当然意味は分からない。
言葉の意味は分からないのに、そのメッセージだけは伝わる。
悲痛な赦しを求める声。誰か一人の叫びじゃない。
舞台の上で何十人、何百人が、同じ一点に向かって必死に手を伸ばしているように幻視した。
そのまま、気づけば時間が抜け落ちていた。途中の細部は思い出せない。
覚えているのは、弓が一斉に跳ねた瞬間、合唱が息を吸って止まった瞬間、客席が完全に無音になった瞬間。
演奏中の何個かのシーンが胸に刺さっていて、その間は全部、熱に溶けたみたいに消えている。
長いはずの曲が、体感では数分程度に思えた。
終わっても、すぐには手を叩けなかった。周りが立ち上がって拍手しているのに、俺だけ置いていかれたように、座ったままだった。
初めてのコンサート、俺は衝撃を受けていた。
少し嬉しそうな先輩が顔を覗き込み、感想を求めてきたので、一言だけ呟いた。
「……すごかったです」
「流石、日本最高のオーケストラ、って感じだったでしょ」
拍手が続く中、舞台ではなぜか奏者や指揮者が舞台袖に出たり入ったりしている。
なんで、何度も舞台袖に戻ってるんだろうか。
先輩によるとこれは「カーテンコール」という儀式らしい。
ようやく呼吸を思い出して、荘厳な演奏とその奇妙な動きのおかしさの対比に、ちょっと笑ってしまった。




