90. 中途半端な夫婦 後編
ある夜、テレーズが天蓋のカーテンを開けると、寝所は真っ暗だった。
まだ夜中。
どうりで、隣に従兄がいるはずだ。
寝台の横にあるテーブルに、水差しが置かれている。すぐに水を飲みたいが、起き上がるのは暗闇に目が慣れてからだ。
再びシーツに体を沈めた。
何とはなしに隣を見れば、従兄の背中がある。
あまりにも分かりやすい拒絶の意思表示。
テレーズの胸に、相反するふたつの思いが渦巻いていた。
ひとつは、一向になすべきことをしない従兄に対する恨めしさ。
もうひとつは、自責の念。
ミタウに来るまでのテレーズは戦略家を気取っていた。今にして思えば、小娘の思い上がりだった。
その結果が、今。
アングレーム公は、テレーズを不幸にしている加害者ではない。むしろ巻き添えになった被害者だ。
「ごめんなさい」
背中に向かってこぼした言葉は、ふたつの思いのうちの後者。
だが、これでは謝罪になっていない。
伝える相手は眠っている。もし起きていたとしても、今の一言だけでは、何に対して謝っているのか分からない。
やりきれなくなって寝台から離れた。もう目は暗闇に慣れている。
水差しを倒さないように、気をつけながら持ち上げた。
ところが、いやに軽い。
少し振ってみるが、水の音はしない。
こんな時に限って水が切れている。補充をする当番が忘れているようだ。
朝になれば、女官が起こしに来る。それまで待とうか悩んだものの、喉を潤さないと寝つけそうになかった。
呼び鈴を鳴らすと、従兄が起きてしまう。
近くの部屋に、夜の番をしている女官が控えているはず。水が欲しいと直接頼みに行こう。
寝所から出て、暗闇の中を二歩三歩進む。
だが少し歩いたところで、その場から動けなくなった。
今、あいつの鳴き声がした。
姿は見えないが、間違いない。
テレーズはすぐさま寝所に戻った。
急いで扉を閉める。あいつが扉の隙間から入ってきたら一大事だ。
「どうした」
従兄の声。天蓋の下から、彼が身を乗り出している。
テレーズは、わらにもすがる思いで駆け寄った。
「ネズミよ」
「……ネズミ?」
「部屋を出たところで、鳴き声がしたの」
従兄は大きなため息をこぼす。
「ネズミなんて、どこにでもいるだろう」
「それはそうだけど」
「一匹いれば数十匹はいる」
「気色悪いことを言わないで。眠れなくなるじゃない」
彼が呆れた様子で言うことを、テレーズは早口で遮った。
「苦手なのか?」
そうだとテレーズは答える。
「待っていろ」
彼が寝台から降り、眼鏡をかける。
扉の方へ向かう背中を、テレーズはとっさに呼び止めた。
「開けたら、すぐ閉めてね」
「どうしてだ」
「扉の隙間から入ってくるかもしれないわ」
「そこまで神経質にならなくても」
テレーズは無言のまま、首を激しく左右に振る。
「……分かった」
彼は不機嫌そうに答え、寝所から出ていく。ばたんと勢いよく閉まった音は、素早く閉めたからか、夜中に起こされた苛立ちか。
しばらくして戻ってきた。出ていった時と同じように音を立てて。
彼が言うには、ちょうど夜の見回りをしている臣下がいたので、事情を話した。
ただ、今は夜中。捕獲するのは無理とのこと。
つまりは、もう二度と遭遇しないことを願うしかない。
「ところで、君は部屋を出ようとしたのか」
そう言われ、喉が渇いていたことを思い出した。
「気にしないで。もう平気だから」
「用を足したかったのか?」
「違うわ。水を飲みたかったの。水差しが空だったから」
「なら持ってくる」
テレーズが返事をする前に、彼はまた寝所を出ていく。
そして、水差しを持った女官と共に戻ってきた。女官は、水の補充をし忘れていたことを詫びて、退室した。
「ほら」
彼はコップに水を注ぎ、こちらに差し出す。
「ありがとう」
先ほどテレーズは平気だと答えたが、実のところ遠慮していた。
思いがけない従兄の気遣いに感謝しながら、ようやくありつけた水で喉を潤した。
「あなたって、手が冷たいわね」
コップを受け取った時に伝わった、ひんやりした感覚。結婚式で指輪の交換をした時にも思ったことだ。
「もしかして、寒いの?」
「いいや。今は夏だろう」
「どこか具合が悪いの?」
「体質なんじゃないか」
「体質?」
「よく痩せすぎだの、血色が悪いだの言われる」
「それはそうよ。私だって、食事の席であなたを見ていて思うもの。少食すぎやしないかって」
話しながら、テレーズはコップに口を付ける。
「陛下のような大食漢と暮らしていると、ああはならないようにしようと思って、食が細くなったのかもしれない」
口に含んだ水が喉に詰まり、むせた。
彼の言葉数がいきなり増えたことに驚いたが、それ以上に、発言内容が笑いを誘った。
「大丈夫か?」
「だ、だって……あなたが、笑わせるから……」
「私が、いつ君を笑わせた」
彼は真面目な口調で返す。それが余計におかしく聞こえ、テレーズはむせながら笑いが止まらなくなる。
腹を抱えるほど笑ったのは、いつぶりだろう。
今夜の従兄は、テレーズを驚かせ、笑わせる。珍しいこともあるものだ。
テレーズの笑いは、ほどなくして収まった。
その間に、彼は寝台に寝そべっていた。
「よく見ると可愛い顔をしているのに、そんなに怖いのか?」
可愛いとは、何に対する言葉なのか。
考えられる答えはひとつしかないが、一応確認しておく。
「何が?」
「ネズミが」
テレーズが覚えている限りでも、彼から可愛いと言われたことは、子供の頃でさえ一度もない。
彼にとってのテレーズは、ネズミ未満の存在。どうりで一緒に寝ていても、まったく手出しをされないわけだ。
「君はこれまで、今みたいな時にはどう対処していたんだ」
「今みたいな時って?」
「その、あれだ……人に頼めない時も、あったんじゃないのか」
奥歯に物がはさまったような尋ね方で、彼が言わんとしていることは分かった。
「ウィーンにいた頃は、幸い、自分が寝ている部屋でネズミに遭遇したことはなかったわ」
テレーズが先ほど呼び鈴を鳴らさなかったのは、彼を起こしたくなかったため。ネズミが出没したおかげで、結局起こしてしまったが。
そもそもウィーンにいた頃、夜中に一人で部屋から出ていこうとすれば、咎めを受けただろう。昼だろうと夜中だろうと、女官の付き添いがないと、自分の部屋から出てはいけなかったのだ。
それよりも前、タンプル塔にいた頃は。
出来るだけ深刻な話にならないよう、言葉を選んで話した。
「タンプル塔にもいたわよ。小さい体でちょこまかと動いて、部屋の隅にある穴から、好きなところへ行けて。それに引き換え、私は監禁されたまま一歩も外へ出られないの」
話していると、否応にも当時のことがよみがえる。
「あいつらの気配がするたびに、ネズミにまで馬鹿にされている気分になったわ。だから、怖いとは違うわね。憎ったらしいのよ」
誰にでも何にでもいいから、すがりたい。
だが、それではだめだと、心の中で自分を叱る。
甘えてはいけない。闘うための結婚に、甘えは要らないのだ。
こちらが話し終えても、従兄からの言葉はない。
テレーズにとっては、それでよかった。知ったような口ぶりの慰めをもらっても、むなしい気持ちになるだけだ。
「悪いことをしたわね、夜中に起こしてしまって。もう寝ましょう」
飲み終えたコップを置き、再び彼に背を向けた。
翌朝、テレーズが再び目を覚ました時、隣はもぬけの殻だった。
この宮廷では、毎朝ミサが執り行われる。
王の部屋の近くに祭壇を設け、礼拝堂として使用している。他でもない王が、自立歩行に難儀しているからだ。
その影響でか、ミタウ宮殿に元々ある礼拝堂にはあまり人が来ないのだと、以前マリ神父が話していた。
この日のミサの後、テレーズは王に呼び止められ、部屋に来いと言われた。
「昨夜も、何もなかったそうだな」
嘘を吐いても意味はない。寝台は毎朝、女官が整える。
「気力のない顔をしおって。ヴェルサイユで蝶よ花よと愛でられていたマダム・ロワイヤルも、すっかり落ちぶれたものだ」
テレーズから気力を奪っている張本人が、この物言い。
「少しは、そなたの方から行動を起こさないか」
「具体的にどうしろと?」
こちらが聞き返すと、にわかに王の目つきが変わった。姪の全身をジロジロと見るようなものに。
「まずは笑え。それから化粧をしろ」
確かに、テレーズはウィーンにいた頃と比べて、身なりに手を抜いている。化粧をするのは、訪問客が来たときくらいだ。
高齢者ばかりの宮廷。なおかつ自分の部屋にこもることが多い。普段から綺麗でいようとする気がなくなった。
「大体、なんだその頭は」
王がこちらを指さす。テレーズの顔よりも、さらに上の方。
「髪に何もつけず地毛のままで過ごすなど、だらしがない。そなたにしろアングレームにしろ、あとそなたが連れてきた女官にしろ、若い者はそろいもそろって革命家の真似事か」
テレーズの髪は、ブロンドを簡単にまとめて結い上げているだけ。
従兄についてはいざ知らず、ショワジー嬢も地毛のままなのだから、これに関しては革命支持うんぬんという話ではない。
それなのに、今でもかつらと髪粉を手放さない王の目には、だらしがない髪型で、革命家の真似事に見えるらしい。
王の言うことは、テレーズを不快させるばかり。
とはいえ、今指摘されたことは的外れとも言えなかった。
愛嬌を忘れず、外見にも気を遣う。それを怠っているようでは、夫からネズミ未満の存在と見なされるのも無理はないかもしれない。
そこへ、臣下の一人が訪ねてきた。王に話があるという。
テレーズは入れ替わりで退室しようとするが、
「宮殿じゅうのネズミを駆除しろと、アングレームが命じたのか」
「はい、一匹残らず」
部屋を出る間際、聞こえてきた会話に足を止めた。
「何を突然。そんなこと、あの者はこれまで一度も申したことはなかったぞ」
「いかがいたしましょう」
「放っておけ。すべてを駆除など出来るわけがあるまい」
「しかし、一匹いれば数十匹は」
「朝から気色悪いことを申すな」
アングレーム公は今どこにいるのだろう。すぐにでも会って、話がしたい。
テレーズが向かった先は、彼の部屋。気持ちが急いて早足になる。
部屋に行ったが、彼はいなかった。
その場にいた臣下に尋ねれば、たった今、外へ出ていくと言い残したという。
テレーズはきびすを返した。
正面入り口に行くと、向こうに見つけた。遠ざかる彼の背中を。
後を追って、テレーズも外へ出る。近くにいた守衛に引き留められそうになったが、立ち止まる代わりに、こう返事をした。
「必ず戻るわ。旦那様と話がしたいの」
朝日に照らされる赤みがかったブラウンの短髪、ひょろっとした小柄な背中、地味な色の服。
その後ろ姿に向かって、しゃがれた声を張り上げた。
ありがとうの言葉を伝えるために。
【90. 中途半端な夫婦 後編】
≪補足≫
主人公をメインに扱っている文献は、ママ王妃をメインに扱っているものに比べると数は少ないものの、何冊かあります。
それらの文献において、結婚後の主人公については、おおむね以下のように述べられています。
『ミタウに到着した当初こそ生き生きしていたマリー・テレーズであったが、結婚式の後、明るさを失くしていった。
その原因はアングレーム公にある。
彼は魅力皆無な男であったうえ、治療困難のED。子供を授かれないことが分かりきっていた。
ルイ十八世は、甥の身体的欠陥を知っていたうえで、憎き兄夫婦の娘に、彼のことを押しつけたのだった』
この下品なゴシップについては、のちほど考察しましょう。
本作では、以下のような解釈で話を進めています。
『主人公を苦しめていた主要因は、ルイ十八世による精神攻撃。
アングレーム公との(現時点では空虚な)結婚生活は、二次的な要因に過ぎない』




