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91. 言葉にはしないこと en 1799

 アングレーム公が弟と最後に会ったのは、昨年の秋。遠征中のコンデ軍が、ミタウに立ち寄った時のこと。


『兄上にだけは、先にお伝えします。参列する親族は一人減ってしまいますが、結婚式を欠席させてください』


 従妹との結婚がいつになるか、この時点では未定だったが、弟はすでに欠席を決めていた。

 理由は、


『マダム・ロワイヤルと会ったら、私はきっとフィリピーヌのことを尋ねてしまいます』


 ティニという愛称で呼ばれていた少女。

 弟の口から、その本名が出てくるのは、いつぶりだろう。


『今はどこにいるんだ、どうして一緒じゃないんだと。手紙を書くぶんには自制できても、直接会えば、自分を抑えられなくなるでしょう』


 ですから、と弟は続けた。


『純情な少年時代の恋を完全に忘れられる時が来るまで、もうしばらく時間をいただけますか』


 ヴェルサイユを離れる時、弟はエルネスティーヌに言った。一緒に来てほしいと。だが振られてしまった。

 弟は泣きながら出立の馬車に乗り込んだが、母の実家に到着する頃には、立ち直っていた様子だった。


 亡命生活の中で、自分たち兄弟は離れていた期間が長かったが、弟の評判はアングレーム公の耳にも届いていた。

 若い頃の父に似て、女の尻を追いかけているという話を。


 身分違いの初恋のことを、弟はとうに忘れている。てっきりそう思っていた。

 だがそれは違う。

 本当はまだ忘れられないでいるのだ。十年近く経った、今でも。





 八月、ある早朝。

 眠っている従妹をそのままにして、アングレーム公は寝所を後にした。


 結婚式から、もうすぐ二ヶ月。

 夫婦としてなすべきことは、今もしていない。


 太陽の下、代わり映えしない風景の中を歩く。

 朝の散歩ルートは決まっている。雑木林を抜けて川辺に出て、島の中をぶらぶらしてから建物に戻る。供を一人連れているが、気持ちとしては自分一人でいるようなものだ。


 ただ、この日は珍しいことがあった。


 帰り道、正面入り口まで来ると、従妹とその女官の姿があった。

 そばにいたココが、飼い主の元を離れて、こちらにやって来る。今日はリーシュが付けられていない。


「ほら見て。アングレーム公を見つけて、ココが喜んでいるわ」

「は、はあ……」


 従妹の弾んだ声とは対照的に、ショワジー嬢はあいまいな返事をする。


 ココより少し遅れて、彼女たち二人も、こちらに来た。


「外に出ていたのね、アングレーム公」

「どうしたんだ」

「あなたを探していたの。朝のうちに伝えたいことがあって」

「伝えたいこと?」

「今日はあなたの誕生日でしょう」

「え?」

「え、じゃなくて」


 こちらが驚いて聞き返すと、従妹はおかしそうに笑った。

 声が変わってしまっても、その笑顔には子供時代の面影がある。

 タンプル塔ですり替えられた偽物だという話は、単なる噂に過ぎないのだと、アングレーム公に確信させてくれる表情。


「八月六日。今日で二十四歳」


 そう言われて、ハッとした。

 自分でも忘れていた。


「知っていたのか」

「というより、覚えていたわ」


 当日に人から祝いの言葉をもらうのは、何年ぶりだろう。


「朝のうちに言おうって、昨日から決めていたの。それなのに、今朝も起きたら、あなたがいないんだもの」

「……そうか」


 嬉しい。だが素直に喜べない。


 従妹にとってのアングレーム公は、子供の頃に好きだった相手。だからこそ誕生日を覚えていたのだ。

 互いの子供時代は、とうに終わっているのに。


「ココも、おめでとうを言いたがっているわ」


 尻尾を振りながら、ココはこちらを見上げている。


「撫でたいけど遠慮してるって、あなたの顔に書いてあるわよ」


 複雑な思いはひとまず脇に置き、従妹の言葉に甘えることにした。人の視線を感じるとやりづらいが、それでも地面にしゃがみ、ココに触れた。


 下あごや耳の付け根を撫でると、つぶらな瞳が細くなる。その姿が、アングレーム公のほろ苦い気持ちを和らげる。


「ココは私の部屋にいるから、会いたくなったら、昼間でも来ていいのよ」


 寝る時でなくても、部屋に来ていいと従妹は言う。


「……ああ、そうだな」


 行く、とは答えられない。




■■■




 テレーズは部屋にこもっている間、もっぱら読書か刺繍をしている。

 日が出ている時間が長いほど、夕方遅くまで明かりは必要ない。なかば引きこもり状態のテレーズも、少しではあるが、太陽の恩恵を受けていると言えるだろう。


 とはいえ、夏至をピークに日は短くなる。

 八月後半になると、朝晩は肌寒く感じることが増えた。夏が終わりに近いのかもしれない。




 この日の昼も、テレーズは部屋で読書をしていた。

 そこへショワジー嬢が来て、目の前にあるテーブルに茶器を置いた。


「今日は何をお読みですか」

「クールラント公国の歴史よ」


 テレーズが一旦本を閉じると、彼女は表紙をのぞき込んだ。


「フランス語の本ではないのですか?」

「ええ。ドイツ語を勉強しておいてよかったわ。そうでないと、こうした本は読めなかったもの」


 今は亡き国クールラント公国。ミタウはその首都だった。

 ロシア領になったとはいえ、クールラントの支配階級はロシア人になったわけではない。かねてからドイツ人だ。

 そのため、ミタウではドイツ語の書籍が多く流通しているのだと、ユー男爵が話していた。


 ところで、テレーズが今読んでいた本は、クールラント公国の歴史について書かれている。

 それによると、


「遠い昔、まだ宗教改革も始まっていない時代。バルト海の東岸に暮らしていた先住民は、長らく異教徒だったの。そこへ、先住民を改宗させるという使命のもとドイツから移り住んだ人々がいて、その後に入植者が続いたのよ」

「もしかして、ミタウの貴族がドイツ人なのは」

「そう、彼らは入植者の子孫なの」

「知りませんでした」

「他にも、面白いことが書かれてあったわ」

「どのようなことですか」

「公国の歴代君主の中には野心的な人もいて、西アフリカやカリブ海に植民地を建設しようとしたんですって」

「そんな遠いところに?」


 ショワジー嬢は目を丸くする。


「もっとも、その努力は実を結ばなかったみたいだけど」

「想像も出来ません。アフリカや新大陸だなんて、フランスよりもはるか遠い世界ではありませんか」

「そうしたことが出来るほどの力があった。当時が国の最盛期だったのよ」

「でもクールラント公国という国は、もうなくなってしまったのですよね」

「バルト海の周辺には、大国がひしめき合っていたから、その中で生き残るのは大変だったんでしょうね」

「ひしめき合っていたということは、何ヶ国も大国があったということですか?」

「ええ。ポーランド、リトアニア、スウェーデン、ロシアといった国々が、バルト海の東岸をめぐって抗争を続けてきたの」


 これらの国々の中で、今も大国でいるのはロシアくらいだ。

 ポーランドとリトアニアは、紆余曲折の末ひとつの国になったものの、分割により消滅。スウェーデンにしても、バルト帝国を築いた時代は、もう昔のことだ。


 ショワジー嬢は、フランス以外の国の歴史にあまり詳しくないようなので、テレーズは彼女にも分かるよう平易に説明した。


「テレーズ様は歴史にお詳しいのですね」

「ええ、歴史は好きよ。子供の頃、父がよく教えてくれたわ」

「父、ですか?」


 彼女は不思議そうに聞き返す。


「ええ、私の父よ」

「陛下ではなくて?」

「違うわよ。フランスにいた頃、プロヴァンス伯とはあまり接点がなかったもの」


 まあ、と彼女は驚いたように言う。


「てっきり陛下からご教示されたことだと思いました。姪であるテレーズ様を我が子のように慈しまれ、そのうえ、あんなにも教養のあるお方なのですから」

「……そうね」


 彼女の反応に、テレーズは心の中で眉をひそめた。


 テレーズがルイ十八世の信奉者でいるのは、あくまで表向き。対するショワジー嬢は、正真正銘の信奉者になっているのではあるまいか。


 彼女はヴェルサイユやパリで起こったことを知らなければ、テレーズの両親とも面識がない。

 死者は言葉をつむげないが、生きている者は言葉をつむげる。自分にとって都合のいい話を残すのみならず、死者の名誉をいくらでも辱めることが出来るのだ。


 嫌なことを考えてしまいそうになる。気を紛らわせるべく、本と向き合った。

 なおテレーズが本とにらめっこを始めるのは「読書に集中したいから退室して」という合図。


 視界の端で、ショワジー嬢が一礼し、部屋を後にした。


 しばらくして、テレーズはふと窓の外を見た。

 先ほどまで晴れていたが、曇り空になっている。


(アングレーム公が帰ってくる前に、降り出さないといいけど)


 彼は今日、狩猟に出かけている。

 この近くには狩猟に適した森がないらしい。従兄と従者たちは、獲物を求めて遠い場所まで足を延ばしているのかもしれない。




 心配していたとおり、雨が降り始めた。

 夕食の時間になり、テレーズは王と共に食卓に着いた。従兄はまだ帰ってきていない。


 そこへ、ユー男爵が姿を見せた。服も頭もびしょ濡れだ。

 彼も狩猟の従者だったようだが、従兄や他の臣下の姿がない。


「雨脚が強くなったので、こちらに帰るのは断念しました。近くに地元貴族の屋敷があり、殿下は今晩そちらにお泊まりになります。供の者も滞在の許可をもらいました」

「なんだ、心配させおって」


 王は呆れつつも、胸をなで下ろしている様子だ。


「事情は分かったから、そなたは早く着替えてこい。床が濡れてしまう」

「失礼しました」


 男爵は一礼して王の元を離れ、今度はテレーズの方に来た。


「妃殿下、このような格好でお許しください」

「何かしら」

「まず伝えるようにと、殿下から申しつけられていることを」


 従兄からの伝言。それは、


「本当は帰りたかった。だが雨の中で馬を急がせて、落馬したくなかった」


 それと、と男爵は続ける。


「今夜は一人にさせてすまない、と」

「……アングレーム公が、そう言っていたの?」


 驚きのあまり、テレーズは反応が遅れた。


「はい、間違いなく」


 男爵の目尻に皺が寄る。彼は微笑ましいものを見るような表情を浮かべ、その場を後にした。


 アングレーム公が今夜帰ってこない。その知らせに、テレーズがまず感じたのは、寂しさ。

 そして、その気持ちが自分の胸に生まれたことが、大きな驚きだった。




【91. 言葉にはしないこと en 1799】


≪おさらい≫

・フィリピーヌ:ティニの本名。

・エルネスティーヌ:ママ王妃が付けた名前。ティニはその愛称。

 詳しくは第13話にて。



≪クールラント公国について≫

 今回の話で言及された支配階級とは、バルト・ドイツ人。ロシア人に取って代わられるのは、さらに後の時代です。

 作中で名前が出てくる国の中で、最もマイナーなクールラント公国。その詳細については、参考文献で挙げた『バルト三国の歴史』『バルト三国歴史紀行Ⅱ ラトヴィア』『Mana Jelgava』を元にしました。



≪先住民を改宗させるという使命のもと≫

 主人公が説明したことの補足。

 史実に関していうと、先住民に対して、入植者はかなり暴力的な手段を用いており、また段々と宗教的な動機は薄らいでいきました。

 作中で主人公が読んでいたのは、入植者の子孫が書いた本なので、祖先がやった汚いことは書かれていないはず。そうした点を踏まえて、今回の話を書きました。

 ただ付け加えておくと、この手の話は、バルト・ドイツ人に限ったことではありません。

 古今東西歴史あるある、といったところ。


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