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88. ショワジー嬢の理想と現実 後編

 ある朝、アンヌは、ちょっとした事件の話を聞いた。


「陛下の御前(ごぜん)で、ココが粗相を?」

「ええ。しかも結構いい値のする敷物の上でね。私から謝ったんだけど、陛下のお怒りは静まらなくて」

「まあ」

「ココはもう老犬だから、トイレを我慢できなかったのかもしれないわ」


 それは昨日起こったこと。折しも、アンヌの勤めが休みだった日の出来事。


 我が女主人が言うには、王の御前でなかろうと、今後は出来るだけココから目を離さないでおきたい。また同様のことが起こらないように。


「今日は、昼から訪問客をもてなさないといけないの。いつ終わるか分からないから、その間ココのことを見ていてちょうだい」

「かしこまりました」


 今日の訪問者は、ペテルブルクに暮らすエミグレ。ルイ十八世に謁見するため、はるばるミタウまでやって来たという。



 昼前に支度をする我が女主人。アンヌはそれを手伝う。

 身づくろいをしている間、我が女主人は、ずっと浮かない顔をしている。せっかく着飾っても、これでは化粧も服も装飾品も、彼女の魅力を引き立たせない。


 彼女のこうした様子は、今日に限ったことではないが、原因はアンヌにも察しが付いている。

 書面上のみの夫があまりに不格好ゆえ、その隣に並びたくないのだ。



 暗い顔をする我が女主人を送り出した後、アンヌはココと留守番。


 実のところ、今日のアンヌには口惜しいことがあった。


 ミタウに来てからというもの、ひそかな楽しみが出来ていた。王が語る革命前や革命期にまつわる話に、耳を傾けることだ。

 我が女主人のそばに控えていれば、話を拝聴できるが、今日はその機会を逃してしまった。


 王の語り口は面白い。聞いているとすぐ話に引き込まれ、聞き飽きることがない。


 ダヴァレー伯が言うには、ルイ十八世はまだ少年だった頃から大変な秀才として知られていた。その非凡な頭脳は、早くに亡くなった父親や、家庭教師からも一目置かれていたという。


 あいにく王には実子がいない。

 だが自分の甥や姪のことを、我が子同然に慈しんでいるという話だ。

 優しいばかりでなく、時々きつい物言いもするが、それも父性愛の表れなのだろう。


(プロヴァンス伯が早くに王位に就いていれば、フランスはあんなことにならなかったはずだわ)


 そしてまた、


(革命が起こった途端、すぐさまフランスから逃げおおせた甲斐性なし二号とは大違いね)


 こう思ってやまない。


 ココを見守りつつ、退屈な時間を持て余す。

 しばらくして餌の時間になった。


 指示されている分量を、ココが愛用している器に盛る。老犬なので量は少なくていい。


 年をとると体力が衰えるのは、犬も人間と同じ。現にココは食べるのが遅い。また階段の上り下りにも時間がかかる。そのため我が女主人の部屋は一階にある。


 アンヌは老犬姿のココしか知らない。そう思うと損をしている気分だ。なにせ犬は、子犬の頃が一番愛らしいのだから。


 ココの食事が終わるのを待ちながら、何気なく窓の外を見た。

 今日は雲ひとつない青空。


 そうだ、日向ぼっこをさせよう。

 我が女主人は、部屋にこもることが多いため、ココの散歩はいつも室内。

 だがずっと部屋の中にいるより外へ出した方が、ココにとっても気分転換になるはず。


 食事の後、ココに首輪とリーシュを付ける。正面入り口からではなく、裏口から外へ出た。




 アンヌの頭上にあるのは、まだ高い位置にある太陽。

 日差しがまぶしい。日傘を持ってきてよかった。


 足元では、ココが熱心に地面のにおいを嗅いでいる。


 においを嗅ぐことは、犬にとって何らおかしな行為ではない。

 だがそれにしても、今のココは室内にいた時と様子が違う。にわかに活力を取り戻したかのような。

 飼い主のことを探しているのだろうか。

 我が女主人は、まだ王や訪問客と一緒にいるはずだ。


 ひとまずココの好きなようにさせた。


 熱心ににおいを嗅ぎながらも、ゆっくりと歩くココ。

 アンヌはそのペースに合わせて歩きながら、改めて辺りの風景に目を移した。


 宮殿の周りは雑木林。英国式庭園と呼ぶには、さすがに無理がある。


 こんな辺鄙(へんぴ)な場所ではなく、本場ヴェルサイユの庭園を見てみたい。またプチ・トリアノンの小農村も。

 いいや、庭園だけではなく宮殿そのものを。

 そこで営まれる、王侯貴族の優雅な暮らしを。


 アンヌはフランス貴族でありながら、生まれた国で過ごした記憶がほとんどない。だからこそ、ヴェルサイユという地は永遠の憧れなのだ。


 遠い世界に思いを馳せていたが、リーシュを引っ張る感覚で、我に返った。


 ココが先に進みたそうにしている。一歩一歩のんびり歩いていたのが、打って変わってアンヌを急かすように。


 どこへ行くつもりだろう。この宮殿の周りには守衛がいるものの、あまり遠くへは行けない。犬の散歩とはいえ、貴族の若い娘が一人で外を歩くのは、昼間であっても危険なことだ。


 すると、前方から見知った人物が二人、こちらに歩いてきた。


(甲斐性なしと、ユー男爵)


 若い青年王族と中年の従者。ただ青年の姿が野暮ったいせいで、二人とも従者に見える。


「これは、ショワジー嬢」


 男爵がにっこりと笑いかける。もう片方は、無表情のまま何も言わない。


「ココの散歩ですか」

「はい。妃殿下から、お世話をするようにと、おおせつかっています」


 そこでアンヌは、はたと気づいた。


「アングレーム公は何故こちらに。謁見に来た方々をもてなされているはずでは?」

「ああ、それはですね……」


 男爵が言いづらそうに答える。


「殿下も、先ほどまでご一緒されていたのですが、外して構わないと陛下がおおせられて」


 そこまで聞いて、アンヌにも分かった。

 こんな木偶坊(でくのぼう)の小男がいても歓談の場が白けるため、用済みにされたのだと。


「そ、それはそうと、今の季節は太陽がよく顔を出しているので、日光を浴びておくのは大事なことですよ。冬になると日が短くなりますからね」


 いきなり話題が変わった。この場に木偶坊本人がいるので、男爵が気を利かせたようだ。


「ミタウの冬は、やはり寒いのですか?」

「もちろん。ただしロシア領内でも、この地の気候は温暖な方。さらに内陸へ行くと、寒さが一段と厳しくなるそうです」

「まあ、想像も出来ません」

「と物知りぶってはみましたが、私の知っている冬は、昨年から今年にかけてだけ。今の話は、現地で知り合った人から聞いた話です」

「あら、そうなのですか」


 この宮廷に仕える人々の中でも、ユー男爵は気位が高くなくて話がしやすい。おかげで会話が弾んだ。



 どれくらいの時間、その場に留まっていただろう。


 ふと思い出した。ココの散歩中だったことを。

 足元に目を移すと、そこには思いもよらない光景があった。


 アングレーム公が地面にしゃがみ、ココの下あごを撫でている。彼の表情は満面の笑み。

 さらには、ココがいつもより元気に尻尾を振っている。アングレーム公に構われて喜んでいるかのように。


「殿下は、奥方の愛犬に懐かれているようですね」


 男爵の言葉に、顔を上げたアングレーム公。たちまち、いつもの表情に戻った。

 彼はすぐに立ち上がらず、そのままの姿勢でこちらを見上げる。

 アンヌは必然的に、彼を見下ろす形になった。


 ややあって彼は気まずそうに視線を外し、おもむろに立ち上がる。何も言わずに、建物の方へと歩いていった。


「殿下は人見知りをされることがあります。あなたのような妙齢の女性だと、特にそうみたいで」


 では私も中に戻ります、と言い、男爵はアングレーム公の後を追った。


 アンヌは思った。

 何故あんな男が、我が女主人の夫なのか。元より、フランス王家の王族なのかと。


 また他にも思うことがある。

 何故だかココが、建物に戻りたそうにしている。先ほどは遠ざかろうとしていたのに。


 アンヌが男爵と話している間、リーシュを持つ手にほとんど力を感じなかった。

 ココがその場を離れようとしなかったのは、アングレーム公に構われていたから。

 そして今のココは、あたかも彼ら二人の後を、というよりアングレーム公の後を追おうとしているかのようだ。


 男爵が言っていた。殿下は奥方の愛犬に懐かれている、と。この言葉は冗談ではなく、本当のことだったのか。


「あの男は、あなたの飼い主様を不幸にしている男なのよ?」


 アンヌが話しかけると、ココはリーシュを引っ張りながら、顔をこちらに向ける。


「あの男のせいで、あなたはテレーズ様と同じ部屋で寝られなくなったのよ?」


 犬は人間の言葉を理解できない。それは百も承知だが、口に出さずにはいられなかった。




【88. ショワジー嬢の理想と現実 後編】


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