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87. ショワジー嬢の理想と現実 前編

 従兄と過ごす、二日目の夜。

 寝所に彼が来た時、テレーズは彼に謝った。昨夜の自分が、しでかしたことを。

 彼はぶっきらぼうに答えた。気にしていないと。


 この夜、自分たちは同じ寝台に入った。

 ところが、彼は何もしなかった。





 それ以降も、テレーズと従兄は清いまま、かれこれ一ヶ月が過ぎた。


「明かりを消すわね」

「ああ、構わない」


 テレーズの隣に寝そべった従兄は、抑揚のない声で答える。


 彼は日中、眼鏡をかけているが、寝る前は外す。

 すると途端に目つきが悪くなる。

 明るい時間帯ならまだしも、暗がりでこの顔を向けられると、少し怖い。


 本人が言うには、裸眼で物を見ようとして、この顔になるらしい。


 暗闇に目が慣れる頃、テレーズが隣を見れば、決まって従兄の背中がある。彼がこちらを向いて寝ることはない。


 気にしていないと言っていたが、絶対に怒っている。今もって何もしてこないのは、テレーズがあんなことをしたせいだ。

 また別の理由があるとするなら、


(あの話は、やっぱり本当だったの?)


 今テレーズの隣に、他でもない本人がいる。

 直接尋ねればいい。


 だが下手をすれば、失礼なことを尋ねてくる女だと思われて、今以上に彼を怒らせてしまうかもしれない。

 彼が機嫌を損ねている状態では、自分たちの結婚は完遂しないままだ。


 悶々と考えるうちに眠りに落ち、気づけば朝になっている。

 目覚めると、いつもそこにはテレーズ一人しかいない。隣はもぬけの殻。


 従兄はテレーズより早起きなのだろう。

 いいや、違う。

 テレーズの元から早く離れたいがために、彼は寝所から抜け出しているのだ。




■■■




 アンヌは鬱々とした日々を過ごしていた。

 悩みの種は他でもない、我が女主人の結婚のこと。


(朝にはすべて終わっています、なんて言わなければよかったわ)


 アンヌが恨み言をぶつけたい相手は、助言をくれた実家の母ではない。他でもないアングレーム公だ。


 何もなかった初夜から、早いもので一ヶ月。

 いまだ結婚は完遂されないまま。


 やはり、あの話は本当だったのだ。結婚式の前日に偶然耳にした、例の話。


 実のところ、ミタウに来る前からアンヌもいくらか聞き及んでいた。我が女主人の両親にまつわる、痛ましい結婚の話について。


 広く知られた内容はこうだ。

 ルイ十六世は、王太子時代に結婚したものの、その結婚は何年経っても完遂されないままだった。

 原因は、他でもない夫の側にあった。

 彼は下半身に「欠陥」があり、性的不能だったらしいのだ。

 外科手術とやらをすれば、解決できたという。ところが、肝心の本人が体にメスを入れる勇気がなく、世継ぎを残すという務めから逃げ続けた。

 ヨーゼフ二世がウィーンからはるばるヴェルサイユまで来て、甲斐性なしの王のことをせっつくまで、そんな状態だったという。


 さすがは革命という国の大事を前にしても、何ひとつ適切な対処が出来ず、家族も王政も救えなかった君主。即位前から、このありさま。


(テレーズ様の前でこんなことは言えないけど、彼は処刑されて当然だったわ)


 ブルボン王家の支持者の間でさえ、こう考えている人は少なくないだろう。


 とはいえ、処刑されたのが暗君一人だけなら、まだよかった。

 こんな男と結婚させられたがために、不幸な女性となったマリー・アントワネット。

 彼女や、その子供たちが可哀相でならない。


 不幸な結婚が生んだ、女の不幸。

 その不幸は一代限りで終わっていない。

 娘の代でも、同様の不幸が繰り返されようとしている。


 我が女主人は、聞き及んでいる限りでも、子供の頃からあれだけの不幸に見舞われてきた。父親があんな暗君だったばかりに。

 そのうえさらに、父親と似たような男が、結婚相手になってしまったのだ。


「これが神の定めたこととはいえ、いくら何でもあんまりです」


 アンヌが今いる場所は、ミタウ宮殿の礼拝堂。会衆(かいしゅう)席の長椅子に座り、祭壇の前に立つ男性に話を聞いてもらっている。


 司祭服に身を包み、こちらに背を向けている初老の男性。

 彼は、宮廷司祭のマリ神父。


「マリ神父は、妃殿下から何かうかがっていませんか」

「あいにく、答えかねます」


 マリ神父は穏やかな声で、こちらを振り返らずに答える。向かい合って話をしないのは、女性信徒に対して距離を保つため。


 尋ねても教えてもらえない。アンヌは肩を落とした。


 なんでもマリ神父は、アングレーム公が子供だった頃に、その家庭教師を務めていた。彼のことは、幼少期からよく知っているという。

 だからといって、アングレーム公の子供時代の話を、アンヌは詳しく知りたいと思わない。微塵の興味もない。


 ルイ十八世も、どうしてあんな男を結婚相手として宛がったのか。

 そう思うと、亡命宮廷の王のことさえ恨めしくなるが、きっと王も、アングレーム公の体に欠陥があることを知らなかったのだろう。


 我が女主人の父親や夫のことを考えるのは、アンヌの心にとって毒でしかない。


「感情的になっているみたいです。お聞き苦しい話をしてしまいました」


 心を落ち着かせるため、目をつむった。


「神は、お二人を夫婦として結び合わせました」


 何も見えない中で聞こえる、マリ神父の声。


「人が一人でいるのは良くない。そうおぼしめした創造主は、男の体から一本のあばら骨を取り出し、もう一人の人を創られた。それこそが最初の人類アダムと、その妻イブです。夫婦とは元が一体であったがゆえ、何人(なんびと)であっても引き離すことは出来ません」

「お二人は夫婦ではありません。書面でのみの、形ばかりの結婚だと、この宮廷に仕える方々は話しています」


 目をつむったまま、反論した。

 こみ上げる怒り。膝の上に乗せた拳をきつく握りしめる。


「大事なことは、誰が伴侶となるかではなく、その伴侶と共にどう生きていくかです」


 その言葉に、目を開けた。


 マリ神父がこちらに体を向け、アンヌのことを見ている。穏やかな微笑みを浮かべて。


「どう生きていくか、ですか?」

「ええ。夫は夫として、妻は妻として」

「私には分かりません。まだ結婚前なので」

「でしたら、いずれ分かる時が来るでしょう」

「マリ神父も独身ではありませんか」

「いかにも。カトリックの聖職者は、妻帯が禁じられています」

「ならどうして、結婚や夫婦のことについて、お分かりになるのですか」

「聖職者であるからこそ、私はショワジー嬢と、神の教えについて語らうことが出来るのです」


 分からない。納得もできない。

 それでも、こうして話をしていると、アンヌの怒りや苛立ちは不思議と収まっていく。


 神に祈る空間で、女が口を開くなどけしからんと言って、顔をしかめることもしない。それどころか、アンヌの思いを否定することなく受け止めてくれる。


 それが、マリ神父という人だった。




【87. ショワジー嬢の理想と現実 前編】


≪ショワジー嬢について≫

 小さい頃に革命が起こり、家族と共にフランスを離れた後、亡命先のウィーンで主人公に紹介されたという設定。

 また今回書いたパパ王の話は、現代においても広く信じられている通説です(真偽に関する考察は第9話解説で)。


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