86. マリー・ジョゼフィーヌの胸中
ジョゼフィーヌは、初夜の証人役を命じられていた。これをやらないと、マルグリットと合流させないと言われたのだ。
ところが予期せぬ事態が発生し、証人としての任は早々に解かれた。
翌朝。
ジョゼフィーヌはうきうきしながら、出立の支度をしていた。
ようやく雑木林の宮殿から解放される。愛する女神と一週間ぶりに会える。
この時を、どれほど待ち望んでいただろう。
すると、女官の一人が部屋に来た。姪の元養育係だ。
なんでも、彼女も別の亡命先へ旅立つので、途中まで付き従うという。
「昨夜のお二人は、いかがでしたか」
「何もなかったわ」
「何も、とは?」
「花嫁の両親の轍を踏んだわ」
まあ、と言って、あからさまに顔をしかめる元養育係。
ルイ十六世とマリー・アントワネットの結婚が、初夜の時から、いかに悲惨なものであったか。
当時からフランス宮廷にいなかった人間でも知っている。それくらい有名な話だ。
支度を済ませ、ジョゼフィーヌと元養育係は部屋を出た。
馬車まで向かう途中、
「愚兄の二の舞を演じる気か!」
通りがかった部屋の前、開いていた扉の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「花嫁の顔色をうかがい臆病風を吹かせ、初夜に何もしない。ブルボンの家名に泥を塗る男に、そなたまでもが成り下がるつもりか」
椅子に座る夫と、その正面に立つ甥。
何人かの臣下や女官が、二人を遠巻きに眺めている。
「まったく、何故そなたのような腰抜けが兄なのであろうな。これが弟の方であれば、相手がどんな女であっても、夫としての務めをしっかり果たしていたはずだ」
夫の言葉が、弾んでいた心に水を差す。
二人のマダムを引き離したばかりか、再会の朝の喜びまで台無しにする。ジョゼフィーヌのことを、どこまで不愉快にさせれば気が済むのだろう。
夫が怒鳴り散らしていることは、何も知らない者が聞けば、伯父から甥への叱責。
だがジョゼフィーヌには、夫の本心が分かってしまう。
なにせ十五歳の時から、この男のことを知っている。フランスで二十年も夫婦として過ごしてきたのだから。
王太子ルイ・オーギュストよりも、ルイ十六世よりも、少しでも「自分が上」なのだと。自分の方が優れた男なのだと。
周りにアピールすることに、夫はいつも躍起になっていた。
今もそうだ。
アングレーム公のことを叱っているのではない。目の前にいる甥をルイ十六世に見立て、罵倒しているのだ。
(どうしてこんな男が、私の夫なのかしら)
最後に顔を合わせてから数年経っても、こんな調子。二十八年という年月を経ても、人間として何ひとつ変わっていない。
それがルイ・スタニスラス・グザヴィエという自分の夫なのだと、こんな形で思い知らされた。
妻の気持ちもつゆ知らず、夫はわめき続けている。
「先ほどから黙りこくったままでどうした。反論のひとつも出来ないのか。自分の意見を口にする度胸もないなど、遅鈍で無能な男であることを、今この場で知らしめ」
「ああ嫌なこと。昔の自分を棚に上げて、プロヴァンス伯がずいぶんな物言いだわ!」
聞くに堪えない罵りを遮るべく、ジョゼフィーヌは部屋に入る。
この場にいる者たちの視線が、一斉にこちらへ注がれた。
「いきなり何だ。王の話を遮るな」
「あなたのお説教なんて、誰も聞きたいと思ってないわよ」
「何だと?」
「それよりも、ここにいるあなたたちに、今から面白い話をしてあげるわ」
夫のことを、フランス王ルイ十八世と仰ぐ者たちが、この話を聞いたらどんな顔をするだろう。
そう思うと、ジョゼフィーヌの頬は緩んだ。
「今から二十八年前、ヴェルサイユへとやって来た当時十七歳の花嫁。年上の新妻を前にして、まだ清らかな童貞だったプロヴァンス伯は」
「ええい、黙れ!」
せっかくの昔話が怒鳴り声に遮られた。
夫は怒りと羞恥からか、顔を真っ赤にしている。
「大声を出さないでよ。あまりわめくと唾が飛ぶでしょう。聞き苦しいうえに見苦しいったらないわね」
「見苦しいのは、そなたの方ではないか。ここに着いた初日にさらした醜態をもう忘れたのか!」
「あなたの方こそ、人の連れに何てことをしてくれたのよ!」
「国王陛下、王妃様」
聞き慣れない声が割って入った。
一瞬誰の声かと思うも、甥が大きな声を発したのだと分かった。
「それくらいになさってください。あまり騒がれると、何事かと人が集まってきます」
大きな声で長い言葉を発している。
甥のこんな姿は、ミタウに来てから初めて見た。
「それと陛下」
何だ、と夫は苛立ちを隠さず答える。
「神の教えにおいて、一度でも体を繋げた夫婦は離婚できません。それゆえ陛下は、私たち夫婦にどのような事情があろうと、一日でも早く結婚を完遂させたいのでしょう。マリー・テレーズを確実に手元に留めておくために」
見かけによらず、はっきりとした物言いは出来るようだ。
とはいえ、自ら発言するのが遅すぎる。これでは、今のようにいびりの標的にされても仕方ない。
「しかし私は、妻となる女性に対して詐欺師のような真似はしたくありません。それが夫婦となる男女の本来あるべき姿だと、心得ているからです」
詐欺師のような真似はしたくない。
その言葉がジョゼフィーヌの胸に刺さり、少しだけ痛みを覚えた。
「若造が知ったような口を利くな」
下に見ていた相手に正論で言い負かされて、夫は内心悔しいに違いない。
「私は帰るわ。こんな茶番にいつまでも付き合っていられない」
夫や甥に背を向けると、もう帰るのか、と夫に呼び止められる。
「残ってほしいのかしら?」
「ふん、帰りたいなら好きにしろ」
「言われなくても、そうするわよ」
久しぶりの夫婦の対面は苦々しさだけが残った。
扶養費の増額も叶わなかったのだから、ミタウに来たのは、とんだ無駄足だ。
こんな北の僻地になんて、二度と来るものか。
【86. マリー・ジョゼフィーヌの胸中】
≪補足≫
プロヴァンス伯夫妻の結婚→1771年
夫妻がフランスを離れる→1791年
今→1799年
≪アングレーム公について≫
参考文献で挙げた『Le duc d'Angoulême, 1775-1844』と『Louis XIX, duc d'Angoulème』を元にしています。
≪そういえばあの人たちは≫
若き日のママ王妃を振り回したことで有名な叔母様軍団、ルイ十五世の未婚の王女たち。
そのうちの二人、アデライードとヴィクトワールは、革命が起こった頃も存命中でした。
アングレーム公夫妻の結婚式が執り行われる直前、ヴィクトワールは亡命先(ミタウではない)で亡くなっています。
そしてその後を追うように、数ヶ月後アデライードも亡くなりました。




