85. 不幸が始まったと、見なされている日
テレーズにとって、泣いてしまったのは不覚だった。
指輪を交換する時に渡されたのは、大きいサイズの古めかしい指輪。
これは何だろうと不思議に思った矢先、司祭が言った。指輪をよく見てみるようにと。
彫られていた文字と数字に気づき、テレーズは我が目を疑った。
そこへ、王が近づいてきた。
父が処刑される間際まで身に付けていた結婚指輪だと、説明し始めた。
テレーズの中で、さまざまな思いや記憶がない交ぜになる。気づけば、従兄に寄りかかって泣いていた。
涙が落ち着くとともに、式は再開された。
しかし、式が終わりに近づく頃、テレーズはあることに気づいた。
父の結婚指輪を、どうしてルイ十八世が持っていたのだ。
愛する我が姪、余の娘のために、などと善人ぶった言葉を並べ、父の形見を手に入れたのだろうか。今日の結婚式を演出するために。
だとしたら、テレーズはお涙ちょうだいに乗せられたも同然だ。
式が終わった後。
一人で控え部屋にいる間、先ほどの指輪をじっくりと見た。
「M.A.A.A.」という文字が刻まれている。母の名前と、オーストリア大公女という称号の頭文字。
そしてその横には、一七七〇年五月十六日という日付。
両親の結婚式が執り行われた日。
フランスの不幸が始まった日だと、テレーズ以外のこの世すべての人間が、見なしている日。
この夜、テレーズの身支度には、何人もの女官が付いた。湯浴みの時には、全身をこれまでにないほど入念に洗われた。
湯上がりに、また化粧をした。結婚式の時とは異なり、今度は薄化粧。
姿見に映る、もう一人の自分。
身に着けるのは、今日のために新調された真っ白い寝間着。
「大丈夫ですよ。朝には、すべて終わっていますから」
髪をとかしながら、ショワジー嬢は言う。
「あなたも未経験者でしょう。どうして分かるの」
平静を装ってはいるが、テレーズの胸の鼓動は、先ほどから鳴り止まない。緊張で自分の一挙一動が不自然になっているかもしれない。
「母から聞いた言葉です」
「ショワジー夫人から?」
「はい。テレーズ様が緊張されているようなら、こう言って励ましてさしあげなさいと」
「なら、あなたのお母様に会う機会があったら、良い助言をありがとうって、お礼を言わないと」
もしも。
母が生きていて、今ここにいてくれたら、娘にどんな言葉をかけてくれるだろう。
ショワジー嬢は髪をとかし終えると、テレーズの正面に回り込んだ。
おもむろに身を屈め、かしこまった態度になる。
「昨夜の軽率な物言い、お詫び申し上げます」
「どうしたの、急に改まって」
「本日の結婚式に参列して、昨夜の自分がテレーズ様にお話ししたことを恥ずかしく思いました。一日遅れになりましたが、お詫びを言わせてください」
「いいわよ。もう気にしていないわ」
ショワジー嬢に悪気がなかったことは、テレーズも分かっている。
ただ、こんな時に蒸し返さないでほしい。
あんなひどい話は、少しでも意識の外に追いやっていたかった。今日一日テレーズの心がざわついていたのは、彼女から昨夜聞いた話を引きずっていたせいでもあるのだ。
支度が終わったところで、部屋にいる女官たちに指示が出された。
全員退室するようにと。
ショワジー嬢も含め、みな指示に従った。
入れ替わるようにして、王妃が姿を見せた。
部屋には、義理の叔母と姪の二人だけ。
「まだいたの、とでも言いたそうね」
「もうお休みになったのかと」
「あなたたちがちゃんと夫婦になるか、その証人役よ。国王陛下のご命令でね」
「お時間を割いていただき、ありがとうございます」
「そう思っているのなら、さっさと済ませ」
王妃の言葉が途切れ、不意に視線が外される。
どうしたのかとテレーズが尋ねれば、王妃は改まった様子で、こちらを見た。
「事前に確認しておくわ」
「何でしょう」
「あなたは、本当に生娘なのね?」
驚き呆れるあまり、テレーズは言葉を失った。
テレーズ本人でさえ知っている、自分自身にまつわる中傷。タンプル塔で犯され、清い体でなくなったという話。
それを何故、今こんな時に確認するのか。
「どうなの」
返事をせっつかれる。
「生娘です。間違いありません」
こちらが答えると、王妃はため息を吐いた。
「そうならそうと、すぐに答えなさい」
「もっと早くお尋ねくださればよかったのに」
「王が、一応尋ねておけですって」
そんなことだろうと思った。
万が一、テレーズが今と逆の答えを言ったら、どうするつもりだったのか。寝所に赴く支度が整ったという状況で。
これは、姪に対する王の心配りではない。まがりなりにも確認したという事実を残したかっただけだ。
「なら行くわよ」
王妃に続き、部屋を後にする。
向かう先はテレーズの寝所。すでに従兄が待っているという。
寝所の扉が閉められ、鍵がかけられた。いやに響いて聞こえた施錠の音。
ここには、テレーズと従兄しかいない。
室内の明るさは、周りがぼんやりと見える程度。
従兄は寝台に腰かけている。彼も白い寝間着姿だが、まだ眼鏡は外していない。
レンズ越しの目は、テレーズのことを見ているのだろうか。
テレーズは、寝台から数歩離れたところに立っている。足がすくんでしまい、これ以上、前に進まない。
結婚式の夜、新郎新婦は同衾する。
以前から分かっていたこと。
それなのに、今のテレーズは自分でも驚くほど緊張し、怖気づいている。
「話しておきたいことがある」
この部屋に入ってから、初めて聞いた従兄の声。
「……な、何?」
「とりあえず座ってくれ」
座れと言われても、どこに座ればいいのか。
従兄の隣に行くべきか。だが近すぎると、まともに話が出来そうにない。
「どうかしたか」
「な、何でもないわ」
早く来いと急かされる。ひとまず彼がいる方の反対側に回り込み、寝台に乗った。
彼も体の向きを変え、自分たちは互いに向かい合った。
テレーズが見つめる先は、膝に乗せた自分の手。この状況では、相手のことを直視できない。
「陛下から話は聞いていると思うが、この結婚は、ブルボン王家の結束を示すためのものだ」
「分かっているわ」
テレーズが答えると、従兄は黙り込んだ。
話しておきたいことは、これで終わりなのだろうか。テレーズは不審に思い、おそるおそる顔を上げた。
「……あいにくだが」
彼は言いづらそうに前置きする。
「私と君とでは、好ましいと思う国のあり方が違う。私たちが夫婦となるにあたって、この違いは致命的だ」
今日だけで、テレーズはどれほどの感情の変化に振り回されただろう。
もう一日が終わる。心身ともにそろそろ限界だ。
「君は、フランスを革命前に戻したいそうだな」
「ええ、そうよ」
それは当然のことだ。
「私は、君や陛下とは違う」
「違うって、何が?」
「私はヴェルサイユではなく、ウェストミンスターのような政治を望んでいる」
言われたことの意味は、テレーズにも分かった。
ウェストミンスターとは、英国における政治の中心地で、国会議事堂が置かれている。
「そんなこと、陛下はおっしゃっていなかったわ」
「これは私個人の考えだ。陛下の望むものとはまた違う」
何故、どうしてよりにもよって英国なのか。
英国では十七世紀に革命が起こった。国が内戦に陥り、王が処刑されて共和制になるなど、英国の歴史において未曾有の出来事だった。
共和制は十年ほどで終わり、王政復古が果たされた。
そして紆余曲折を経て、英国の王権は、ウェストミンスターに置かれた議会によって制約されるようになった。
それをフランスにおいても、テレーズの父の国でもおこなうと、従兄は言いたいのだ。
「陛下と父の跡を継ぎ、ゆくゆく私は王になる。そのときには、君は王妃として、私の考えに従ってほしい」
「やめてよ。こんな時にそんな冗談」
「冗談でこんなことを言うか。大事なことだから、前もって話しているんだろう」
「なら、もっと早くに言ってよ。結婚式も終わった後に言うなんて」
こちらの反論に、従兄は束の間、言葉を詰まらせる。
「……とにかく、君と私が夫婦になっても、上手くいかないことは分かりきっている」
「上手くいかないなんて、決めつけないで」
「今のうちにはっきりさせておかないと、いずれは君が後悔する」
彼の言うことが冗談でないことくらい、テレーズにも分かる。
そもそも彼は軽々しく冗談を言う性格ではない。昔からそうだった……と考えたところで、はたと気づいた。
アングレーム公について、テレーズはどれくらいのことを知っているだろう。
昨日、彼は話していた。
トリノに亡命した後、各地を転々とし、ルイ十八世と合流して、ミタウに来たと。
この話は、彼自身の来歴をごく簡単に説明しただけ。事実のすべてであるはずがない。
ショワジー嬢が聞いたという話が伏せられている。
彼は性行為が出来ない。もしくは異性を愛せないことが、亡命生活の中で明らかになった。それはテレーズに知られるとまずいことなので、王と結託して、ひた隠しにしていた。
こう考えるのが、自然ではないか。
アングレーム公は、ルイ十八世の甥。やはり血は争えない。
二人で共謀し、テレーズのことをだましていたのだ。
嘘吐き、裏切り者、卑劣な人間を、テレーズはこれまでの人生で嫌になるほど見てきた。
それなのに、昨日外へ出て一対一で少し話をしたくらいで、ほだされかけた。こんな陰気くさい男の悪質な嘘にだまされ、心を許してしまいそうになった。
「……分かったわよ」
テレーズはきつく相手をにらみ付ける。
「要するに、私のことは抱けないって言いたいのね」
「抱けないというわけでは」
「あなたは、私のことなんて、これっぽっちも愛してないものね」
彼が何か言おうとする前に、テレーズは言葉を被せた。嘘をとりつくろうための嘘は聞きたくない。
「革命を止められなかった暗君の娘なんて、付き合うのも恥ずかしいから、ヴェルサイユに置き去りにした。あなたとその家族は、崩れそうになっていた家から真っ先に逃げ出したのよね」
テレーズには言いたいことがあった。山のようにあった。それをずっと我慢してきた。
けれど、もう限界だ。
「どうせウィーンに送ってた熱烈な恋文だって、ルイ十八世か王太子に考えてもらった文章を、命じられて書き写してたんでしょう」
「それは違う」
「違うって言うんなら、ちゃんと自分で考えたっていう証拠を見せなさいよ!」
高貴な女性としての振る舞い方は忘れてしまった。心の奥底にあった怒りがあふれ出し、理性をなぎ倒した。
「あなたは女なんて愛せない。元より、性行為なんて出来ない。それでもタンプル塔の孤児という政治の道具が必要だから、私のことをだまして、こんなど田舎のおんぼろ宮殿に呼び寄せた。形だけの結婚を済ませて、それで終わりにするつもりだったんでしょう」
「落ち着け、テレーズ」
「もうこの際だから、私からも言わせてもらうわ。私だってね、本当はこんな結婚したくないわよ」
「テレーズ……」
「自分みたいな女を妻にするなんて、私が夫の側だったら絶対に嫌!」
最後の方は、叫ぶように言い放っていた。
どうにでもなってしまえ。すぐさま寝台を降り、早足で扉に向かう。
ドアノブに手をかけて回すが、扉が開かない。
そこで我に返った。
たった今、テレーズは何をしでかしてしまっただろう。
寝所の向こうには証人がいる。二人が夫婦になったことを確かめるために。
テレーズが張り上げた声は、部屋の外に届いたかもしれない。
己の失態に、血の気が引いた。
そのまま扉の前で固まっていると、従兄がやって来た。
彼は何も言わず、テレーズと扉の間に体を割り込ませる。
カチャリという音。鍵を開けたようだ。
「君はこの部屋を使うといい。私は別の部屋で寝る。心ない言葉で、私が君を怒らせてしまった。君に遠慮した私は、別室で寝ることにした。そういうことにしよう」
「そ……そういうことって」
テレーズの口からやっと出てきた言葉は、
「私は、やる気のない女を抱く気はないんだ」
不機嫌そうな声に遮られた。
扉が閉まり、テレーズは一人残された。
【85. 不幸が始まったと、見なされている日】
≪補足≫
結婚式で誓いのキスはしていないと想定しています。




