83. 闘うための結婚
ミタウに来てから五日後、テレーズは結婚した。
従兄と共に、結婚誓約書に署名をした。つまりは書面でのみの結婚。
テレーズは、もうマダム・ロワイヤルとは呼ばれない。アングレーム公妃という称号になった。
そして今、ミタウ宮殿の大広間では、晩餐会が催されている。
招待客は、ルイ十八世の移住にともない、はるばるミタウまでやって来たエミグレ。また地元の貴族や聖職者の姿もある。
太りすぎているせいで長時間立っていられない王は、ずっと椅子に座っている。
そしてテレーズは、王の隣の席に座らせられている。
大勢の招待客を前にして、王はご満悦なのか、いつもより多弁だ。
「余にとっての姪は、実の娘も同然であった。タンプル塔で生きていることが分かった時には、どれほど歓喜し、神に感謝しただろう!」
プロヴァンス伯だった頃からの自慢話や苦労話を仰々しく語っている。
内容について、テレーズから指摘や訂正したい部分がいくつもある。
だが口にも態度にも出さない。微笑みという仮面を張りつけ、異議を唱えたい気持ちを押し殺している。
この亡命宮廷において、テレーズは「従順な姪」でいなければならない。王の話すことが正しかろうが間違っていようが、無条件に同意する。
本心では、
(なにが実の娘も同然よ。思い出話の美化も、ここまで来ると、ねつ造だわ)
悪態を吐き続けている。
ミタウに来てまだ一週間たらずだが、テレーズの忍耐はもう限界に近い。なにせ、こんな叔父と毎日顔を合わせるばかりか、話し相手をさせられているのだから。
それでも、今ここで気力が尽きてはいけない。
せめて明日まで。
結婚式が終わるまでは持ちこたえさせるのだと、自分に強く言い聞かせていた。
もっとも、こうして耐え忍んでいるのは、この大広間にいる人々の中でも、テレーズだけに違いない。
少し離れた所では、王妃が別の招待客と歓談している。
姪に対しては素っ気ない態度のわりに、他の大人たちとは楽しそうに話す。その姿を見ていると、かつての眉毛夫人を思い出す。
そしてもう一人の王族、アングレーム公。
彼は、テレーズたちの近くにいる。王の話を聞いてはいるようだが、先ほどから黙ったままだ。
「そういえば、あの当時そなたはどこにいたのだ」
「はい?」
話の途中で、王がアングレーム公に尋ねる。
彼はハッとしたように聞き返す。
「テレーズの生存が分かった時、そなたはヨーロッパのどこにいたかと聞いている」
「あ、えっと、そうですね……」
すぐに返事ができず、言葉を詰まらせる。
「未来の花嫁の生存を喜ぶ気持ちが印象に残るあまり、それ以外のことを覚えていないのだな」
王はアングレーム公の答えを待たないで、話を再開した。彼の反応があまりに不格好で、招待客に見せるには忍びないと思ったのだろう。
従兄の姿を見ながら、テレーズは改めて思った。
こんな話し下手で、よく王族をやっていられるものだと。
ヴェルサイユにいた頃から、彼はこんな性格だっただろうか。当時のことを思い出そうにも、記憶はおぼろげだ。
振り返ればこの五日間、彼がテレーズの部屋を訪ねてきたことは一度もない。
ウィーンに送っていた恋文に、自分たちの間にある距離が苦しいといったことを書いていた。ところが、いざ同じ宮殿で暮らし始めても、その距離を縮めようという姿勢がまったく見られない。
よもやあの手紙は、他の人間が書いたものではあるまいか。
テレーズが疑いの目を向けていた、まさにその時、従兄の視線がこちらに向いた。
逃げ出したい――分厚いレンズ越しの目が、そう言っている。
というより、それは今のテレーズの気持ちそのものだった。
「陛下、お話し中のところ失礼します」
「何だ」
「アングレーム公と私で、少し外を歩いても構わないでしょうか」
「なに、そなたたち二人で?」
「彼と私は、子供時代を知っている者同士です。離れていた十年の間、互いに何があったのか、じっくり話をしたく思います」
若い二人で仲を深めてこいと言って、送り出してもらえるだろう。
と思いきや、
「結婚式が終わってからにしろ」
反対された。
「今は招待客をもてなす時間であろう。明日の結婚式が終われば、そなたたちには思う存分二人になる時間がある。それまで待つがよい」
ここから逃げ出す作戦は失敗。テレーズはひそかに肩を落とした。
だがそこで、思わぬ助け船が。
「我々のことを気にする必要はありません」
王の面前にいた人々のうちの一人、初老の男性が口を開いた。
彼は現地の総督。ロシア皇帝の代理人だ。
「新郎新婦が、互いの子供時代を知っている者同士。かようなことは、王族の婚姻ではそうそうないこと。積もる話もあるでしょうし、若い二人で仲を深めてきてはどうですか」
人好きのする笑顔が、テレーズと従兄を交互に見る。
総督の言うことに、王は反論しない。皇帝から亡命先を提供してもらった立場ゆえであろう。
従兄もまたテレーズの提案を拒まなかった。
テレーズたちは連れ立って外へ出た。距離をとって数人の従者も付いてくるため、完全な二人きりではない。
時刻としては夜だが、外はまだ明るい。
ミタウには、一晩中太陽が沈まない白夜はないものの、夏至の頃は、夜十一時くらいまで明るいという。
歩きながら、テレーズは来た道を振り返った。
向こうにあるのは、先ほどまで自分たちがいた、おんぼろの宮殿。その平面は「T」の字をふたつ並べた形で、奥まった部分が正面入り口になっている。
設計者はフランス出身のイタリア人。ペテルブルクにある宮殿も設計したことがある、有名な建築家だという。
この宮殿の工事が始まったのは、今からおよそ半世紀前。
政治的な事情から、長期間工事が中断された時期もあったが、とりあえず建物は完成した。
だがその後、宮殿は火災に見舞われ、修復されることなく老朽化。
そこへルイ十八世がやって来て、荒廃しきっていた宮殿は救われた……というのが王の話していたことだ。
こうした事情のせいなのか、辺りは雑木林。造園工事はほとんどされていないようだ。ルイ十八世によって救われたのは、宮殿の室内だけらしい。
テレーズは再び前を向き、周辺の景色に目を移した。
川中の島に建つ王宮。昔のシテ島と同じだ。
はるか昔のフランスは、あの島に王の居城があったと、父から教わったことがある。
奇しくも、母が最後の日々を過ごした場所でもあった。タンプル塔からシテ島にある牢獄へ移されて……。
そこまで考えたところで、我に返った。
無意識のうちに、思い出したくないことまで思い出してしまった。
暗い気持ちになってはだめだと、自分に言い聞かせる。
ここはパリではない。自分たち家族に対する誹謗中傷は聞こえてこない。それに今は、ルイ十八世の自画自賛やねつ造話を聞かされることもない。
耳に届くのは、川のせせらぎや、風でそよぐ草木の音。精神的に優しい環境だ。
テレーズは気持ちを切り替え、自分の隣を歩く青年に目を向けた。
外に出たはいいものの、先ほどから自分たちの間に会話はない。
二人で話がしたいと言ったのはテレーズの方なのに、黙ったままでいては、従兄にも従者にも不審に思われる。
あとで王に報告されでもしたら厄介だ。
何でも言いから、こちらから話しかけよう。
「ねえ」
「なあ」
今の今まで二人とも黙っていたのに、いざ口を開くと、互いの声が重なった。
テレーズも、そして従兄も立ち止まる。
「あなたからどうぞ」
「い、いや……君からで」
では彼の言葉に甘えて。
「あなたって、子供の頃も眼鏡をかけていたかしら」
「昔は裸眼だった」
「いつから、かけ始めたの?」
「……」
「どうしたの」
「……いつだったかな」
「覚えていないの?」
「何年も前だ」
眼鏡の他にも、彼の外見で変わったところはあるだろうか。改めて観察した。
髪は短く、赤みがかったブラウン。
体型は細身、というより痩せすぎに見える。彼と並ぶと、標準的な体型であるはずのテレーズが太って見えそうだ。
もっとも、女性の体は子供を産むためのもの。痩せすぎは良くないという話を聞く。ならば問題ないのだろう。
互いの背丈は、彼の方が若干高いといったところか。
「ヴェルサイユを離れた後、お母様のご実家にいたのよね。ずっとそこにいたの?」
「いや、しばらくしてコブレンツに行った。他にもいろいろな場所で暮らした」
ヴェルサイユからトリノに移り、コブレンツに集まっていた同胞と合流。エミグレ軍に加わった。
軍を離れた後は、英国に渡り、エジンバラに滞在。ブランケンブルクにいた王の元へ呼ばれ、王と共にミタウに移り住み、今に至る。
アングレーム公本人としては、戦場で戦うことを望んでいる。
だが彼は長男なので、次男ベリー公に比べて、戦場では後方に留め置かれたり、王や王太子に頼んでも軍に行かせてもらえないことが多かった。それゆえベリー公がうらやましいと、彼は語る。
人と話すのが苦手な性格だと思っていたが、思いのほか話は出来るようだ。
彼のことは、ひととおり聞いた。
次は、テレーズが質問に答える番だ。
「その声、痛くないのか?」
無理をして出している声だと、彼は思っているのだろう。
「痛くないわ。風邪をひいているわけではないから」
ウィーンで出会った人々には、生まれつきこの声だと説明していた。
だが、もう嘘の答えは言わない。
「タンプル塔に監禁されていた間、役人や看守の誰とも口を利かないのが、身を守る最善の方法だったの。それを続けていたせいか、また声を出そうとした時には、もうこの声で。治そうとしたけれど、だめだったわ」
従兄は今どんな気持ちで、こちらの話を聞いているのだろう。テレーズのことを気の毒な女だと思っているに違いない。
「でもこの声は、私にとっての勲章なの」
「勲章?」
「あの牢獄での生活を耐え抜いたからこそ、今の私はここにいる。その証が、この声なのよ」
テレーズが話し終えても、従兄は何も言わない。
話し下手な人でなくても、こんな重い話を聞かされれば、返事に困るだろう。
西の空を見れば、日がだいぶ傾いている。
王の元には戻りたくないが、暗くなる前に室内へ入った方がいい。
「私もだ」
突然言われたことに、思わず、え、と聞き返した。
「声が変わったのは、私も同じだ」
何の話なのか、少し考えてピンときた。
「声変わりをしたってこと?」
「ああ」
ひょっとして、テレーズを慰めるつもりで言ったのだろうか。
彼なりの気遣いに、テレーズはつい頬が緩んだ。
こちらの笑みにつられたのか、彼もわずかに唇を持ち上げる。
笑うときでも、あまり表情を崩さないところは、子供の頃と変わっていない。
この日の就寝前。
「アンヌったら、いつまで引きずっているの」
背中の紐を解くショワジー嬢に話しかける。二人でいるときは、この名前で呼ぶようになった。
「あなたがどんなに残念がったところで、アングレーム公はああいう男性なのよ。いい加減、現実を受け入れたらいいのに」
ミタウに来てから、ショワジー嬢は意気消沈している。想像していた男性像と実際のアングレーム公がかけ離れていたことに、ショックを受けているのだ。
だが今の彼女は、昨日や今朝よりも、輪をかけて元気がないように見える。
「もしかして、何か別のことで悩んでいるの?」
否と彼女は答える。
「実家が恋しくなった?」
「いいえ、私のことではなくて……」
「なら、何?」
「どうしても、マリー・アントワネット様のことを考えてしまうのです」
「母がどうしたの」
「テレーズ様が、お母上様と同じ目に遭うかもしれないと」
やぶからぼうに何を言い出すのだ。
母と同じように、テレーズまでもが処刑されるとでも言うのか。
「アングレーム公は、ルイ十六世によく似ておいでだそうです。それゆえ、結婚生活が満たされず、テレーズ様が若かりし日のお母上様と同じように荒れるのではと、話に伺いました」
本当に、何を言い出すのだ。
テレーズは、ショワジー嬢に向き直った。
「その話はミタウで聞いたことなの?」
「はい」
「誰から聞いたの。相手の名前は分かる?」
こちらが詰め寄ると、ショワジー嬢は気圧されたように黙り込む。
「答えなさい、アンヌ」
強く命じれば、彼女はおずおずと答えた。
話していたのは二人。ダヴァレー伯と、テレーズ付き女官であるセラン侯爵夫人。
ダヴァレー伯は、セラン夫人に言い聞かせるように、こう話していた。
アングレーム公は不能、もしくは同性愛者だという噂がある。
どちらにしろ、ああした陰気な性格の男では、結婚相手を満足させることは出来ない。
そのせいでテレーズが、若い頃のマリー・アントワネットのように、夜遊びや浪費にうつつを抜かす女になるかもしれない。
それゆえ、
「目付け役として、あなたの務めは重要だと。ダヴァレー伯はセラン夫人にお話しされていました」
晩餐会が終わった後、二人が話している場面を、ショワジー嬢は偶然目撃したという。
ダヴァレー伯は、王がプロヴァンス伯だった頃から仕えていた臣下。唯一無二の友だの何だのと、王が話していた。
馬鹿げた話の発言者は、ルイ十八世の寵臣。
彼がこんな発言をしていることからして、その主君の本心がうかがい知れる。
テレーズは確信した。自分の読みが、外れていなかったことを。
ルイ十八世の宮廷において、ルイ十六世とマリー・アントワネットへの敬意は、やはり上辺だけのものだ。
【83. 闘うための結婚】
≪主人公の新たな住まい≫
作中では、歴史的な呼称であるミタウ宮殿と書きますが、解説ではエルガワ宮殿と書きます(エルガワはラトビア語名、第74話解説より)。
ウェブで「Jelgava Palace」と検索すると、写真が出てきます。
修繕されずに外壁が色あせていたのは、もちろん昔の話で、現在はエンジ色。
平面は「T」の字をふたつ並べた形と書きましたが、のちに増築されて四方が閉じられました。
また宮殿の周りを雑木林と書いていますが、この点は創作です。
≪↑の補足≫
作中では言及していませんが、エルガワから少し離れたところに、ルンダーレ宮殿という建物があります。設計者はエルガワ宮殿と同じ人。
現在、エルガワ宮殿は大学の校舎として使用されていますが、ルンダーレ宮殿は観光スポットになっており「バルトのヴェルサイユ」と呼ばれています。
ルンダーレは本作には登場しませんが、インターネット等で調べる際、両者を混同される方もいるかと思ったので補足しました(エンジ色の外壁がエルガワ、クリーム色がルンダーレ)。
バルトのヴェルサイユになれなかった方の宮殿が、本作の舞台です。




