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82. 叔父と姪の思惑 後編

 日が暮れた頃、テレーズは宮廷のつどいから開放された。


 自分の部屋に入り、力なくソファにもたれる。

 今は一人。

 だらしない姿になっても構わない。


「終わったわ……」


 一日が。ここに着いたのは昼なので、正確には半日。


 初日から、こんなにも疲れた。

 だが明日からは、これが毎日。

 考えると、気が重くなるばかりだ。


 再会して早々、王にきつく抱擁され、窒息するのではないかと思った。おかげで、馬車を降りる間際に無理やり出した涙は引っ込んだ。

 テレーズの気力は、苦痛な抱擁によって根こそぎ奪われた。

 酒臭い王妃に対しても、物静かで不格好な従兄に対しても、気の利いた言葉をかける気力はほとんど残っていなかった。


「余の娘、ね」


 今日一日だけで、何回こう言われただろう。


(クソデブの娘になるなんて、ごめんだわ)


 クソデブとは、パリにいた頃に覚えた卑俗な言葉。パリの民衆は、テレーズの父のことをそう呼んでいたが、テレーズから言わせるなら、因縁の叔父の方がクソデブという名にふさわしい。


 今日の昼、どうか私の父親になってくださいと、確かに言った。

 だが、それが心からの言葉であるものか。


 王をはじめ、この宮廷にいる者たちは、テレーズの本心に気づいていなかったようだ。

 彼らの中には(もと)養育係もいた。結婚式に参列するという。

 父の三回忌の追悼ミサには来なかったくせに、こんなヨーロッパの北辺には、はるばるやって来たのだ。


 それはそうと、あの叔父と顔を合わせたのは八年ぶり。

 テレーズの記憶にあるプロヴァンス伯の姿と比べると、ルイ十八世は老けたように思う。


 だが老け具合よりも気になったのは、あの肥満体型。

 この八年間で一体何をどれだけ食べれば、こんなに太れるのだろうと不思議に思ったが、今日の夕食の席で謎は解けた。

 あれだけの量を毎日食べていれば、ああも太るはずだ。


 亡命中のフランス王に節制を勧める者は、この宮廷にいないのか。それとも臣下に何を言われようと、当人が聞く耳を持たないのか。


 生前の父とプロヴァンス伯は似た体型だった。だがしかし、テレーズはルイ十六世の娘として、声を大にして言いたい。

 テレーズの父は、ああまで太っていなかった。食べ物を口の中に流し込むような食べ方はしていなかったと。


 この宮廷、ルイ十八世のそばが、テレーズの生きる場所。

 明日から上手くやっていける自信がない。気力とともに自信まで奪われてしまった。


 そういえば、ココはもう休んでいるだろうか。

 顔を見て癒されたい。

 寝床は、テレーズの寝所に置くようにと頼んでいた。寝所はこの隣の部屋だ。


 見てみれば、壁際にケージが置かれてあり、その中にココがいた。


 長旅で疲れているのは、ココも同じはず。

 テレーズは音を立てないよう寝所を出て、ソファに戻った。


 ココのことを思い出すと同時に、また別の家族の顔も浮かんだ。

 ミタウで再会を期待していた相手がいた。ブルボン王家の宮廷なら、もしかしたら彼女がいるかもしれないと。

 だが期待は外れた。

 聞けば、この宮廷に、若い女性はテレーズとショワジー嬢だけ。他にはいないという。


 家族も同然だった親友、ティニはいない。


 消息は分からないのだろうか。明日にでも元養育係に尋ねてみよう。

 ただし王には気づかれないように。

 かつてプロヴァンス伯は、親友のことを無視していた。サン・クルーで、そのことを母から咎められても、悪びれる様子もなかった男だ。


 当時のことを、今でも覚えている。それでいて、ルイ十八世の宮廷に、親友がいることを期待してしまった。

 やはりテレーズは浅はかだったのだろうか、覚悟が生半可だったのだろうかと自問する。


 答えたのは、扉のノック音。

 ショワジー嬢が姿を見せた。


「お着替えがまだでしたよね」

「ええ、お願い」


 彼女はテレーズの後ろに立ち、服の結び目を解いていく。

 背中の紐を結んだり解いたりするのは、手間のかかる作業で、自分一人では脱ぎ着が出来ない。高貴な女性の服は、そういう作りになっている。


「ねえ、ショワジー嬢、がっかりさせてしまったかしら」


 紐を解く手が止まる。

 テレーズが後ろを向けば、夜のわずかな明かりの中でも分かった。ショワジー嬢が驚いた顔をしているのだと。


「私の旦那様になる人はどんな男性なのか、あんなに楽しみにしていたのに」

「そんなことは……」


 答えづらいのか、彼女は言いよどむ。


「なら質問を変えるわね。ここに来るまでの間、どんな王子様を想像していたの?」


 アングレーム公は王族なので「王子」と呼ばれる。手紙の中でも、その呼び名を使うことがある。

 彼はフランス人の父親と、イタリア人の母親を両親に持つ王子である。あんなふうだけれど……とテレーズが話せば、ショワジー嬢は腹を抱えた。


「お、お待ちください。そんなことを、言ったら」

「笑いすぎよ」

「テレーズ様が、そのようなお話を、されるからです」


 しばらくして彼女の笑いは収まった。


「いけませんよ。相手は旦那様なのに」

「結婚前だから、まだ従兄よ。それで、あなたはどう思ったの?」


 改めて尋ねれば、ショワジー嬢は言いづらそうにしつつも口を開いた。


「最初にお目にかかった時の印象ですが」

「どうぞ。今くらいは遠慮せずに」

「手の甲への口づけは、もっと優雅にするべきかと」

「分かるわ!」


 彼女の意見に、テレーズは間髪をいれず同意した。


「テレーズ様もそう思われましたか?」

「あれを見れば、誰でもそう思うわよ」

「これがカール大公だったらと思うと、同じ貴い身分の方でありながら、どうしてこうも違うのかと」

「カール大公?」


 ショワジー嬢の口から突然出てきた名前。テレーズが聞き返すと、


「あ、いえ、あのお方は……」


 途端に、しどろもどろになる。

 なるほど、とテレーズは思った。


「彼も罪な殿方だわ。ルドヴィカさんばかりか、あなたの心まで盗んでいたなんて」


 今が明るい時間帯なら、ショワジー嬢の赤く染まった顔が見られたかもしれない。


「テレーズ様は、ご結婚が不安ではないのですか」


 彼女は改まった様子で問う。


「多少わね」


 不安に決まっている。結婚は元より、この宮廷で生きていくことが。

 だが、もう引き返せない。


「私の方こそ、あなたに謝らなくちゃ」

「何を謝るのですか?」

「ウィーンからも、カール大公からも遠く離れたところに、あなたを連れてきてしまって」

「とんでもございません。カール大公は、私にとって手の届かない場所にいる憧れの男性。テレーズ様が彼と相思相愛になるならまだしも、私が想いを寄せるだなんて恐れ多いことです」

「自分の恋する気持ちを否定することはないわよ」


 そこで、テレーズは思いついた。


「なら、アンヌさんのお話を聞かせてもらおうかしら」

「わ、私ですか?」


 アンヌとはショワジー嬢の本名。冗談交じりに、いつもと違う呼び名で彼女を呼んだ。


「憧れの王子様と、こんな恋がしてみたいという理想について」


 二人で話をしながら、夜は更けていく。

 眠りに就くことだけが休息ではない。気の置けない相手との語らいも、大事な休息のひと時だ。




【82. 叔父と姪の思惑 後編】


≪補足≫

 作中当時、ロシアの暦はユリウス暦でした。

 主人公がミタウに到着したのは六月初旬と書いていますが、これはグレゴリオ暦。現地の日付ではまだ五月ですが、そのことには触れていません。



≪イタリア人の母親≫

 イタリアが統一される前、同時代の人々は「イタリア人」という(くく)りより、もっとローカルな括りで考えていたようです。

 そうなると、アルトワ伯妃はイタリア人ではなくピエモンテ人と書いた方が適切(サルデーニャ人は島民を指す。第63話解説より)。

 我々日本人が抱いている、イタリアという国へのお洒落イメージを引き合いに出すため、作中ではあえて「イタリア人の母親」と書いています。


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