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78. 敵国女は訴える 後編

 テレーズは別の中庭に移動していた。内緒の話がしたいから付いてきてと、ルドヴィカにねだられたのだ。

 人気(ひとけ)のない場所まで来ると、ルドヴィカは立ち止まった。


「お姉さん、耳をかして」


 言われたとおり、テレーズは身を屈める。


「アングレーム公がどんな人なのか、やっぱり気になるわ」

「突然どうしたの」

「さっきのカレよりかっこいい?」

「さっきの彼って、あのメッテルニヒって人?」

「そうよ」


 確かに、整った顔立ちをしていた。すらっとしていて、かなり背が高かった。体型はまったく違うが、背丈だけならテレーズの父と同じくらいに見えた。


 ヨハナは、まだ彼と立ち話をしているのだろうか。

 普通、王族や皇族が人と話している間、控えている人間は黙っているもの。代わって話し相手になるのは差し出がましい行為なのだが、


『ヨハナが、あなたとお話ししたいんですって』


 ルドヴィカがこう言ったので、構わないのだろう。


 それはそれとして、彼とアングレーム公はどちらが格好いいかと聞かれても、


「残念だけど分からないわ。もう十年近く会ってないもの」

「なあんだ、がっかり」

「もしかして、それを尋ねるために、こんな所まで来たの?」

「だって、アングレーム公のことは、人がいるところでお話ししちゃだめだもの」


 ここはウィーン宮廷。彼の話をしてはいけない、というわけではないが、人前で名前を出すと場の空気が悪くなる。

 そのことを知ってか、ルドヴィカは、人が少ない場所までテレーズを連れてきたようだ。


「ルドヴィカさんはどうなの。さっきの彼とカール大公だったら、どっちが格好いい?」

「きまってるでしょう。カール叔父さまよ」


 カール大公が帝都を離れて一年以上経つが、彼への想いは、まだルドヴィカの胸にあるようだ。


「じゃあカール大公とココだったら、どっちが好き?」


 ルドヴィカは顔を下に向ける。

 つぶらな瞳と見つめ合うこと数秒、


「えらべないわ。どっちも好き」


 もどかしそうに答えた。今の質問は、少し意地悪だったかもしれない。


 そういえば、ブオナパルテ人形のことを、カール大公は知っているのだろうか。


 もしも、彼がルドヴィカに「そんな真似はいけないぞ」とでも言って注意すれば、人形への暴力を止めさせることが出来るかもしれない。

 ルドヴィカにとっては、想いを寄せる相手からの言葉。そのぶん説得力があるはずだ。


 ただその時には、ルドヴィカの恋も終わってしまうに違いない。


 何はともあれ、自分たちはヨハナの元に戻った方がいい。彼女は今頃、ルドヴィカのことを心配してホーフブルクの中を探し回っているだろう。

 合流したら、黙ってあの場を離れたことを、テレーズから謝るつもりだ。


「何をしているの、そんなところで」


 背後から聞こえた声。

 テレーズは心の中で顔をしかめる。


 振り返れば、向こうに皇妃がいた。自身の女官か取り巻きか、数人のお仲間も一緒だ。


 皇妃のお腹のふくらみは、もう服の上からでも、はっきりと分かる。


(こんな女が恋女房だなんて、皇帝も物好きだわ)


 声には出さず毒づいた。


 心底嫌いな相手であっても、さすがに無視するわけにはいかない。

 こちらから皇妃の元に行こうとするが、歩き出すと同時に、服の端に抵抗を感じた。


「どうしたの」

「お母さまとケンカをするの?」


 ルドヴィカが不安げな顔をしている。大人たちが漂わせる険悪な空気を感じ取ったのだろう。


「喧嘩なんてしないわよ」

「本当に?」

「ええ、だから安心して。さあ、あなたのお母様のところに行きましょう」


 テレーズの服を掴んでいた小さな手を取り、改めて前を向いた。


 離れた所からでも、皇妃がこちらをにらみ付けているのが分かる。幼い我が子を前にして、よくこんな顔が出来るものだ。


「話には聞いていたけれど、ルドヴィカとずいぶん仲が良いのね」

「ルドヴィカさんと一緒にいると、とても楽しくて」

「そんなことを言って、私の娘にどんな話を吹き込んでいるのかしら。自分の父親の失政のせいで闇に葬られた王朝は、どれだけ素晴らしいものだったか、なんて話を教え込んでいるんじゃなくて?」


 皇妃の嫌みに合わせるように、後ろにいた女たちは互いに目配せをして、くすりと笑う。

 これ見よがしな態度は、相変わらず息がぴったりだ。


 テレーズにとって、この程度の嫌みや当てこすりはいつものこと。もう慣れてしまった。


「詳しいことは、ルドヴィカさんにお尋ねください」

「信用ならないわね。尋ねたところで、あなたが口止めをしているでしょうに」


 信用ならない。

 それはテレーズに向かって言ったこと。だが聞きようによっては、ルドヴィカに対する言葉にも受け取れる。


 テレーズの手を握っていた小さい手に、きゅっと力が込められたのが分かった。


 取り巻きの一人がやって来て、小さい手をテレーズから引き離した。

 皇妃の元へ行くようにと促されるルドヴィカ。

 ルドヴィカはその場から動こうとしないが、


「早く来なさい、ルドヴィカ」


 怒ったような声に呼ばれると、おずおずと母親の元に向かった。


 皇妃はルドヴィカの手を取ると、再びテレーズに鋭い視線を突き刺した。


「いいこと、私の娘にこれ以上なれなれしくするのは止してちょうだい。たぶらかす相手は、フランスから追い出された、可哀相なお仲間だけになさい。まあでも、あなたはもうすぐオーストリアからも追い出されるのだから、こんな忠告をする必要はないでしょうけれど」


 捨てぜりふを吐き、その場を後にする。取り巻きとルドヴィカもそれに続く。

 テレーズとココだけが、その場に残される。


 すると、ルドヴィカが歩きながら、顔だけをこちらに向けた。


『こんなのイヤ』


 と言うかのような表情だった。


 ウィーンに来てからずっと、テレーズの中で、くすぶっていたものがあった。

 それは、どんな場面でも押しとどめるしかなかった怒り。燃焼不良の薪のようなものだった。


 今、そこから火が生まれた。

 火はまたたく間に、燃えさかる炎となった。


(私のお母様だったら、絶対にこんなことはしなかったわ!)


 もしも、これがテレーズの母だったら。

 自分が気に食わないと思う相手に、我が子が懐いているという理由で、我が子に対してまで冷淡になることは絶対にない。


 テレーズは、娘として十四年と半年、マリー・アントワネットという女性のことを近くで見てきた。だからこそ確信を持って言えるのだ。


 それに引き換え、このナポリ女はどうだ。


 自分の産んだ子供を顧みないばかりか、都合のいいときだけ母親(づら)をする。

 こんな女が、オーストリアでは称えられるのか。

 子供を何人も産んでいれば、帝国の母だと誉めそやされるのか。


 たとえどれだけの取り巻きや臣民が、このナポリ女のことを賛美しようとも、それらの声に、テレーズは異議を唱える。

 皇妃マリア・テレジアは、子供の母親として、マリー・アントワネットの足元にも及ばない存在だ。


 そう思った。けれども、


(我慢しなくちゃ、テレーズ)


 自分自身に強く言い聞かせた。


 本当は、目の前にいる女たちに向かって、怒りの丈をぶつけたい。そのついでに、三年近くいびられ続けた鬱憤を、今ここで吐き出してしまいたい。


 だがそう思ったままに行動するほど、テレーズは軽率ではない。


 出立の日まで、まだ日数がある。引き続きウィーンで世話になる身。あとさき考えない振る舞いは禁物だ。


 目を閉じて、深呼吸をした。高ぶった感情を落ち着かせるために。

 そして、一歩を踏み出した。


「お待ちください」


 皇妃たちが立ち止まる。

 その視線が注がれる中、テレーズは彼女たちの正面に回り込んだ。


「私は諦めません。何度でも、ルドヴィカさんのことをたぶらかしに参ります」


 何を言い出すかと思えば、とでも言いたそうに顔を見合わせる大人たち。


 テレーズは構わず、その場で屈んだ。


 皇妃とルドヴィカが繋いでいた手。

 その上から自分の両手を重ね、


「ですから、どうかこの手を離さないでいただきたいのです」


 屈んだ姿勢のまま、顔を上げた。


「皇妃様にとって、ご長男や、年少の姫君たちだけでなく、ルドヴィカさんもかけがえのない我が子。それはルドヴィカさんにとっても、また同じことです。皇妃様がお母上であるという事実は、かけがえのないもの。親以外の人間が、親の代わりになることは、誰にでも容易く出来ることではありません」


 テレーズは訴える。

 どれだけ人形をいじめたところで、届かなかったルドヴィカの思い。それが今こそ、伝えるべき相手に届くように。


「もし今後も、皇妃様とルドヴィカさんの手が離れてしまうことがあれば、そのときは、私がまた邪魔をしに参ります。ウィーンにいる間は何度でも」


 皇妃の視線が、不意にそらされた。

 こちらの言うことに、思い当たる節があるのだろうか。


「私がそうすることで、ルドヴィカさんの寂しさが少しでも紛れるなら、皇妃様も皇帝陛下も、ルドヴィカさんに目を向けくださるのなら、私は」

「いい加減になさい!」


 突然怒鳴り声をあげた皇妃が、テレーズの両手を払い除けた。


「自分が、誰に対して、何を言っているか……恥を知りなさい」


 たった今怒鳴ったわりには、続く言葉に勢いがない。その目は泳いでいる。

 きっと皇妃も、自らの非を自覚している。

 ならば、家族でもない人間がお節介を焼くのは、ここまでだ。


 テレーズは立ち上がり、姿勢を正して皇妃に向き直る。今の言動が立場をわきまえぬものだったことを丁重に詫びた。


 それから、ココの元に向かった。ココは少し離れた所で、テレーズのことを行儀よく待っていた。


 ルドヴィカは皇妃に任せるとして、テレーズだけでヨハナを探しに行こう。今起こったことも、ヨハナになら、すぐ話が通じるはずだ。


 テレーズは皇妃たちに背を向け、ココと共に歩き出した。

 ところが、


「皇妃様、いかがなさいました」

「まさかお腹のお子が」


 耳に入ってきた声に足を止め、振り返った。


 彼女たちが座り込んでいる。

 テレーズはきびすを返し、駆け寄った。


 お腹を押さえる皇妃は、苦悶の表情を浮かべている。

 他の大人たちは、一人を残してその場からいなくなった。助けを呼びに行ったようだ。


「お姉さん、どうしよう、お母さまが……」


 ルドヴィカも動揺している。

 こんな状況だというのに、母と娘の手は繋がれたままだ。


 考えるより先に、テレーズは動いた。

 宮殿という場所で、女性らしさとはほど遠いしゃがれ声を張り上げ、助けを求めた。




 駆けつけた人々の助けを借りて、産室に運ばれていく皇妃。その姿を見届けた後、テレーズはルドヴィカを連れて、自分の部屋に戻った。ヨハナにも会えたので、事情はすでに説明している。


 お産はいつ終わるのだろう。

 何もせず、ただ待つという状況は心苦しいばかりだ。


 そこへ、二人分の食事が運ばれてきた。


「ルドヴィカさん、今日の夕ご飯は、私の部屋で一緒に食べましょう」


 声をかけるが、ルドヴィカは返事をしない。ソファに座ったまま、うつむいている。ココがかたわらに寄り添っているが、ルドヴィカがいつものようにココとじゃれることはない。


 皇妃のことが心配で、不安でたまらないのだ。


 その姿を見ながら、テレーズの脳裏に、いつかの記憶が呼び起こされた。


 自分が、今のルドヴィカくらいの歳だった頃、母のお産に立ち会ったことがあった。

 陣痛に苦しみ悶え、今にも死んでしまいそうだった母。テレーズは産室の隅で、母と、産まれてくる弟か妹のために祈っていた。


 ちょうどその時、父から励ましの言葉をもらった。


 父の目に映っていた、テレーズの姿。

 それは、今テレーズの目に映るルドヴィカの姿と似ているのだろうか。


「大丈夫よ、ルドヴィカさん」


 テレーズはソファの前でひざまずき、正面からルドヴィカを見つめた。

 顔を上げたルドヴィカの瞳は、不安げに揺れている。


「あなたのお母様、皇妃マリア・テレジア様は強い女性よ。だって、あなたたちをお産みになったんだもの」


 小さい手の上に、テレーズは自分の手を重ねる。


 ルドヴィカは小さく笑みを浮かべて、こちらの手を握り返した。


 すると、部屋に人が来た。扉越しの声はシャンクロ夫人。

 待ちわびた知らせかもしれない。


「私が行くわ。ルドヴィカさんはココと待っていて」


 一旦手を放し、テレーズは早足で扉に向かった。


「皇妃様は?」


 扉を開けると同時に問うた。


 シャンクロ夫人は、こちらの勢いに驚いたのか目を丸くする。

 だがそれも束の間、顔をほころばせた。


 母子ともに健やかで、産声を上げたのはルドヴィカの弟だという報告。


 テレーズは感極まって声を上げた。駆け寄ってきたルドヴィカと抱き合い、お産が無事終わったことを喜んだ。




【78. 敵国女は訴える 後編】


≪補足≫

 今回の話で生まれた皇帝夫妻の次男。フランツ・ヨーゼフ一世の父(シシィの舅)ではありません。彼は三男なので、生まれるのはもう少し後です。

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