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79. 向かうべき場所へ

 この日の夕刻、フランツは長女の部屋に足を運んだ。

 最後に部屋を訪れたのは、いつだっただろう。すぐに思い出せない。


 すぐに思い出せない。

 きっとそれが、これまでの親子の距離だった。


 世継ぎだ帝位だと、毎年のように生まれてくる子供が無事に成長するかと。そうしたことにばかり目を向けてきた。

 一方で、長女に寂しい思いをさせてきたのだ。


 こちらから部屋に行くことは、長女にも養育係にも伝えていない。かしこまらない、普段の姿を見たかった。


 部屋に入ると、女官が一人いた。

 彼女は確か、副養育係。

 やけに驚いた顔をするなり、うやうやしい態度になる。珍しい訪問者が来たとでも思っているのだろう。


「いかがなさいましたか、陛下」

「ルドヴィカの顔を見たくなってな」

「今は授業を受けられています」

「何の授業だ」


 彼女は、掛け時計の方を見る。


「ただ今の時刻ですと、神父様のお話をお聞きになっているかと」


 宗教教育は、君主の子女にとって欠かせないもののひとつだ。


 ちゃんと勉強しているのか、偉いなと。直接伝えたいときに限って本人はいない。


「ルドヴィカ様をお呼びいたします。陛下がお見えになったのですから」

「構わない。授業を中断させても悪いだろう。それに一度、あの子の部屋をじっくり見たいと思っていた」


 不思議そうな顔をする副養育係を横目に、フランツは室内を見回した。


 ルドヴィカは慎ましい子で、わがままを言わなければ、親に甘えることもなかった。

 何かをねだったといえば、今から三年ほど前に、フランス語を習いたいと言い出した時くらい。


 そんな長女のことを、年齢以上に賢く、手のかからない子だと思っていた。


 フランツの知らない時間を、長女が過ごしてきた場所。

 隅々まで見ていると、ふと棚に目が留まった。


 包帯でぐるぐる巻きにされた、人形とおぼしきものが置いてある。


 副養育係に、これは何だと尋ねた。

 すると、彼女が動揺の色を見せる。


 その反応から、フランツは察した。


「まさか、これがブオナパルテ人形か」


 君主から咎めを受けると、彼女は思っているのだろう。しつけが出来ていないと。

 だとしたら、それは杞憂だ。


「貴殿を叱るために、余はここへ来たのではない。ルドヴィカがいないのであれば、この人形に用がある」


 ブオナパルテ人形について詳しい話をするよう、彼女に命じた。




 それから長女の部屋を後にし、妻の元に向かった。


 妻は床上(とこあ)げ前で、寝台の上にいる。

 フランツが寝所に入ると、いつもの笑顔に迎えられた。


 枕を背もたれにして体を起こした妻。

 すぐ隣に、フランツは腰かけた。


「これが、例のブオナパルテだ」


 持ってきた敵将を妻に渡した。妻は、まじまじとそれを見る。


「前に見た時と違うわ」

「何が違うんだ」

「前にこの人形を見た時、こんなものは巻かれてなかったわ」


 こんなもの、というのは包帯のこと。


「ルドヴィカが乱暴に扱いすぎて、腕や脚がもげそうになっていたらしい。つい先日、今までいじめて悪かったと人形に謝りながら、手当てをしたそうだ」

「ルドヴィカが?」

「ああ。包帯を巻くのはマリー・テレーズが手伝ったと、副養育係が話していた」

「そうだったの……」


 妻は気を落としたように、うつむく。

 以前にも、妻はルドヴィカのことで報告を受けていた。人形に敵将の名前を付け、いじめて遊んでいると。

 そのことを、妻はフランツに伝えなかった。報告内容を嘘だと決めつけ、問題をそのままにしていたという。

 かといって、妻だけが悪いのではない。

 フランツもまた我が子の問題に気づけなかったのだから、父親も母親も同罪だ。


「どうした、テレーザ」


 妻がうつむいたまま何も言わなくなった。

 フランツが顔をのぞき込むと、


「馬鹿ね……」


 泣いていた。


「女の子が、人形を、こんなふうになるまで」


 長女が乱暴に扱ってきた敵将。それを顔に押しつけ、肩を震わせる。


「こんなことにも、気づけない、なんて……」


 涙を流したところで、我が子に寂しい思いをさせてきたことの免罪符にはならない。過ぎてしまった時間は戻らない。


「本当に、馬鹿な母親だわ」

「なら、私は馬鹿な父親だ」


 その涙が止まるまで、妻のことを抱きしめた。




■■■




 テレーズにとって、ウィーンでの暮らしは、ある意味で毒だった。

 この宮廷にずっといてもいいと思ってしまった瞬間が、何度あっただろう。


 明日、五月三日。

 いよいよウィーンを発つ。長旅に備えて、今夜は早く寝るつもりだ。


 しかしその前に、これから自分がなすべきこと、決意を再確認する。


 テレーズの目の前に、ひとつの箱がある。

 先日届いたもの。送り主は、父方の祖母の親戚。


 中身はふたつ。

 ひとつは、古くなった白いシャツ。

 父が処刑された時に着ていたもの。経年により変色した血が、濃いシミになっている。


 そしてもうひとつは、幼い少年が描かれた絵。

 ジョゼフの肖像画。


 先日、箱の中身を知った時、テレーズはこれらの形見に触れることをためらった。親不孝な娘が触れていいものではないと思ったのだ。


 それでも、おそるおそる手を伸ばし、父のシャツに触れた。

 気づけば衝動に任せ、胸に強く押し当てていた。


 肖像画にも手を伸ばした。

 弟の唇からは、今にも声が聞こえてきそうだった。

 姉上、と。





 翌朝、テレーズの周りは、これまでにない慌ただしさだった。

 部屋から荷物が運び出される作業を見守っていると、控えていた若い女官に声をかけられた。


「いよいよ、アングレーム公とお会い出来ますね」

「ええ。ミタウでもよろしくね、ショワジー嬢」

「はい、こちらこそ」


 ショワジー嬢は、今年に入ってからテレーズの女官として仕えている。ウィーンに亡命しているフランス貴族で、年齢はこちらより三歳下。


 それまでテレーズのそばに仕える女官は、みな帝国貴族だった。

 エミグレが採用されることは、以前では考えられなかったが、これもオーストリアに嫁ぐ話がなくなった影響であろう。


「新しいお住まいは、どのようなところなのでしょう」

「叔父様のお手紙には、悪くないところだと書かれてあったわ」

「拝見するのが楽しみで仕方ありません」


 二人で話をしていると、訪問者が来た。

 ヨハナだ。彼女一人しかいない。


「ルドヴィカさんは?」

「実を申しますと……」


 なんでも、ルドヴィカは別れの挨拶に行かないと頑なだった。


『ココとお姉さんに会ったら、もっと、かなしくなるもの』


 泣きながら、こう話していたという。


 テレーズの足元では、ココが尻尾を振りながら、落ち着きなくウロウロしている。ヨハナが来たならルドヴィカも一緒だと思い、その姿を探しているのだろう。


「ココ、ルドヴィカさんは来られないんですって」


 こちらを見上げるココ。どうしてルドヴィカはいないの、と言いたそうだ。


 テレーズは改めて、ヨハナに向き直った。


「ルドヴィカさんに伝えてちょうだい。ココも、お別れを悲しんでいたと」

「かしこまりました。それと私から、お礼を申し上げたく思います。ルドヴィカ様のことをいつも気にかけてくださり、テレーズ様には感謝の念しかございません」

「それを言うなら、私もよ。ルドヴィカさんのことで、あなたに助けてもらったもの。これからも、あの子のことをよろしくね」


 あと、とテレーズは言い添えた。


「語学の勉強に励むのはいいことだけど、ちゃんと年齢に見合った内容のものを選ぶのよ」


 別れ際に苦言を(てい)するようだが、これだけは念押しした。

 対するヨハナは、にわかに気を引き締めた顔になる。


「シャンクロ夫人からも咎めを受けました。テレーズ様のお言葉も、心に留めておく所存です」


 そこへシャンクロ夫人がやって来た。馬車の準備が出来たという。


 テレーズはヨハナに別れを言い、部屋を後にした。

 三年間過ごした、自分の部屋を。


 ココ、ショワジー嬢、シャンクロ夫人と共に、外へ向かう。


「お母様がウィーンを旅立つ時も、寂しかった?」


 もちろんです、とシャンクロ夫人は答えた。

 シャンクロ夫人は若い頃、当時ウィーンにいたテレーズの母と面識があったのだ。


「その時に、マリア・テレジア様がこうおっしゃったと伺っています。天使がいなくなると」


 祖母は、母のことを天使に喩えたという。

 そういえば、ヴェルサイユにいた頃はテレーズも言われたものだ。マダム・ロワイヤルは天使のようだと。


「天使は、いなくなっていないわ」


 テレーズが立ち止まると、シャンクロ夫人も足を止める。


「この宮廷には今、ルドヴィカさんたちがいるもの」


 シャンクロ夫人の表情が和らいだ。

 今の言葉で励ますことが出来ただろうか。


「おっしゃるとおりです。ただ私はもう老体。皆々様のご成長をいつまで見届けられるか」

「そんなことを言わないで」


 笑い合い、また歩き出す。

 ほどなくして馬車の前に着いた。


 乗る間際、テレーズはシャンクロ夫人に向き直り、彼女を抱きしめた。


 もうずっと前から、彼女のことを監視役だと思っていなかった。

 自分の敵が少なくなかったこの宮廷で、心の支えとなった一人。母のような祖母のような、そんな存在だった。


「あなたには、どれだけ感謝しても足りないわ」


 シャンクロ夫人からも抱きしめ返される。


「私も、あなた様に出会えて、お仕えできて……幸せでした」


 体を離すと、彼女も泣いていた。

 テレーズは名残惜しさを振り切って、馬車に乗り込んだ。ココ、ショワジー嬢と共に。



 母の実家は、目的の場所へ行くまでの仮住まい。

 もう二度と、この場所に戻ることはない。




【79. 向かうべき場所へ】


≪ウィーン編について≫

 史実の主人公について、以下のような話が伝えられています。

『タンプル塔を出た後、母方の実家に引き取られたが、ウィーン宮廷で冷や飯を食わされていた』

 完全には否定できない話ですが、実のところ、これは王政復古期にブルボン家の支持者によって流布(るふ)された話でもあります。


 革命のせいで不幸になった王女という、イメージ戦略のようなものです。


 この手の話は党派こそ違いますが、ナポレオン一世の退位とともにウィーンへ預けられた二世(一世の息子)が、母方の実家で冷遇されていたという話と通じるところがあります。


 悲劇のヒロイン物語は、どこまでが史実で、どこまでが作り話なのか。真相をはっきりさせるのは難しいでしょう。

 ただ本作について言うなら、

『敵意を向けてくる人もいたが、親切な人もちゃんといた』

 という解釈でウィーン編を書きました。



≪これから先の物語≫

 歴史の教科書に載っている話。

 そして、マリー・アントワネットをヒロインに()えた物語。


 教科書の中で、贅沢の化身と見なされている女性を、革命による犠牲者、悲劇のヒロインと位置づける。

 これは一見すると、正史と相反するようでいて、実はストーリーとして成立しやすいのです。

 何故なら、共通する人や集団を、悪玉に出来るため。


 マリー・アントワネットは、フランス王家に嫁いだせいで不幸になった。ルイ十六世を筆頭に、彼女を不幸にした王家の男たちを悪玉と見なす。

 さらには、フランス革命戦争の交戦国オーストリアは、マリー・アントワネットのことを見捨てた薄情な実家。ウィーン宮廷を冷たい人間の集まりと見なす。


 こうした歴史観にもとづき、娘マリー・テレーズの物語を書いたら。

 どういったシナリオが出来上がるか、誰が悪玉にされるかは、おのずと決まってくるわけです。



 前置きが長くなりましたが、これから先の物語について。

 次々回から主人公が身を置く場所は、亡命中のブルボン家です。


 マリー・アントワネットをヒロインに据えた歴史観、すなわち「マリー・アントワネット中心史観」をベースにして書かれた娘の物語においては、娘は若かりし日の母と同じ目に遭います。


 しかしながら、本作はあくまで「母は母、娘は娘」という解釈です。


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