77. 敵国女は訴える 前編
「春に、ご結婚を?」
「ええ」
「まあ、おめでとうございます」
「その言葉をあなたが私に言うのは、適切ではないわよ」
王女から指摘されたことに、しまった、とヨハナは思った。
彼女がアングレーム公と結婚する。それはすなわち、皇帝の結婚計画が白紙に戻ったということ。
ウィーン宮廷に仕える人間が祝いの言葉を述べるのは、確かに不適切。
ヨハナはばつが悪くなったものの、ひとまず気を取り直した。
「ご出立は、いつになるのですか?」
「四月終わりか五月初めの予定だから、一ヶ月後くらいかしら」
「でしたら、これから旅支度でお忙しくなりますね」
「ええ。それで、あなたに相談したいことがあって、今日私の部屋に呼んだの」
「どのようなことでしょう」
「今あなたに話したことを、ルドヴィカさんにも伝えたいのだけど」
王女が何を言いたいか、ヨハナは察しがついた。
「アマーリアさんが亡くなってから、あの子はずっと落ち込んでいるでしょう。この話を切り出しづらくて」
「でしたら、テレーズ様からルドヴィカ様にお話しなさる際、私が立ち会います」
「それは助かるわ」
安心したように王女は微笑んだ。
ヨハナは生粋のオーストリア貴族。革命思想にしろボナパルトにしろ、害悪以外の何物でもないと思っている。
であると同時に、王女に対して敵意を向ける宮廷人の言動には、かねてより眉をひそめていた。
王女は家族を失い、異国からたった一人でやって来た。
そんな彼女のことを、敵国女だの暗君の娘だのと言って白い目で見る。こうした風潮をつねづね疑問視していた。
ただ、ヨハナがそうした気持ちを抱くようになったのは、道徳的なことだけが理由ではない。
ルドヴィカのことを顧みない皇妃への、ひそかな反発心でもあった。
翌日、ルドヴィカの部屋にて。
ソファに並んで腰かけた姫君二人、その間に座るココ。ヨハナは、彼女たちの斜め横に控えている。
「どうして……?」
信じられない。そう言いたそうな顔で、ルドヴィカは王女のことを見上げる。
「カール叔父さまと、けっこんするんじゃないの?」
「その話はなくなったのよ」
「じゃあ、お姉さんはいなくなっちゃうの?」
「ええ。ウィーンを離れるのは寂しいけど、私とココは、ルドヴィカさんとお別れをしないといけないの」
「ココも!?」
「そうよ」
「イヤ! そんなのぜったいイヤ!」
ルドヴィカは両手でココを抱え、腕の中に閉じ込めた。
「ココとはなれるなんて、ぜったいにイヤ!」
腕の力が強いのか、ココは首を振って苦しそうにする。
この場は、自分が間に入ろう。
ヨハナは王女に断りを入れ、ソファの前にひざまずいた。今ばかりは、普段のように慌てず、落ち着いた態度を心がけながら。
「これは皇帝陛下、あなた様のお父上様が命じられたことです」
ルドヴィカはわがままをぴたりと止め、顔を上げてこちらを見た。
両親に見捨てられたくない。
そう願うルドヴィカにとって、両親とりわけ父帝の意向は絶対なのだ。
ひとまず、ココが苦しそうにしているので、放すようにとヨハナは言った。
ココは、ルドヴィカの腕から抜け出て、王女の膝の上に移る。
ルドヴィカは、赤茶色の背中を目で追っているのだろうか。その横顔は、泣くことを我慢している表情だ。
「お姉さん、本当にフランスに帰っちゃうの?」
「いいえ。次に住むのはミタウという場所よ」
「ミタウ?」
「最近ロシア領になったバルト海」
「ロシア!?」
驚く声が、王女の言葉をかき消した。
「どうしてそんな遠くに行くの。フランスから、もっとはなれてしまうじゃない」
王女は、どう答えようか困っている様子だ。大人の事情を子供に説明できないのが、もどかしいのだろう。
「女性は結婚するとき、旦那様の住まわれる場所に行くものです。皇妃様やクレメンティーネ様がそうであったように」
ゆくゆくはルドヴィカも。
「ヨハナの言うとおりよ。それに、今すぐお別れというわけではないわ。まだ一ヶ月くらいはウィーンにいるから」
突然の別れとなったアマーリアとは違い、王女との別れは、いつになるか前もって分かっている。また、その日まで日数がある。
それが、せめてもの救いだ。
後日、姫君二人とココは、建物の外へ出た。
これまでは室内で過ごすことが多かったが、今日は特別。養育係から許しをもらい、自由時間を長くとっている。ヨハナは付き添いだ。
「外に出るなら、シェーンブルンやベルヴェデーレの方がよかったわ。ホーフブルクだと、のびのびすごせないもの」
中庭を歩きながら、ルドヴィカは不満そうにこぼす。まだ離宮に移る時季ではない。
「そんなことを言わないの。帝国の政治は、私たちが今いるホーフブルクで行われているのよ」
王女は優しく諭すように言う。
「それに、ルドヴィカさんの未来の旦那様も、いずれはここで決まるかもしれないでしょう」
「私のだんなさま?」
ルドヴィカが驚いた様子で聞き返す。
「ええ。あなたはオーストリア大公女、フランツ帝の姫君なのよ。そのお婿さんを誰にするかは、とても大事なことだもの」
王女の話は、子供に教えるような口調ではあるものの、確かな重みを感じた。
あたかも王女自身が、亡き母親の人生から得たものを語るかのように。
姫君二人はココのペースに合わせて歩いている。聞けば、ココはもう老犬で、駆け回るほどの元気はないという。
おしゃべりを楽しむ姫君二人にとっては、時々立ち止まりながらゆっくり歩く速さが、むしろちょうどいいようだ。
二人と一匹の姿は、ヨハナの心を和ませる。アマーリアが亡くなって以来、失われていたルドヴィカの明るさが、また戻ってきたようだ。
しかし、あとひと月もすれば離れ離れ。
そのことを思い出すたび、ヨハナの胸には切ない気持ちが込み上げた。
どれくらい外にいただろう。
ふと空を見ると、ずいぶん日が傾いていた。暗くなる前に、室内へ戻らないといけない。
今は何時か。懐中時計を確認しようとした時、
「見て、お姉さん。あの男の人よ、カロリーヌの」
ルドヴィカの声に、ヨハナはつられて顔を上げた。
向かいから歩いてくる、一人の貴公子。
その姿に、ヨハナは我が目を疑った。
(まさか、彼に会えるだなんて!)
長らくその姿を見ることが叶わなかった。そんな想い人が、こちらへやって来るではないか。
今この場には、彼を狙っていそうな他の女性もいなければ、あんな男のどこがいいのかと嫌みを言う人もいない。
彼とお近づきになる千載一遇の機会。
ヨハナの頭は、もう想い人のことしか考えられなかった。
想い人と語らう時間は、夢心地だった。
「では、私はこれにて」
そう言い残し、彼は颯爽と立ち去る。
すらりとした背中が見えなくなるまで、ヨハナは彼のことを見つめていた。
去り際の姿まで優雅。会話の節々から感じられる教養とエスプリ。
まだ二十代半ばという若さにして、皇帝の覚えもめでたい。
家柄も申し分ないうえに才気あふれる、どこまでも完璧な男性。
それなのに、彼は苦労の多い身だった。
彼の家が治めていた領地が、革命軍の侵略を受けてフランス領に。さらには、そのことを「皇帝トゥグート」に咎められ、宮廷では不遇の身だった。
さりとて嘆いてはいけない。
きっと皇帝も、彼が才覚のある人だと分かっている。
だからこそ、ラシュタット会議に出席するオーストリア代表団の一員に、彼が任命されたのだ。
何人もいる代表のうちの一人ではあったものの、彼の存在は皇帝の目にも留まっている。その証拠に違いない。
ただ肝心の会議それ自体は、無意味なものになってしまった。
昨年暮れから、対仏情勢が悪化。ヨーロッパでは再び戦争が始まった。
クレメンティーネの嫁ぎ先も戦渦に巻き込まれ、ナポリ王家の人々はシチリア島に避難している。
ヨハナの想い人が今ウィーンにいるのも、ラシュタット会議がすでに散会し、代表団が現地を後にしているためだ。
ボナパルトも革命も、つくづく災いしか呼ばない。ルドヴィカの人形に対する暴力にしても、宮廷における王女への風当たりにしても、それらが原因なのだから。
何より、
(クレメンス・フォン・メッテルニヒ様をわずらわせる。まさに災厄以外の何物でもないわ)
暗い現実に意識が向きつつも、想い人と話が出来た幸運に、ヨハナは酔いしれていた。
自分はすでに夫のある身。想い人もまた家庭がある身。
だがしかし、この気持ちは不貞ではない。
相手のことを想うだけなら、自由なのだ。
つい何分か前までのことを振り返ると、頬が緩むのを抑えられない。しまりのない顔をしていては、姫君二人から不審に思われてしまう。
いけないと、ヨハナは自分を叱り、気持ちを切り替えた。
「ルドヴィカ様、テレーズ様」
お待たせいたしました、と続けようとした言葉が止まった。
辺りを見回すが、二人の姿がない。
ルドヴィカも王女も、そしてココもいなかった。
【77. 敵国女は訴える 前編】
≪ウィーン編の女官たち≫
・ヨハナ
本作で名前が出てくる人は全員、史実の人物ですが、彼女のみ例外。モデルも特にいない架空の人物です。
本来なら「なんとか夫人」と名字で呼ばれるはずでしたが、名字が決まらなかったためファーストネーム呼びになったという創作裏話。
ちなみに、事なかれ主義の養育係は、モブのような人物として書いています。
・主人公の女官たち
作中ではシャンクロ夫人を筆頭に、女官兼監視役が何人かいました。シャンクロ夫人以外(部下たち)はモブとして創作。
リーダー兼ベテランのシャンクロ夫人が、主人公にちゃんと敬意を払っていたため、後述する皇妃の取り巻きとは違い、部下たちは主人公に対して親切でした。
・その他
皇妃の取り巻きはモブ、悪役としての演出。
アマーリアやクレメンティーネの女官もモブ。姫君たちの女官も取り巻きに含まれているのか、それはご想像にお任せします。
とはいえ「皇妃は女腹」と陰口をたたいていた面々の中には、取り巻きも少なからずいたかもしれない。それが大人たちの世界です。




