73. 敵将ブオナパルテ 後編
部屋に戻ったテレーズは、シャンクロ夫人から詳しい話を聞いた。
「ルドヴィカ様のすぐ下には、弟君がおられます。いずれ帝位を継がれることになる、フェルディナント様です」
フェルディナントが生まれた頃といえば、その年の初めにテレーズの父が処刑され、母の身もまた危ぶまれており、さらには前年から対仏戦争が始まっていた。
そうした中にあって、世継ぎの誕生は、当時のオーストリアにとって数少ない慶事だった。
ところが、
「生まれた頃からお体が弱く、また今のままでは、帝位を継がれたとしても、その任に耐えられないのではと懸念されています」
病弱であるうえ、通常の子供に比べ、身体と知能の発達が著しく遅いのだという。
フェルディナントが健康児でないという話は、テレーズもいくらか耳にしていたが、詳しいことまでは知らない。
幼い世継ぎの問題を詮索してはならない。
そうした暗黙のルールのようなものが、この宮廷にはあるのだ。
「フェルディナント様は今年で五歳。これから成長される御身ゆえ、周囲の危惧することが現実になるとは限りません」
「そうね。取り越し苦労になるのが一番いいのでしょうけど」
「皇妃様は、フェルディナント様を出産された後も、長く間を開けずにお子を授かられています。ですが、誕生されるのは姫君ばかり。そろそろご次男をという声は、少なからず聞こえてきています」
将来が危ぶまれる世継ぎ。その下には、さらに幼い姫君たち。
皇帝夫妻の関心は、どうしてもそちらに向いてしまい、健康に育っているルドヴィカに向けられることは少ない。
ルドヴィカが人形に敵将の名前を付け、あのように扱っているのは、寂しさを紛らわせるための行動なのではないかというのが、シャンクロ夫人の話だ。
「皇帝ご夫妻は宮廷での務めに忙しく、とりわけホーフブルクにおられる間は、特別な機会がない限り、ルドヴィカ様とお顔を合わせることはほとんどありません。ただルドヴィカ様も、昨年あたりまでは、そのことを不満に思われていなかったようです」
「なら何かきっかけがあったの?」
敵軍侵攻の危機に際して帝都を離れた時のことだと、シャンクロ夫人は答えた。
あの時、テレーズたちの避難先はプラハだったが、皇帝夫妻の子供たちは別の場所だった。
ルドヴィカにとって、寝たきりの弟や、まだ物心つかない妹たちと何日間も一緒に過ごしたのは、その時が初めてだった。
そこでルドヴィカは気づいてしまったのだろう。
弟や妹たちに比べて、自分が両親から関心を向けられていないことに。
シャンクロ夫人は、ちょうどその時期プラハにいたので、避難先でルドヴィカがどう過ごしていたのか知らなかった。
帝都に戻ってから、ヨハナをはじめ何人かの女官を通じて、ルドヴィカの変化を知った。
避難先から戻って以来、見受けられるようになった特異な行動。人形にブオナパルテという名前を付けて、乱暴に扱っていると。
「陛下とそのご家族が、帝都から離れることを余儀なくされたほどの大ごとでした。周囲の大人が憎々しげにブオナパルテの名を口にしていれば、ルドヴィカ様が影響を受けるのも無理からぬことです」
しかし、とシャンクロ夫人は続ける。
「ルドヴィカ様の心の奥深くにあるお気持ちは、おそらく単なるフランス憎しブオナパルテ憎しではありません」
「両親に、もっと自分のことを見てほしい」
テレーズの言葉に、シャンクロ夫人はうなづいた。
「皇帝ご夫妻は、このことをご存じなの?」
「皇妃様にはお伝えしています」
ルドヴィカの行動について、養育係とヨハナから、皇妃に報告をしたことがあったという。
皇妃ははじめ、その報告を信じようとしなかった。
それでも、痛めつけられた人形そのものを見せられると、皇妃の考えも一旦は変わったようで、ルドヴィカ本人に直接尋ねて確かめようとした。
ところが、
『この人形をこんなふうにしたのは、あなたなの、ルドヴィカ』
『……ちがいます』
ルドヴィカは否定した。
『ほら、ルドヴィカは違うと言っているじゃない。この子が人形をいじめて遊ぶなんて、がさつなことをするはずがないわ。ありもしないことで、私の娘を悪く言わないでちょうだい』
皇妃は、養育係とヨハナを叱ったという。
話を聞きながら、テレーズは思わずため息を漏らした。
(あのナポリ女……)
という悪態も口からこぼれそうになったが、それは押しとどめた。
「陛下には、皇妃様から直接お伝えくださるとおっしゃってはいましたが」
シャンクロ夫人はこう言うものの、ルドヴィカの問題は母親で止まったまま、父親まで話がいっていなさそうだ。少なくとも、テレーズはそう予想する。
皇帝夫妻の子供の世話をする女官は何人かおり、彼女たちの上に立つのが養育係。なおヨハナは副養育係だ。
肝心の養育係はというと、ルドヴィカの問題について、当初は解決に向けて積極的だった。
だが人形のことを報告した時、皇妃の不興を買って以後は、消極的になった。言うなれば、保身のため事なかれ主義に転じたというわけだ。
「なるほど。話しづらいことまで教えてくれてありがとう、シャンクロ夫人」
「とんでもございません」
ルドヴィカ個人のことだけでなく、皇帝の家族や仕える者たちの事情まで聞くことが出来た。シャンクロ夫人には感謝するばかりだ。
すると、思わぬ質問が。
「テレーズ様がご幼少の頃には、こうしたことはありませんでしたか」
「こうしたこと、というのは?」
「兄弟姉妹が何人もいれば、親の関心をもらう子とそうでない子とで、どうしても隔たりが生じてしまうものです」
テレーズが育った場所でも同様のことはなかったかと。
質問の答えに、テレーズが迷う必要はない。
「いいえ、そのようなことは決してなかったわ。マリー・アントワネットは、どの子供にとっても素晴らしい母親だったもの。娘である私が、生き証人よ」
「まあ、それは……」
目頭を押さえるシャンクロ夫人。テレーズは、近くにあったハンカチを彼女に手渡した。
シャンクロ夫人が退室した後、テレーズは改めて、ルドヴィカのことに思いをめぐらせた。
王侯貴族の親というのは、父親も母親も、自分の子供が成人するまでは、親子で一緒に過ごす時間をほとんど持たないものだという。
大人たちは社交が仕事。自分の子供に構っている時間がない。
子供の世話を養育係に一任するのは、そうした理由からなのだと、どこかで聞いたことがある。
そう考えると、皇帝夫妻はとりたてて薄情な親とは言えないのかもしれない。
だがそれでも、先ほどのルドヴィカは尋常な様子ではなかった。「他の家庭でもそうだから」の一言で片づけていい問題ではない。
人形のことを皇妃から問われた時、ルドヴィカは嘘を吐いたうえ、自分の気持ちを母親に伝えなかった。
親子が顔を合わせる機会が少ない。それゆえ親に甘えられず、本音を口に出せないのだ。
もしも、ルドヴィカが下のきょうだいと孤独を分かち合うことが出来ていたら、今とはまた違っていたのかもしれない。
ヨハナから聞いた話では、ルドヴィカには弟妹がいるものの、どの子も遊び相手になっていない。
フェルディナントの下には、続けて四人の皇女が生まれている。
四人のうち一番上の子は、生まれてすぐに亡くなった。さらに年少の妹となると、ルドヴィカと一緒に遊ぶには幼すぎるのだ。
ルドヴィカは年齢以上に聡く、言動が大人びてはいるが、まだ子供。親の愛情を欲しがることは、わがままでも特別なことでもないはずだ。
「まだ、あんなに小さいのに……」
やるせない思いが、テレーズの口からこぼれた。
後日。
アマーリアが回復したと聞いて、テレーズはさっそく彼女の部屋に行き、ルドヴィカの話をした。
てっきり彼女も驚くかと思いきや、
「そのことなら、私も話に聞いてるわ」
「アマーリアさん、知ってたの?」
「ええ。去年だったかしら、ルドヴィカが人形をいじめて遊んでるって話を小耳に挟んだの」
先日テレーズが見た光景は、いじめて遊んでいるというレベルではなかった。
もしかしたら、当初は子供の遊びに見えていたものが悪化して、今のような状況になっているのかもしれない。
「ルドヴィカさんはまだ六歳、それも女の子よ。あのまま成長してしまったらと思うと、将来が心配だわ」
「テレーズさん、もしかして止めさせようとしてるの?」
「もちろんよ。見て見ぬふりは出来ないわ」
人形への暴力は悪いことだと、きっとルドヴィカも分かっている。でなければ、皇妃から尋ねられた時に、嘘を吐かなかったはずだ。
悪いことをしている自覚があるなら、今のうちに正した方がいい。
ところがアマーリアの返事は、
「このことに、テレーズさんは関わらない方がいいと思うわよ」
「どうして」
彼女までもが、この問題を傍観するのか。
「だって、テレーズさんもブオナパルテも、フランス人でしょう」
「私をあんな男と一緒にしないで!」
テレーズは、つい感情的になって言い返した。
共和国の敵将と同類扱いされるにしても、今の言葉が、他の宮廷人からの嫌みなら聞き流せる。
アマーリアにだけは、そうしたことを言ってほしくはなかった。
「ごめんなさい。今のは言い方が悪かったわね。テレーズさんとあの敵将は、同じだって言いたいわけじゃないの」
「じゃあ、どういう意味なの」
「もしもの話よ。テレーズさんがルドヴィカを注意して、ルドヴィカが反発して、そのことがお義姉様の耳に入ったらどうなると思う?」
言われたことに、テレーズはハッとした。
「そのせいで難癖をつけられて、今以上につらい立場に置かれるテレーズさんの姿は、私が見たくないもの」
人形への暴力を止めさせることにばかり意識が向き、そこまで思い至らなかった。
けれども、
「アマーリアさんは、ルドヴィカさんのことが心配じゃないの?」
「もちろん心配よ。ただ私はあくまで叔母だもの。遊び相手になってあげることは、いくらでも出来るけど、お義姉様やフランツお兄様の代わりにはなれないわ」
悲しそうな面持ちで彼女は続ける。
「それに、お義姉様のことを考えると、仕方がないことだとも思うの」
「どうして、仕方がないだなんて」
「私たちのお母様は息子を十二人も産んだのに、お義姉様が産むのは娘ばかりって、陰で言う宮廷人もいるみたいなの」
先帝レオポルト二世の妃は、早くに亡くなった子供も含めて十二男四女を産んだ。
今の皇妃が産んだ息子は、まだフェルディナント一人だけ。
「そのうえ、フランツお兄様は愛妻家でしょう。お義姉様が抱える気苦労を一緒に背負いこんでるのかもしれないわ」
すでに六度も出産していながら丈夫な息子をもうけていない皇妃も、愛妻家の皇帝も、下の子供たちにばかり関心を向けるのは仕方がない。
アマーリアはそう言いたいようだが、
「なら、ルドヴィカさんの気持ちはどうなるの。それが子供に愛情を与えなくていい理由になるだなんて、私は絶対に思わないわ」
テレーズはまっすぐとアマーリアを見つめた。
自分が訴えることは間違ってはいない。そのことを、彼女にも分かってほしい。
「前は恋敵だったのに、もうすっかり仲良しね」
アマーリアは、ふっと微笑みを浮かべた。
「私は真面目な話をしてるのよ」
「分かってるわ。もちろん私だってルドヴィカのことは心配だし、どうにかしてあげたいって思うもの。だからこそ、今までどおり小さなお姫様のそばにいてあげましょう」
アマーリアは薄情なのではない。この宮廷におけるテレーズの立場も考慮して、問題に深入りしない方がいいと忠告しているのだ。
この一件があったのち、テレーズは努めて、これまでどおりルドヴィカと接した。
アマーリアの助力やココの存在もあり、ルドヴィカは従来の調子を取り戻していった。
テレーズは胸をなで下ろしつつも、心のつかえが取れないままだった。
この問題をどうにかしたい。
だがあの日の出来事を話題に出し、そのせいでルドヴィカが機嫌を損ねたら、また暴力行為に走ったら。
そう思うと、問題解決のために行動を起こせない。
見て見ぬふりをしている大人たちと、テレーズもまた変わらなかったのだ。
【73. 敵将ブオナパルテ 後編】
≪フェルディナントについて≫ ※ネタバレあり
ルドヴィカの弟。のちのフェルディナント一世です。
実のところ、彼個人についてはあまり調べられていません。それでも確認できている話では、
「世継ぎではあったが、ずっと病床におり、両親から顧みられることはなかった」
「父帝フランツが二度目の寡夫となり、再々婚するまで、そうした状態だった」
「フランツの三人目の妃は、まま母なんて呼び方をしたら失礼なくらい、フェルディナントにとって素晴らしい母親だった。彼女のおかげで、フェルディナントはようやく世継ぎとしての教育を受けられるようになった」
とのこと。
ただし留意したい点があります。
作中でも書いたとおり、フェルディナントが生まれた後、皇妃は立て続けに娘を産んでいます。
いくら彼女が毎年のように子供を授かっていたとはいえ、健康な男の子がいつ生まれてくるかは分かるはずもありません。
したがって、
「健康に育っているルドヴィカよりも、心配が尽きないフェルディナントの方が両親の重要な関心事だった」
というのが作中の設定です。




