66. 姫君たちのプラハ 後編
プラハを発つ当日、テレーズはいつもより早く目が覚めた。
二度寝しようと思うも、どうにも寝つけない。
ココはまだ寝ている。
寝台から出たテレーズは、隣の部屋に行った。
そこにはシャンクロ夫人がおり、出立の支度をしていた。
「クレメンティーネ様も、つい先ほど起きられました。城内を歩くとおっしゃっていましたよ」
「こんな朝早くに?」
「ええ。よろしければ、ご一緒されてはいかがですか。ウィーンに戻られれば、クレメンティーネ様は婚礼の準備でお忙しくなります。ゆっくりお話が出来るのは、今のうちだけでしょう」
その言葉が、テレーズの背中を押す。
「私も、散歩に行くわ」
シャンクロ夫人は笑顔になり、かしこまりました、と答えた。
プラハで過ごす間、クレメンティーネについて気づいたことがある。
今までテレーズが思っていたほど、彼女はテレーズのことを嫌っていない。こちらに話しかける言葉や、日々の何気ない行動から、彼女の優しさが感じられた。
彼女がアマーリアといつも一緒にいたのは、なにもテレーズをのけ者にするためではなかった。慣れない環境でアマーリアが体調を崩さないか、姉として気を配っていたのだ。
むしろ、テレーズがクレメンティーネの立場だったら、同じように自分の妹の心配をしただろう。
クレメンティーネと言葉を交わすことはあっても、二人だけで話す機会はほとんどなかった。
シャンクロ夫人の言うとおり、じっくり話が出来るのは今だけかもしれない。
空はすでに明るく、城内は朝日に照らされている。身づくろいを済ませたテレーズは、シャンクロ夫人と館の外へ出た。
ほどなくして、クレメンティーネの姿を見つけた。彼女も女官を一人連れている。
「テレーズさん、あなたも早起きね」
彼女は少し驚いた様子で、こちらにやって来る。
「昨日寝た時間が早すぎたせいか、もう目が覚めてしまったの」
「まあ、私もよ。今日から何日もかけてウィーンに戻るから、しっかり眠っておこうと思って。でも結局、寝ていた時間はいつもと変わらなかったわ」
彼女の言うことは、テレーズとまったく同じだ。
二人で話し始めると、シャンクロ夫人ともう一人の女官は、こちらから距離をとる。
それを合図にするかのように、
「実は、考え事をしていたの」
クレメンティーネの話す言葉が、突然フランス語になった。
彼女からフランス語で話しかけられるのは初めてだが、テレーズへの心遣いなら、素直に応じよう。
「考え事って、何を?」
「ここだけの話よ」
彼女が人差し指を口元に当てる。
そのしぐさは、生前の母というより、いつかのアマーリアの姿と重なった。
「私ね、本当はウィーンに戻りたくないの」
「どうして、敵軍の侵攻は遠のいたのよ。婚礼も延期してたんでしょう?」
「それが理由よ」
「え?」
「お嫁に行きたくないの」
テレーズは言葉を失った。
まさか彼女は、ナポリ王太子という婚約者がいながら、違う相手に許されぬ恋をしているのでは……といった想像が脳裏を駆けめぐる。
「何年も暮らしたウィーンや家族と離れて、遠い異国に行くのよ。すごく寂しいもの」
ところが実際の理由は単純明快。許されぬ恋どうこうは、当て推量もいいところだった。
そういえば、マリア・アンナが話していた。自分にとって、プラハは第二の故郷だと。
クレメンティーネにとっては、ウィーンが第二の故郷なのかもしれない。
「でも、お嫁に行きたくないなんて言ったら、お義姉様に叱られてしまうわ。『あなたは私の弟と結婚して、ナポリ王家の一員になるのよ。その自覚を持ちなさい』って」
クレメンティーネは不意に真剣な面持ちになり、まっすぐとこちらを見る。
「私は、これまでお義姉様の顔色をうかがって、あなたと距離を置いてきたわ。ウィーンに帰ったら、また前のような、あなたに対して冷たい従姉に戻ってしまうと思うの」
でも、と彼女は続ける。
「本当はあなたと仲良くしたかった。去年はじめて会った時から……いいえ、それよりも前、あなたがウィーンに来ると決まった時から」
クレメンティーネがテレーズと親しくすることで、皇妃の不興を買えば、義姉妹の関係にひびが入る。
ひいては、オーストリアとナポリの関係に支障をきたすかもしれない。
それゆえ、クレメンティーネはあえてテレーズと距離を置いていたのだ。
「どうか許してね、テレーズさん」
テレーズはとっさに下を向いた。
どうしたの、とクレメンティーネに尋ねられる。
「テレーズさん、泣いてるの?」
彼女の動揺する声。
泣いてはいけないと、テレーズは自分に言い聞かせる。こぼれそうになる涙をぬぐい、顔を上げ、笑ってみせた。
「あなたの気持ちが聞けてよかったわ。ありがとう、クレメンティーネさん」
彼女は心配げにこちらを見つめていたが、ふっと目元を和らげた。
それから、テレーズは彼女と連れ立って城内を歩いた。
いい機会なので、以前から気になっていたことを尋ねてみよう。
去年秋の夜会にて。
テレーズに冷笑を向けていた女性の一団が、クレメンティーネを前にすると、慌てた様子でその場から立ち去った。
あの場面で、一体何があったのか。
「私から注意をしたまでよ」
「注意?」
「多くの宮廷人が集まる場で品のない話題を口にするなんて、帝国貴族の女性として、然るべき品位も持ち合わせていないのかしらって」
品のない話題とは、どんな話だったのか。聞き出す必要はない。良い内容でないことは分かりきっている。
「やっぱり、私のことを助けてくれたのね」
「助けたなんて大げさよ」
ああでも、と彼女は続ける。
「本来なら、ああいう場面でこそ、カールお兄様自らが颯爽と登場すべきよね」
「カール大公が?」
「そうよ。乙女に意地悪をする悪役たちの前に、乙女の相手役が現れて、意地悪を止めさせる。その方が絵になるのに、妹が兄の代役だなんて格好がつかないじゃない」
不満そうに話すクレメンティーネ。
絵になるというが、それは芝居か何かの筋書きであろうか。
「仕方ないわよ。カール大公は今戦場にいるんだから」
「お兄様が帝都に戻ったら、テレーズさんから言ったらいいわ。もっと私のことを守ってちょうだいって」
「言えないわよ、そんなこと。要らぬ心配はかけたくないわ」
「要らぬ心配じゃないわ、大事なことよ。どれだけ戦場で武功を立てても、いずれ奥方になる女性のことを守れないなんて、男性として良くないでしょう!」
やけに力説する。テレーズとカール大公の仲を、そこまで後押ししたいのだろうか。
アマーリアに比べて、クレメンティーネは落ち着きがあると思っていた。
だが振り返れば、ここで過ごしている間の彼女たち姉妹は、二人そろってにぎやか、というより騒々しかった。
今見せている姿が、クレメンティーネの素の性格だとしたら、案外二人は似た者姉妹なのかもしれない。
夜会での出来事は真相が分かったとして、また他にも、気になっていたことがある。
「クレメンティーネさんから見た皇妃様って、どんな人なの?」
途端、クレメンティーネは明るさを消し、神妙な面持ちになった。
やはり答えづらいことなのだろうか。
「お義姉様は、フランツお兄様のことを世界中の誰よりも愛しているの。だからテレーズさんに対して、あんなふうなのよ」
「どういうこと?」
「自分の愛する男性の口から、自分以外の女性の名前が頻繁に出てきたら、面白くないでしょう」
その可能性は、まったく考えていなかった。
皇帝が、あのしかめっ面が、テレーズに懸想している。
なんて不埒な男、妻子持ちのくせに、自分の弟と結婚させようとしているくせに、破廉恥にもほどがある……と。
テレーズは心の中で叫んだが、
「勘違いしちゃだめよ」
クレメンティーネがおかしそうに笑い、テレーズの思考を止めた。
「フランツお兄様は奥方ひとすじなのよ。他の女性を好きになるなんて、ありえないわ」
「ならどうして、フランツ帝が私のことを?」
「あなたのことを心配してるのよ。皇帝としても、従兄としても」
「それは、私に監視が必要だからじゃなくて?」
「もちろん政治的な理由もあると思うけど、それだけじゃないわ。ああ見えて、お兄様は口を開けば、テレーズさんのことばかり話してるもの」
にわかには信じがたい。元より、そのことと皇妃にどんな関係があるのか。
「だからこそ、お義姉様は、あなたにやきもちを焼いてるの」
クレメンティーネの話によると。
皇帝は、帝弟のうちの誰かに、テレーズを娶せようとしている。
未婚の帝弟の中で、カール大公は最年長。
彼は容姿が優れているだけでなく、あらゆる面で秀でている。すぐにテレーズの心を射止められるだろうと、皇帝は考えた。
この結婚に際して大事なのは、あくまでもテレーズの意思が伴っていること。王族の婚姻の常である、本人の頭越しに相手を決めることだけはしたくない。
それが、テレーズの母を助けられなかったことに対する償いだと考えているからだ。
皇帝のそうした考えは、皇妃ももちろん知っている。
テレーズをウィーンに迎えることが決まった当初、皇妃はむしろテレーズに対して好意的で、会うのが楽しみだと話していた。
ところが、皇帝の口から事あるごとにマリー・テレーズという名前が出てくるものだから、皇妃は嫉妬し始めた。
皇妃の名前は、イタリア語でマリア・テレーザ。ドイツ語だとマリア・テレジア。
テレーズと同じく、祖母にあやかっている。
愛する男性の口から頻繁に出てくるのが、自分と名前は似ているが、自分ではない別の女性の話題。そのことが、皇妃の嫉妬に拍車をかけているのだと。
「そんな事情があったなんて……」
「フランツお兄様に悪気はないの。ただお兄様は、女心を分かってないのよ」
「ええ、私はてっきり」
そこで、テレーズは口をつぐんだ。
余計なことを言いそうになった。
「てっきり、何?」
「い、いいえ……気にしないで」
今言おうとしたことは、クレメンティーネには聞かせない方がいい。
彼女はもうすぐナポリに嫁ぐ。
そこには、あの伯母がいるのだ。
「テレーズさん、何でも話してちょうだい。今まで出来なかったぶんまで、あなたとたくさん話がしたいの」
クレメンティーネの浮かべる微笑み。
その表情が、生前の母と重なる。
もしも母が生きていたら、今目の前にいる相手が母だとしたら、この苦しい気持ちを聞いてもらいたい。
「クレメンティーネさんは、ナポリ王妃と会ったことはある?」
こちらの質問を唐突だと思ったのか、クレメンティーネは不思議そうな顔をしつつも、あると答えた。
皇帝フランツと皇妃が結婚したのは、まだ先帝レオポルト二世が在位していた頃だった。
ウィーンで執り行われた結婚式。ナポリ王妃マリア・カロリーナは、新婦の母親として式に参列するため、はるばるナポリから帝都へやって来たという。
「その時、私の両親について、何か話してた?」
「どうだったかしら。でもきっとカロリーナ叔母様も、アントワネット叔母様のことを心配してたと思うわ」
「そう……」
「気になることがあるの?」
ある。ウィーンに来てから、ずっと気になっていることが。
クレメンティーネの話によると、皇妃がテレーズに敵意を向けるのは、皇帝をめぐる嫉妬が原因だという。
だが実際には、他にも理由があるのではないか。
『ルイ十六世の愚行には、私のお母様もたいそうご立腹よ』
いつだったか、皇妃が話していた。
その場には宮廷人が何人もいて、皇妃の言葉に彼らも同調し、そのまま父の悪口合戦になった。
あんな会話は、もう思い出したくもない。
皇妃のテレーズに対する敵意には、ナポリ王妃の影響がある。テレーズには、そう思えてならなかった。
ナポリ王妃は、夫君たるナポリ王に代わって政治の舵取りをしている。マリア・テレジア譲りの女傑だという話だ。
ならなおのこと、テレーズの父を、革命を止められなかった無能な君主だと蔑んでいる。
仲の良かった妹のことを、不幸にした男だと憎んでいる。
こうした考えを持つナポリ王妃が、娘たる皇妃に影響を与えている。
その結果が、皇妃のテレーズに対する態度だと考えるのが自然ではないか。
テレーズとナポリ王妃は、実の姪と伯母。
その程度の繋がりが、何だというのだ。
遠くに住んでいる会ったこともない親戚というのは、赤の他人も同然だ。
「私のことを、ナポリ王妃がどう思ってるのか、少し気になったの」
本当は、少しどころではない。
打ち明けるにしても、言葉を選ばなくては。一旦吐き出せば、泣き言や恨みつらみが止まらなくなりそうだ。
「カロリーナ叔母様から手紙をもらってないの?」
「去年もらった手紙には、私のことをナポリに招待したいと書かれてあったわ」
「なら、それが」
「でも親戚付き合いだから、仕方なく、優しい言葉をつづってるだけかもしれない」
手紙のやり取りは一、二往復で終わっている。
彼女が皇妃の母親なのだと思うと、テレーズは返事を書く気になれなかった。
「本心では、きっとこう思ってるんだわ。あんな疫病神の元王女は、一族が一堂に会する場の末席にも入れたくないって。劣悪な血が、半分流れてるって……」
口に出すのは、そこまでにした。
実際言葉にしてみると、我ながらあまりにもひどい吐露だ。こんな話を聞かされては、クレメンティーネにとって、いい迷惑だろうに。
ここから少し離れた所には、シャンクロ夫人と、クレメンティーネの女官も控えている。彼女たちから不審に思われても困る。
(テレーズ、あなたは強い子でいなくちゃいけないのよ)
子供の頃から、自分に言い聞かせてきたこと。
弱さを見せてはいけない。
誰かの優しさに寄りかかり、甘えてはいけない。
「だめね、私ったら。彼女は実の伯母様なのに、こんな悪口みたいなことを言って。少し感情的になってしまったみたい」
取りつくろい、無理に笑顔を作った。
「今言ったことは、他の人には内緒に」
内緒にしてほしいと言おうとしたが、最後まで言えなかった。
クレメンティーネがこちらに近づいたと思う間もなく、テレーズのことを抱きしめたのだ。
脳裏をよぎったのは、生前の母の記憶。
三部会が始まる前日。
演説が終わった後、母は涙しながら、テレーズのことを抱きしめた。
頑張ったわね、と言って。
「私に出来ることは、こんなことくらいしか思いつかないわ」
その声が、テレーズを過去から今に引き戻す。
「でもテレーズさん、覚えておいてね。今みたいに、あなたとたくさん話がしたかった。それが私の本当の気持ちだったことを。ウィーンに戻ってからも、私がナポリに行ってからも」
涙が堪えきれない。強がりの仮面は、いとも簡単にはぎ取られた。
「ええ……忘れ、ない」
声がつかえてしまう。
返事が満足に出来ない代わりに、こちらからも抱きしめ返した。
【66. 姫君たちのプラハ 後編】
≪補足≫
クレメンティーネが自身の輿入れを「遠い異国に行く」と言いました。
作中の頃は、まだイタリアが統一される前。トスカーナとナポリは別々の国。
さらに言うと、二国の間には長らく教皇領があったため、隣り合った国でもありません。
クレメンティーネにとっては、生まれ育ったイタリアに帰るという気持ちよりも、また遠い異国に行くという気持ちの方が強かったのかもしれません。




