64. 姫君たちのプラハ 前編
ウィーンでの生活は二年目を迎えた。
結婚問題や母の遺産のことは進展がないまま、日々は過ぎていく。
冬の寒さが和らいできた頃、帝都に緊急事態が発生した。
フランス共和国軍が侵攻してくるというのだ。
皇帝の家族と共に、テレーズも急ぎ帝都を離れることになった。
シャンクロ夫人が深刻な面持ちで言うには、
「国同士の戦争というのは、宮廷から遠く離れた場所で行われるもの。時代をさかのぼれば、敵軍の侵攻により、皇帝とそのご家族が帝都から避難されることもありましたが、私が宮廷に入ってからは初めてのことです」
女子供ばかりの大所帯。全員が同じ場所に行くのではなく、何人かに分かれて複数の避難先へ向かう。
テレーズは、クレメンティーネやアマーリアと同じ場所だ。
出立の支度を終えたテレーズは、部屋から出て馬車を待っていた。
すると、少し離れた所から話し声が聞こえてきた。
「お姉様の結婚が先延ばしになるばかりじゃない。いつまで戦争が続くのよ!」
「アマーリアが心配することじゃないでしょう。あなたがお嫁に行くわけじゃないんだから」
「カールお兄様は何をしてるのよ。ライン川で敵を負かしたなら、イタリアでも勝てるんじゃなかったの?」
「いいから落ち着きなさい。話は馬車に乗ってから聞くわ」
苛立ちを隠さないアマーリアと、なだめるクレメンティーネ。
二人の話すドイツ語は、テレーズにも聞き取れる。それが今ばかりはつらい。
そこへ、皇妃が姿を見せた。
つかつかと歩いてきた彼女は、テレーズの前で立ち止まる。
途端、恐ろしい形相になった。
「こんなことになったのも、元を正せば、あなたの父親のせいなのよ。その自覚はあるのでしょうね」
声を落として、敵国人に対する憎しみを吐き捨てる。
それからすぐテレーズに背を向け、クレメンティーネとアマーリアの方へ向かう。
打って変わって明るい声で、二人に励ましの言葉をかけた。
あまりにも露骨な敵意。
相手は宮廷の女ボス。テレーズは逆らえない。
せいぜい出来ることといえば、
(なによ、あのナポリ女)
心の中で毒突くことくらいだ。
皇妃とは別の避難先。それが唯一の救いではあるものの、気がかりなことがあった。
クレメンティーネおよびアマーリアと、避難先で上手くやっていけるだろうか。
二人とも、あからさまな態度や言葉に出さないだけで、本心では皇妃と同じことを思っているかもしれない。
特にクレメンティーネ。
なにせ皇妃の義妹。しかも対仏戦争のせいで、彼女自身の輿入れが延期しているのだ。
考え出すと、テレーズの胸は苦しくなる。
馬車の準備が整った。テレーズが乗る馬車には、シャンクロ夫人とココが同乗する。
皇族と従者を乗せた馬車は、次々と宮殿を後にした。
街を行き交う人々は、いつもと変わらない日常を営んでいるように見える。帝都に危機が迫っていることを、民衆は知らないのだろうか。
窓の外を眺めながら、テレーズはふと思った。
自分が皇帝の監視下にあるのは、単にエミグレから引き離すという以外にも、理由があるのではないか。
その姿が多くの人の目にさらされると、交戦国への敵愾心が刺激されかねない。事によっては、帝都の秩序を乱す原因になる。
つまりは、治安維持のためかもしれない。
ウィーンを発って数日後、一行は最終目的地であるプラハの市門をくぐった。
高台の上にある、ひときわ高くそびえる尖塔。それを目指して馬車は進む。
坂道をのぼる途中、窓の外を見れば、家々の屋根が一面の赤橙色を織りなしていた。
テレーズたちは、今日からプラハで過ごす。
ここに先帝の次女が住んでおり、彼女の元に身を寄せることになった。
思いもよらない形でのプラハ訪問。
だがあくまで避難生活。旅行ではない。
「マリア・アンナ様のお住まいは、プラハ城内にあります」
これから会う従姉マリア・アンナ。
彼女に関する話は、道中でアマーリアから聞いていた。
アマーリアとは十歳違い、未婚、女子修道院の院長を務めている。彼女のすぐ下の弟がカール大公だという。
「彼女は、どのようなお方なの?」
シャンクロ夫人の意見も聞いてみよう。
「温和なお人柄だったと記憶しています。ただ実を申しますと、私はあまり話をしたことがございません」
先帝レオポルト二世は、元々トスカーナ大公国の君主で、彼の妻子は同国の首都フィレンツェで暮らしていた。
レオポルトが帝位に就くと、マリア・アンナも他の家族と共にウィーンに移ったが、ほどなくして彼女だけプラハに移った。
シャンクロ夫人は、長らくウィーン宮廷にいたため、帝都でマリア・アンナと顔を合わせていた期間は長くなかったという。
そうした話をしているうちに、馬車は坂道をのぼりきり、プラハ城の門をくぐった。
歴史を感じさせるたたずまいの大聖堂を通り過ぎ、少し進んだところで停車した。
目の前にあるのは、淡い色をした館。
最近の建物であろうか。大聖堂のおごそかな外観とは対照的だ。
近くに、別の馬車も停まっていた。クレメンティーネとアマーリアの乗っていたものだ。
すでに馬車から降りた二人は、テレーズの知らない女性と親しげに話をしている。
その女性が着ているのは黒いコート。真冬の屋外にいるかのような格好だ。今日はそこまで寒い日ではないのに、暑くないのだろうか。
テレーズは不思議に思いつつ、馬車から降りる。
アマーリアがこちらに気づいたようで、手招きをした。
「こっちに来て、お姉様を紹介するわ」
テレーズが彼女たちの元に行くと、黒いコートの女性がうやうやしくお辞儀をして名を名乗った。
彼女がマリア・アンナ。
優しそうな微笑みを浮かべる姿は、話に聞いていたとおりの印象だ。
テレーズも相手に合わせ、挨拶と自己紹介をした。
「長旅で疲れたでしょう。ここは宮廷のような贅沢を出来る場所ではないけれど、自分の家だと思って、気兼ねなく過ごしてちょうだい」
マリア・アンナの言うことが、どこかで聞いたことのある言葉と重なる。
すぐに思い出した。
昨年、皇帝夫妻と初めて顔を合わせた時。
自分の家だと思って、気兼ねなく過ごしてちょうだい、と皇妃から言われた。
ナポリ女のことが否応なく頭に浮かび、不快な気持ちが込み上げる。大嫌いな相手のことは極力忘れていたかったのに。
テレーズさん、と呼ぶ声がする。
幻聴だろうか。皇妃やその取り巻きの声が、すぐ近くで聞こえるのは。
いや待て、この聞き慣れた声は、皇妃や取り巻きのものではない。テレーズに敵意を持つ人間が、こんな優しい声で自分のことを呼ぶはずがない。
ならばこの声は……と考えたところで、我に返った。
「テレーズさん、どうかしたの?」
不思議そうな顔をするアマーリア。
クレメンティーネとマリア・アンナも、互いに顔を見合わせ、こちらを見ている。
テレーズは血の気が引いた。たった今、自分は何をしてしまったか。
皇妃のことを思い出してうわの空になり、目の前にいる相手の声を無視していた。
マリア・アンナとは初対面。これから彼女の元で世話になるにもかかわらず、会っていきなり心証を害するような真似をしてしまった。
テレーズは慌てて取りつくろい、精一杯の笑顔を作った。
「い、いえ、お気になさらず。院長をはじめ、こちらのみなさまには、本日からお世話になります」
我ながら、初日からあんまりな失態。テレーズの顔はきっと青ざめている。
【64. 姫君たちのプラハ 前編】




