63. 頼まれ事
この日、テレーズは皇帝の元に赴いた。話をしたいので時間をとってほしいと頼んでいた。
話の内容は、ルイ十八世からの要望もとい命令。
彼の奥方、すなわち今のフランス王妃に関することだ。
現王妃、かつてプロヴァンス伯妃だった彼女。
名前をマリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワという。
彼女の実家はイタリア北西部にあるトリノ。ここはサルデーニャ王国の首都。
トリノがある一帯は、ピエモンテという地方名なので、同国はピエモンテ王国とも呼ばれている。
君主の家系はサヴォイア家。
サヴォイア家は、古くから西アルプスのふもとに領地を有していた。家名は父祖伝来の地に由来しており、フランス語名はサヴォワという。
プロヴァンス伯夫妻はフランスを離れた後、亡命先で王と王妃になった。
ルイ十八世が各地を転々とする一方、王妃はトリノに留まっていた。
ところが、対仏戦争の余波はピエモンテにもおよび、王妃の実家も安全な場所ではなくなりつつある。
王はコンデ軍の駐屯地を去った後、ドイツのブランケンブルクという町に移っていた。
今の住まいはとても狭く、王妃を呼び寄せられないため、いたしかたなく別居している。
以上が、テレーズが手紙で聞いている、王夫妻の近況。
‘王妃の次なる亡命先として、ハプスブルク帝国領内のどこかを提供してほしいのだ’
そして、これが王の要望。また皇帝に口添えをしろと。
テレーズにとっては、気が重くてしょうがない。ウィーン宮廷における敵国女が、フランス王に代わって、皇帝に頼み事をするのだから。
さりとて、自分はフランス王家の女として生きると決めた身。
王の要望は、イコール命令である。
皇帝に嫌な顔をされるのは、百も承知。
一応大事な内容なので、言い漏らしや誤解がないようドイツ語ではなくフランス語で伝えた。
「プロヴァンス伯妃の亡命先を、な」
テレーズが話し終えた後、皇帝が開口一番に言ったこと。フランス王妃と言わないのは、あえてなのか。
皇帝は感情をあまり表に出さない。それでも、こちらが話し始めた途端、不機嫌になったのが分かった。
面倒事を持ち込むなとでも思っているのだろう。
「あなたは、いずれ我が弟の妻となる。その頼み事に耳を貸さないほど、私も薄情ではない」
相変わらず、言っていることと表情が合っていない。
「誠にありがとうございます。私も叔父も、なんとお礼を申したら」
「あなたの叔父御に感謝されても嬉しくないがな」
こちらがすべてを言う前に、皇帝の声が被さった。
テレーズがそうであるように、皇帝もまたルイ十八世のことを好ましく思っていないようだ。結婚問題の他にも、駐屯地での一件が尾を引いているのだろうか。
「ところで、プロヴァンス伯妃とは、どのような女性なのだ」
唐突な質問。
テレーズは、はてと思った。
「叔母に興味をお持ちなのですか?」
「変な意味に捉えるな。あなたの親戚のことを知っておくのは、何らおかしなことではあるまい。あなたはいずれ我がハプスブルク家の一員になるのだから」
質問に他意はないらしい。
おそらく皇帝が求めている答えは、出身国や家系に関することではない。
同じ王家の女性ならではの、個人的なエピソードであろう。
フランスにいた頃の記憶をたぐり寄せた。彼女はどんな女性だっただろう。
ヴェルサイユやパリで顔を合わせる機会は、何度もあった。
だが短い挨拶の言葉を交わすとき以外で、この叔母と口を利いたことがあっただろうか。
「どうした、ヴェルサイユで顔を合わせていたのではないのか」
皇帝から答えを急かされる。
プロヴァンス伯にまつわる嫌な記憶なら、今でもはっきりと覚えている。一方で、伯妃のことはすぐに思い出せない。
しいて言うなら、
(眉毛夫人って、あだ名を付けてたっけ)
女性のわりに濃い眉毛だったので、ひそかにあだ名をつけていた。それが唯一印象に残っている。
だが、この場でそんなことは言えない。
アマーリアにでも話せば笑い話になりそうだが、今目の前にいる相手は皇帝だ。
「あなたも大変だな。たいして記憶にない親戚の面倒を見なければならないとは」
こちらが答えられないでいると、皇帝の言葉に先を越される。身内のこともろくに知らないのかという嫌みを感じた。
テレーズは決めた。
部屋に戻ったら、王に手紙をしたためよう。奥方に関することを教えてほしいと。
便せんの上で尋ねる機会はいくらでもあったのに、テレーズから質問したことは、これまで一度もなかった。
その結果、皇帝から嫌みを言われた。認めたくはないが、テレーズ自身の落ち度だ。
とにもかくにも、亡命先の件は伝えた。
考えておこう、というのが皇帝の答えだった。
皇帝が不機嫌そうにしていた理由。
それはテレーズが持ち込んだ面倒事のせいなのだろうが、もしかしたら他にも理由があったのかもしれない。
イタリア北部にはいくつもの小国があり、フランス共和国が侵攻してくるまで、これらの国々の多くは、オーストリアの影響下にあった。
それに対し、ピエモンテを治めるサヴォイア家は、ハプスブルク家の勢力に対抗していた。
当然ながら、両者の力関係はハプスブルクに傾いていた。
もっとも今は、革命思想なんてものを掲げる軍に侵略されているため、君主国間の対立は棚上げされているのだろうが。
何にせよ、皇帝は心の中で悪態を吐いていたのかもしれない。
ピエモンテの人間のことなど知ったことか、と。
【63. 頼まれ事】
≪補足≫
眉毛夫人は第34話でも登場しています。
≪現フランス王妃の実家≫
作中の説明がややこしくなったので補足。
統治者はサヴォイア家。
父祖伝来の地は、西アルプスのふもとにあるサヴォワ地方。サヴォイアのフランス語名がサヴォワ。
同家の支配領域は、サヴォワ地方からピエモンテ地方に広がっていき、トリノが国の中心地になりました。
同国については第14話解説でも述べているので、そちらもどうぞ。
なお作中では書いていませんが、十八世紀初頭まではサヴォイア公国でした。
長らくスペイン領だったサルデーニャ王国(島)を新たな領土にして、公国から王国に昇格。
島の名前が国名になったものの、国の中心地は、あくまでピエモンテにあるトリノ。
こうした経緯から、文献によってはピエモンテ・サルデーニャ王国と書いているものもあります。




