62. 流浪の民
ウィーンに来た当初、テレーズが連絡をとり合う相手は一部の親戚に限られていた。
それが今では、各地にいるエミグレから手紙を受け取るようになった。
かつての宮廷人であれば、知っている家名も多い。
ただ、相手がテレーズのことを知っていても、こちらは相手の顔を知らなかったり、会ったことはあるが、顔はうろ覚えだったりすることがほとんどだ。
なにせフランス宮廷にマダム・ロワイヤルは一人しかいなかったのに対し、宮廷人は把握しきれないほど大勢いたのだ。
‘マダム・ロワイヤルがご存命との知らせを聞き、どれほど胸をなで下ろしたことか’
‘今年で十八歳。さぞ麗しい姫君に成長しておられるのでしょう’
‘あなた様は、我々の希望です’
こうした美辞麗句をつづっている人々は、成長したテレーズの姿をどのように想像しているのだろう。無垢な少女が、そのまま大人になった姿であろうか。
少なくとも、しゃがれ声の女ではあるまい。
一通一通に目を通し、次のものを手に取る。
差出人はアルトワ伯もとい王太子。ゆくゆくは舅になる叔父。
テレーズの記憶にある限り、この叔父はすらりとした体型で眉目秀麗な男性だった。実の兄弟でありながら、父やプロヴァンス伯とは外見がまったく似ていないと、見かけるたびに思ったものだ。
もっともこの叔父は、革命が起こるなり、真っ先にヴェルサイユから逃げおおせた一人である。
彼からの手紙には、こう書かれている。
‘私とアングレームは、まだエジンバラにいる。本当はロンドンに住みたいのだが、政治的な事情で難しいようだ。
とはいえ、ここでの暮らしも悪くはない。
なにせ私の隣には、ルイーズがいるからな。
彼女は、お前の母とも親しかった女性だ。ルイーズの人となりを知ったら、お前もきっと彼女を好きになるだろう’
アルトワ伯妃もとい王太子妃の名前は、ルイーズだっただろうか。だがこの手紙を読む限り、奥方を指しているわけではなさそうだ。
このルイーズという女性は、王太子とよほど親しい女性なのだろう。
ともあれ、次の手紙を手に取った。
差出人はベリー公。
手紙には、今どこの戦場にいるかという話や、彼の家族の近況について書かれている。
‘母は実家に身を寄せていましたが、別の亡命先に移りました。
渡英したらどうかと勧めたのですが、父のいる国には行かないと頑なです。父の愛人と、よほど顔を合わせたくないのでしょう’
テレーズは思った。もしやと。
この手紙には、王太子の愛人の名前は書かれていない。だが先ほど読んだ手紙で出てきたルイーズという女性が、そうなのではあるまいか。
だとしたら、王太子は破廉恥にもほどがある。愛人を持つという不道徳を隠すどころか、堂々と姪宛ての手紙に書いてくるとは。
(婚外恋愛と革命思想は、この地球上から今すぐ消えてなくなるべきだわ)
心の中で吐き捨てて、他の手紙を開封する。
各地にいるエミグレから届いたものだ。
‘家族と共に故郷を離れ、英仏海峡を渡りました。
船乗りは、我々がエミグレと分かるやいなや、足元を見て、高額な渡航費を要求してきたのです。
船に乗るのを断念し、代わりに用意したのは、間に合わせの材料で作った筏。
その日は大変風が強く、対岸のドーヴァーにたどり着くまで、生きた心地がしませんでした’
‘たしなむ程度だった絵画や刺繍が、今では生計を立てるための手段になっています。
私の友人には、音楽や剣術、行儀作法の講師を始めた者、亡命先でカフェを開いた者もいます’
亡命生活が長引くにつれ、一番の問題になるのは生活費だ。
国を離れる時に私財を持ち出せていれば、それらを売却して金に出来る。けれども亡命生活が長引くと、いずれは底をついてしまう。
他国に住む親戚や知人の援助だけでは暮らしていけず、平民が従事しているような仕事で糊口をしのぐ貴族も少なくないようだ。
‘フランスに残してきた家財や屋敷が、競売にかけられているという話を耳にします。
口惜しくてなりません。どこの馬の骨とも分からぬ者たちが、我が家のものに触れていると思うと’
‘以前であれば、渡英したエミグレは歓迎されていました。
しかし対仏戦争が始まって以来、我々は肩身の狭い思いをしています。
沿岸地域に外国人が居住するのを禁ずる法律が、英国議会で可決されました。海を渡って敵軍が侵攻してきた際、我々は敵に協力すると思われているようです’
エミグレもその数が増えれば、移住した先の社会にさまざまな影響を与えているようだ。
テレーズの元に届く手紙の中には、愚痴や身の上話、頼み事が書かれたものもある。
‘もう給料を払えないと主から言われ、いとまを出されました。現地の言葉をほとんど話せなくても、主の元で仕えるぶんには困らなかったので、ストックホルムで次の職が見つかりません。
冬を越すための暖房費を捻出できるか不安です’
新しい奉公先を紹介してくれという内容。
テレーズの脳裏に、フェルセンの顔が浮かぶ。
彼に頼めば便宜をはかってくれるかもと思ったが、やめておいた。
彼の献身は、きっと母絡みに限定されている。
それに彼は今、一応テレーズの協力者。面倒事を増やして、手をわずらわせない方がいいだろう。
ヨーロッパの北辺から届く手紙もあれば、アメリカから届くものもある。大西洋を渡る航海は、片道一ヶ月はかかると話に聞く。
‘亡命先を転々とした末、ニューヨーク近郊の農場に落ち着きました。不便続きの生活にも慣れ、最近は自家製のバターを作り、地元で販売しています。
この私が平民相手に商いをする日が来るなんて、どうして想像できたでしょう’
手紙は、こう続いていた。
‘ですが、どうしてもアントワネット様のことを思い出してしまいます。プチ・トリアノンの里村で、取れたての牛乳からバターを作り、みなに振る舞っていた姿が忘れられません’
手紙を読むときは、適度に休憩を挟むようにしている。長い時間机に向かっていると疲れるだけでなく、一度にたくさんのことを思い出して、つらくなるのだ。
ウィーンに来てから、もう何度も思った。自分は弱くなってしまったのだろうかと。
この程度の苦しみは、パリで経験した地獄とは比較にもならないはずなのに、手紙を読んでいるだけで精神的に参ってしまうのだから。
しばし感傷に浸っていたが、改めて現実的な問題に目を向けた。
今のテレーズには、同胞の要望に応えられるだけの力がない。励ましの言葉を書き送ることくらいしか出来ない。
目に見える形の援助をしてくれないのかと、文句を言うなら好きにすればいい。見返りを求めて手紙を送ってくる、相手はしょせんその程度の人間なのだ。
再び机に向かう。
あと目を通していない手紙は二通。先に開封したのは、プラハに亡命してる女性からの手紙。
プラハはウィーンより北西にある都市で、ボヘミア王国の首都だった。
ボヘミア王国は、かつて神聖ローマ皇帝を輩出するほどの力を持っていた。
しかし時代が下るとともに、その独立性は弱まり、プラハは今、帝国内の地方都市になっているという話だ。
‘亡命先へ向かう途中で、子供が産まれました。
今の暮らしの中で養っていけるか、不安は尽きませんでしたが、無事に成長しています。
ただ、本来の身分に見合った教育を受けさせられるか。それが一番の心配事です。
近頃この子から、ヴェルサイユの話を聞かせてほしいと、よくねだられます。
この子に一日も早く、私たちが生まれ育った国を見せてあげたい。そう願う毎日です。もちろん、かつての姿を取り戻したフランスを’
惨禍を実体験として知らない世代の子供たちは、親からどのように教えられているのだろう。
フランスで起こったこと、故国を離れざるを得なかった理由、そしてテレーズを除く王一家の最期について。
思いをめぐらせながら、最後に残った一通を手に取った。
はからずも、それは彼からの手紙。
‘頻繁に手紙を書くことを君は許してくれた。このことを、どれほど感謝したらいいだろう。おかげで私は、毎日でも君に手紙を書ける。
君のことを考えるたび、幸福感が生まれると同時に苦しくなる。
私たちの間にある距離、そして希望が現実となる日の遠さを考えるたび、苦しみを禁じ得ないんだ’
現地の天候や住民がうんぬんという内容から、やけに発展している。
(敬意と永遠の愛情が、君に伝わりますように……ですって。ずいぶんな口説き文句だこと)
読みながらわき起こる、むずがゆい感情。この手紙は、本当にアングレーム公が書いた文章なのだろうか。
テレーズは、椅子の背もたれに体を預けた。目をつむり、冷静さを取り戻そうとした。
まぶたの裏に浮かんだ、一人の少年の姿。
すぐに目を開けた。
自分に言い聞かせた。昔は昔、今は今だと。
アングレーム公だけではない。こうして手紙を書いてくる人間は、王家に降りかかった災いを尻目に、安全な場所に逃げおおせた者たち。
さらにさかのぼれば、テレーズの両親への悪意や敵意を隠しながら、上辺だけの敬意を口にしていた者たちだ。
今まで読んできた手紙にしても、一から十まで真実をつづっている者が一人でもいるだろうか。
そう思うと、読みながら感情移入していた自分が恥ずかしくなる。
親しみを抱くのも情けをかけるのも、返事を書くときだけでいい。したためる文章に、心を込める必要はないのだ。
【62. 流浪の民】




