61. 黒衣を脱ぐ
秋になる頃、テレーズは皇帝の家族と共に、ホーフブルクへ戻った。
ある晩、着飾った宮廷人であふれかえる大広間にて。
「ライン川での勝利の話、お聞きになりまして?」
「もちろんですとも。我がオーストリア軍を率いたのは、カール大公だというではありませんか」
「平民ふぜいが作った共和国も、さぞ悔しがっていることでしょうな」
すれ違う人々の口から、カール大公の名前がたびたび出てくる。
テレーズの耳に入ってくるのは、流暢なドイツ語ばかり。カール大公の名前は聞き取れても、会話の内容までは分からない。
「あの喪服を着ている女性が、カール大公のお妃になるの?」
「そうよ。今日も壁際にいるわ」
「ずいぶんと大きなシミだこと。どなたか取り除いてくださらないかしら。見苦しい限りだわ」
「オーストリアに引き取ってもらえなかったら、一生獄中での暮らしだったんでしょう。何をどうしたら、そんなことになるのかしらね」
「無理もないわよ。平民が王族を公開処刑するような野蛮な国ですもの。オーストリアでは絶対にあんなことは起こらないわ」
若い女性の一団が、少し離れた場所からテレーズのことをじろじろ見てくる。
「そういえば、みなさん、この話をご存じ?」
「なに、聞かせてちょうだい」
「ここだけの話よ。彼女はパリの獄中で、どこの馬の骨とも知らない男たちに――」
「ということは、彼女はもう清い体ではないの?」
「あらまあ!」
彼女たちが何を話しているかは分からないが、内容は察しがつく。
敵国人に向けられる表情、目つき、しぐさで。
蔑まれることには慣れている。
パリで経験してきたことの数々に比べれば、これくらい何てことはない、痛くもかゆくもない……と、テレーズは自分に言い聞かせていた。
彼女たちの方を見ていても、気分が悪くなるばかりだ。
視線を外した、ちょうどその時、見知った人物が目に留まった。
クレメンティーネだ。
女性の一団がいる方へと、彼女は歩いていく。
一団は、クレメンティーネに向き直ると、うやうやしくお辞儀をした。
先帝の娘にして、今の皇帝の妹であるクレメンティーネ。一団がかしこまるのも当然であろう。
すると、奇妙なことが起こった。
一団の様子が、にわかに変わった。
各々が気まずそうな表情になり、互いに顔を見合わせる。ほどなくして、一団はその場から立ち去った。
何があったのだろう。
テレーズがその光景を眺めていると、その場に残っていたクレメンティーネが、こちらに顔を向けた。
互いの目が合うと、彼女は微笑みを浮かべる。
先ほどの一団が向けていた冷笑とは違う、テレーズのことを安心させるような表情。
ただ、それはほんの何秒かのこと。
再び背を向けた彼女は、人込みの中へ消えていった。
(もしかして、私のことを助けてくれたのかしら)
こう思うのは、クレメンティーネの姿に、生前の母が重なるからなのだろうか。
ホーフブルクに戻ってきてからも、この従姉との距離は相変わらず。フェルセンには気をつけてという警告も出来ないままだ。
もっとも問題の男は、シェーンブルンで面会して以後、その姿を見ていない。
しばらくして、テレーズはある変化に気づいた。
宮廷の公式行事以外にも、パーティーやお茶会といった集まりに参加する機会が増えた。どれもテレーズの頭越しに組まれた予定だ。
テレーズは見抜いた。これも皇帝の意図だと。
ブルボンではなくハプスブルクを選ばせるための、言うなれば餌。そのために、若い女性が喜びそうなものを提供し始めたのだ。
そして、そのことを承知の上で、テレーズは決めた。
すべての集まりに出席し、積極的に会話に加わる。壁のシミにならず、ちゃんと参加することを。
まず周りから浮かないように、喪服を着るのをやめた。
かといって、亡き家族と王朝への思いは忘れない。
その気持ちを表明するために、濃い青色の何かを身に付けた。服そのもの、別の色の服を着るときには装飾品の色として。
濃い青色にフルール・ド・リスを重ねれば、ブルボン王家の紋章になる。
それと並行して、ドイツ語の勉強に励んだ。
父方の人間と合流し、いずれフランスに帰る。ウィーンに長居するつもりはなかったので、ドイツ語を習得する必要はないと思っていた。
だが今は違う。
宮廷の国際共通語だったフランス語は、今や不遇をかこっている。
ウィーン宮廷のあらゆる集まりに参加するためには、ドイツ語を習得しなければならない。
本気で身に付けるためには、家庭教師の授業だけでは足りない。
起床時から就寝時まで、出来る限りドイツ語を使う。
そのために、アマーリアやシャンクロ夫人、テレーズに仕える女官といった、身近な人々に協力を頼んだ。
フランス王女の拙いドイツ語を笑う者が、この宮廷に大勢いようと構わない。勉強中の外国語がたどたどしいのは、誰でも同じなのだ。
母の遺産を取り戻すまで、何が何でもウィーンに居座る。
たとえどんなに冷遇され、万が一宮殿から立ち退きを命じられることがあろうと、帝都に居座ると決めた。
テレーズの闘いは長期戦になりそうだ。
【61. 黒衣を脱ぐ】




