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60. 十七歳の戦略家

 テレーズの前に、再びあの男が現れた。


「お目どおりが叶ったことを、大変嬉しく思います」

「私もよ、フェルセン伯」


 自分たちが今いる場所は、シェーンブルンにあるテレーズの部屋ではない。来客を迎えるために用意された別室。


 ソファから少し離れた所には、女官が数人控えている。

 どの女官も険しい面持ちだ。監視体制が強化されているのだろうか。


「テレーズ様、そのお声は、いかがなされたのですか」


 風邪気味だとテレーズが答えると、フェルセンは顔を曇らせた。面会をして大丈夫なのかと聞き返す。

 テレーズは大丈夫だと言い張った。

 もちろん風邪というのは嘘。本当の事情を話すと長くなるうえ、そもそもあまり人に話したくない。


 また声のこととは別に、面会に際して不安の種があった。


 あの夜会でフェルセンを目にした時のように、また嫌な考えに襲われて気分が悪くなったら。

 そうなっては、面会どころではない。


 今日は、顔を合わせてまだ数分たらずだが、今のところは大丈夫そうだ。


 フランスにいた頃、テレーズが彼と言葉を交わす機会はあまり多くなかった。一対一で話をするのは初めてかもしれない。


(残念だったわね。あなたの目の前にいるのが、お母様じゃなくて、娘の私で)


 フェルセンが今何を思っているか。いとも簡単に想像できたので、心の中で皮肉を言った。


「遅くなりましたが、ご家族が天に召されたことをお悔やみ申し上げます」


 ご家族と言ってはいるが、フェルセンが悼んでいる相手は、テレーズの母だけだ。

 しいて言うなら、弟と叔母もなのだろうが、間違っても父は入っていない。


 この男が、ルイ十六世の不幸を悼んでいるはずがない。たとえ天と地がひっくり返っても、それはあり得ないことだ。


 上辺だけのお悔やみには、テレーズも当たり障りのない返事をした。


「このたびは、テレーズ様との面会をお許しいただくにあたり、陛下に無理を申し上げました」

「陛下?」


 父のことかと思いきや、


「こちらの宮廷におわすフランツ帝です」


 と訂正された。

 テレーズがたった今勘違いしたことは、フェルセンに気づかれたかもしれない。

 フランス宮廷にフェルセンが出入りしていた頃、テレーズの父のことを、彼は陛下と呼んでいた。どうせ上辺だけ言葉だけの敬意だ。


「自国のことを申し上げるなら、我が主君グスタフ四世にも口添えを頼みました」


 父王グスタフ三世の暗殺を受け、王位を継いだ彼。テレーズと同い年なので、まだ十七歳の若き王だ。


「それなら、私からお礼を伝えなくてはね。グスタフ四世に手紙を書くわ」

「よろしければ、そのお手紙を、私がストックホルムにお届けいたし」

「失礼ながら」


 フェルセンが言い終えるより早く、別の声が割って入った。


「テレーズ様のお手紙は、私どもを通じて、そちらの国にお届けいたします」


 シャンクロ夫人の言葉に、フェルセンは不服を唱えなかった。




 面会は一時間たらずで終わった。話したことは互いの近況報告など、これといって重要な内容ではない。

 フェルセンがソファから立ち上がる。その一挙一動を、テレーズは穴が開くほど見つめた。嫌いな相手を凝視するのは精神的苦痛だったが、それでも耐えた。


 何故そうしたか。

 話をしている最中、フェルセンの手元が、テレーズの目に留まった。

 その手の動き、しぐさに、見覚えがあった。


 チュイルリーにいた頃、母が考案したジェスチャー。誰がスパイかも分からない中、意思疎通をはかるためのもの。

 フェルセンが今見せた手の動きが、それを彷彿とさせたのだ。


 あのジェスチャーを用いていたのは、家族を含むごく限られた人のみ。それを何故フェルセンが知っているのか。

 その疑問は脇に置いた。

 もしかしたら、この場に控えている女官たちの目を盗み、彼は何かを伝えようとしているのかもしれない。


 ソファを離れたフェルセンは、そのまま退室するかと思いきや、壁際で立ち止まった。ちょうど女官たちに背を向ける形で。


「よく育った白百合ですね。部屋に入ってすぐ、目に留まりました」


 棚の上に置かれていた、深さのある鉢植え。ひとつの鉢植えに何本かの白百合が植えてあり、いくつもの花を咲かせている。


「私もよ。きれいに咲いているでしょう」


 テレーズは彼の隣に並んだ。言葉や振る舞いが不自然にならないよう、最大限注意を払いながら。


「以前、話に伺ったことがあります。白百合はテレーズ様の一番好きな花だと」


 花弁に触れながら、彼は言う。


「あら、よく知っているわね」

(お母様ったら、娘の好みをこの男に教えないでほしいわ)


 亡き母へ悪態を吐く。今フェルセンが言ったことは、どうせ母から聞いた話であろう。

 また、


(それにあなたも、私の一番好きな花に軽々しく触れないでちょうだい)


 目の前にいる相手に、文句を言いたい気持ちも押し殺す。


 すると、フェルセンの手が動いた。

 花弁から離れ、鉢の縁に触れ、すぐに離れる。

 今、その手から何かが滑り落ちた。折り畳まれた、とても小さい紙のようなものが。


 フェルセンがこちらを見る。

 これを受け取ってください、と言うかのように。


 テレーズは思案した。

 女官たちがいる場所から、テレーズとフェルセンの姿は、どう見えているのだろう。


 もしテレーズが鉢植えに手を差し入れて、その場面を女官たちに見とがめられたら、間違いなく面倒なことになる。


 一方のフェルセンは、自分の好きな花や植物のことを語り始めた。

 考え事をしているテレーズは、受け答えがおざなりになる。それでも会話が不自然にならないのは、こちらの返答が最小限でいいように、フェルセンが話し方を工夫しているためかもしれない。


 決めた。

 万一見とがめられてしまったら、その時は、フェルセンのせいにすればいい。

 先に行動を起こしたのは彼だ。

 テレーズは、言うなれば乗っかっただけ。


 何かあったら、フェルセンのせいにすればいい。

 そう自分に言い聞かせながら、鉢植えに手を伸ばした。




 フェルセンが退室した後、テレーズは自分の部屋に戻った。


 いつもなら、部屋に戻ってすぐに、ココをケージから出す。

 だが今ばかりは、ココには悪いが少し待ってもらいたい。テレーズには何をおいても優先したいことがある。


 先ほど回収したもの。さっそく中を見てみる。

 案の定、それはメモ。

 余白を埋めるようにして、フランス語でこう書かれていた。


 母が子供たちのために残した遺産。それは今、皇帝の手中にあるが、皇帝はテレーズに遺産を渡すつもりはない。テレーズの持参金に充てるという名目で、我が物にしようとしている。フェルセンが皇帝に謁見した時、皇帝本人が話していたことだ、と。


 テレーズは、メモごと拳を握りしめた。

 脳裏に浮かぶのは、あの渋面。

 どうやらテレーズの結婚問題は、母の遺産までもが絡んでいるらしい。


 フェルセンからもらった情報は信じていいだろう。

 彼を信用しているというより、それが他でもない母の遺産だからだ。


 あの男はきっと、テレーズの母が絡めば、どこまでも献身的になる。


 ならば、その献身さを利用する。

 目的のためには、使える人間は使う。たとえそれが、両親の仲を引き裂いた間男であろうとも。


 決意を新たにしたところで、ふと窓の外に目が留まった。


 フェルセンが女性と話をしている。相手は二人。

 よく見ると、クレメンティーネとアマーリア。会話が弾んでいるのか、彼女たちは楽しそうに笑っている。

 まさか、フェルセンは二人を引っかけているのではあるまい。


 マリー・アントワネットに邪心を持つばかりか、その姪にも色目を使う。実際にそうなら、とんでもない節操なしである。

 だが、あり得ないことではない。

 容姿が良いばかりか優雅にふるまえる男は、すぐに女をたらし込む。これはテレーズの経験則だ。


 そこで思い出した、大変なことを。


 クレメンティーネは、テレーズの母に生き写しだ。

 彼女を前にして、フェルセンが何も思わないはずがない。


 テレーズは今一度窓の外を見た。手元に望遠鏡がないのが惜しい。

 思ったとおり、フェルセンはクレメンティーネの方ばかり見ている。アマーリアの方はまったく見ていない。彼の後ろ姿しか見えないが、テレーズの目には、そう見えるのだ。


 クレメンティーネが危ない。

 異国に婚約者がいる身でありながら、叔母の愛人だった男の毒牙にかかるかもしれない。

 本人に警告した方がいい。フェルセンには気をつけるべきだと。


 だが彼女は、テレーズのことを避けている。

 こちらから何を言ったところで、聞く耳を持ってもらえないどころか、今よりさらに嫌われてしまうかもしれない。


 それでも危険を予期した以上、黙っているのは良心が痛む。

 なにせテレーズは、あの男によって家族の幸せを壊されたのだ。実害を被った経験者として、被害者が増えるのを見過ごしてはおけない。


 ふたつの問題が降ってわいた。

 ひとつは母の遺産。もうひとつは、従姉の貞操の危機。

 テレーズの人生においては、前者の方がはるかに重要な事柄。だが個人的な感情を優先させるなら、後者も前者と同じくらいの大ごとだ。


 ケージの中にいるココの鳴き声が大きくなるまで、テレーズは悶々と悩むのだった。




【60. 十七歳の戦略家】


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