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49. 生きる理由 中編

 テレーズは、またバルコニーへ出ることにした。

 ルネットとゴマン氏に付き添われ、ココと同じ姿をした犬の相手をした。雨で屋外に出られない日を除き、毎日。


 そのおかげか、こちらから犬に手を伸ばしても、犬は嫌がるそぶりを見せなくなった。


 テレーズがそうであるように、弟の待遇も改善されているはずだ。すでに健康を取り戻していれば、バルコニーへ出て、この犬と遊んでいるかもしれない。

 そうであったら嬉しい。

 そうであってほしい。

 我が目で確かめたいのに、それが出来ない。姉弟の距離は、厚い壁と床で遮られたままだ。


 手元に感じたくすぐったさ。

 見れば、犬が鼻先を寄せている。

 下あごを撫でれば、つぶらな瞳が細くなる。気持ちよさそうにする姿は、ココにそっくりだ。


「そうだわ。テレーズさん、ブラッシングをしてみたらどうかしら。触れ合うことで、ココがあなたのことを思い出すかもしれないでしょう」


 ルネットは、この犬をココと呼ぶが、テレーズはその名前で呼ぶつもりはない。

 ココという名前は、ココだけのものだ。


 ともあれ、やってみるとテレーズは答えた。

 その場にいたゴマン氏が言った。ブラッシング用のくしを明日持ってくると。


 出会ってからまだ日が浅いが、この犬とも出来ることなら仲良くなりたい。一緒に過ごすうちに、そう思えるくらいの愛着が生まれていた。


 この犬にも名前を付けた方がいいだろう。

 どんな名前にするか、弟に相談できたら。


 歯がゆさを感じながら、垂れ耳に触れた。ココは、耳の付け根を撫でられるのも好きだった。


 その時、脳裏に遠い日の情景が浮かんだ。


 まだ地獄を知る前の、懐かしい思い出。

 プチ・トリアノンの庭園、追いかけっこをする弟とココ。

 新発見だと言い、弟がココの垂れ耳をめくった。

 珍しい所にあるほくろだと、女官が言っていた。

 確か、テレーズは弟に尋ねた。ほくろがあるのは右左どちらの耳か。

 弟は元気よく答えた、右耳だと――。


 思い出した途端、テレーズの心臓は激しく動き始めた。

 一旦胸に手を置き、気持ちを落ち着かせる。


 震える手で、犬の右耳を慎重につまむ。

 ゆっくりとめくり、裏側を見た。


 あった。

 ほくろがあった。

 この犬は、正真正銘のココだ。


 込み上げてきたのは、自責の念と涙。

 自分たちは、あの地獄を生き抜き、再会できた。それなのに、どうして偽物だと疑ってしまったのだろう。


 本物のココなら、テレーズや家族のことを思い出せないままでもいい。忘れてしまった絆は、これからまた育めばいいのだ。


 ルネットとゴマン氏から、どうしたのだと心配げに尋ねられるが、今のテレーズには返事をする余裕がない。

 泣いている姿を野次馬に見られても構わない。


 赤茶色の体を両腕で抱き、顔を埋めた。ココが身じろいでも、今だけはこうしていたかった。





 別の日には、また驚くことが起こった。


 いつものようにココと遊んでいた時、遠くから男性の歌う声がした。


 初め、誰かが嫌がらせで、革命賛美の歌を聞かせているのだと思った。

 だが耳に入ってくるのは、そうしたたぐいの歌詞ではない。


(若い、不運な人よ、すぐに扉は開かれます――)


 聞こえてくる歌詞を頭の中で繰り返しながら、テレーズは辺りを見回した。


 正面に位置する建物。

 最上階の窓から、身を乗り出し、こちらに向かって大きく手を振る人影がある。


 よく見ると、テレーズたち家族に最後まで仕えていた従僕。

 王族に仕えていた(かど)で、彼も父と同じ目に遭っているのではと危惧していたが、無事でいてくれた。


「テレーズさんの知っている方?」


 ルネットに彼のことを教えた。彼はユー男爵といい、父が亡くなった年の春まで、家族に仕えていたのだと。


 そして、今一度耳を澄ませた。

 すぐに扉は開かれます。そのことを、テレーズも信じている。





 夏が終わる頃。

 長らく欲していたことを、ルネットから聞かされた。だがその内容は、予想していたあらゆる可能性の中で最悪のもの。


 家族は、テレーズ以外すでに全員亡くなっている。

 父が処刑された年の秋、母も同じ道をたどった。

 翌年春には叔母も。

 さらにその翌年、今年の六月に、弟は息を引き取った。


 ルネットと知り合った時には、テレーズはすでに孤児となっていた。

 自分一人だけが何も知らなかった。何も知らずに、のうのうと生きていたのだ。


 テレーズさん、とルネットの呼ぶ声が、遠く意識の外で聞こえる。


 扉の閉まる音。

 気づけば、夕日の差し込む部屋にテレーズだけが残されていた。

 ルネットはおらず、彼女の荷物もなかった。




 その夜、テレーズからゴマン氏に伝えた。しばらく授業を休みたいと。




 翌日。

 目を覚ましたテレーズは、寝台の上で体を起こした。

 身づくろいも何もしない。

 毎日の日課だった掃除も、運動のために室内を歩くこともしない。

 ただし食事は受け取り、食器を空にする。

 ゴマン氏に何度か声をかけられたが、一人にしてほしいと答えた。


 朝から晩までほとんど何もせず、ただ鉄格子の窓を見上げ続けた。




 その翌日も、そうして丸一日過ごした。

 さらに、その翌日。

 めまいがするやいなや、目の前が真っ暗になった。




 テレーズの視界に、光が入り込んだ。

 目の前には、ルネットとゴマン氏の顔。二人とも深刻そうな表情。


「わ、たし……」


 テレーズの口から出てきたのは、しゃがれ声というより、かすれた声。


 ゴマン氏が、医者を呼んでくると言い残し、部屋から出ていく。


 医者と言ったが、テレーズが今寝かされているのは病院の寝台なのか。タンプル塔から出られたのだろうか。

 そう思った矢先、見慣れた鉄格子の窓が目に留まった。


「私が、あんな話をしたからね」


 ルネットが重い口を開くように言う。


「……あの、話は、嘘?」


 テレーズは飲まず食わずでいたせいか、いつにもまして声が出せない。


「いいえ、事実よ」


 嘘や夢だったら、どれだけ幸せだっただろう。


 するとルネットがおもむろに寝台を離れ、ある物を手にして、こちらに向き直った。


「ぶしつけを承知で、中を見させてもらったわ」


 部屋にあったチャンバーポット。本来は汚物を入れるものだが、


「出された食事を入れていたのね」


 テレーズのしようとしていたことは、もう隠せない。


「死にたかったの……」


 食事をすべて捨てていた。何も口にしなければ、いずれ餓死する。


「テレーズさん!」


 ルネットはチャンバーポットを置くと、寝台に身を乗り出し、テレーズの両肩を掴んだ。


「私は、あなたにこんなことをしてほしくて、ご家族のことを打ち明けたんじゃないわ」

「あなたに、何が……」


 テレーズは彼女をにらみ付けた。思うように声が出せる状態だったら、こう言い返していただろう。


 あなたに何が分かるのよ!

 私たち家族がどんな目に遭ってきたか、あなたは何も知らないくせに!

 今のフランスに、王政を廃した国に、孤児の王女なんて必要ないのよ!


 涙があふれてくる、今になって。

 家族の死を知らされてから、今まで、ひと粒の涙もこぼれなかったのに。


 ルネットの手が、肩から離れた。


「あなたたちご家族がどんな目に遭ってきたか、私は話に聞いているだけ。知ったようなことを言える立場でないことは自覚しているわ。それでも、言わせてちょうだい」


 諭すような口調で彼女は続ける。


「テレーズさんにはどうか、生きる理由を見つけてほしいの。あなたが今言ったことを、もう二度と考えないのであれば、どんなことでも構わないから」


 テレーズの生きる理由。

 地球上のどこを探しても、そんなものは存在しない。




【49. 生きる理由 中編】


≪タンプル塔での世話役≫

 史実では三人いました(ローラン、ゴマン、ラーヌ)。

 作中では、彼らのうち任期が最長だったゴマンの名前を採用し、ずっと同じ人が務めていたとしています。


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